■スターリンの暗殺者「第四章 終戦前夜」13
【四章の主な登場人物】
■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋
■上島隆平 F機関の利け者
■東金光一 F機関の事務方
■神谷恂一郎 F機関で最も若くムードメーカー
■アンドロイ・アフメーロフ ソ連内務人民委員部(NKVD)所属の間諜
■イリヤ・モシンスキー ソ連内務人民委員部(NKVD)ハバロフスク支局長
■イワノビッチ・スモクトノフスキー ソ連政治局員
■ニキータ・フルシチョフ ソ連政治局員
■大木大尉 虎頭要塞守備隊・砲兵隊長
■1945年7月27日 満州国・新京
満州国は昭和七年(一九三二年)に成立し、昭和九年に清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀が康徳帝を即位し元号も康徳と改められた。また、かつての長春を新京と改め首都とした。新京の駅名表示には、漢字、ローマ字、キリル文字が併記されており、日本語、中国語、英語、モンゴル語、ロシア語に対応していた。文字通り、中国人、モンゴル人、日本人、朝鮮人、ロシア人などがいきかう街だった。
満州国の首都だけあって、新市街には公官庁が整備され、首都機能が集中した。上下水道、道路、路面電車などの交通網も整備され、関東軍司令部、憲兵隊司令部、日本大使館、満州中央銀行なども置かれた。また、東京海上ビル、東洋拓殖ビルなどの建物も偉容を誇っていた。
そんな新京の商業地域にある「ロシア商会」という名前の小さな貿易会社をF機関が監視することになったのは、社長のアンドレイ・アフメーロフがソ連内務人民委員部(NKVD)所属の間諜である疑いを持ったからだった。
ロシア商会という、いかにもな名前を持つ貿易会社は、社長のアンドレイの他に中国人の男女がひとりずつしかいない所帯だった。男が力仕事を担当し、女が事務をとっていた。仕事の内容は、キャビアやウォッカなどのロシアの特産品を輸入し販売することで、アンドレイは仕入れと称してたびたびソ連と満州を往き来していた。
F機関は、ノモンハンでの手痛い敗戦によってソ連情報の正確な収集が必要だと痛感した参謀本部が作った特務機関だった。
昭和十四年(一九三九年)、関東軍は参謀本部を無視してノモンハン事件を起こし、ソ連軍の前に敗北を喫した。大勢の兵士を無駄死にさせ、敗走の責任をとって何人かの司令官は自裁し、何人かは惨敗の責任を前線の司令官に押し付けようとする参謀たちから病室での自決を強要された。
参謀本部は対ソ情報の重要性を認め、翌年の昭和十五年、陸軍中野学校一期生で早稲田大学時代にロシア文学を学んだFこと藤崎一馬を満州に派遣し、F機関を創設させた。しかし、F機関は参謀本部直属だったため、関東軍とは犬猿の仲だった。
この五年間、藤崎たちは貴重なソ連の情報を収集し、参謀本部に報告してきた。同時に関東軍司令部にも情報は上げていたのだが、関東軍の参謀たちはF機関の情報を無視することがほとんどだった。
昭和二十年四月、ソ連は日ソ中立条約の延長をしない旨を申し入れてきたため、条約は一年後に失効することが決定した。にも関わらず、日本外務省はソ連を連合国との仲介役として期待する傾向があった。参謀本部はソ連の狙いを判断できず、条約延長拒否の理由を探ることをF機関の最優先事項とした。
藤崎たちは五年間で培ったルートを活用し、懸命にソ連の内部情報を探ったが、思うように情報は集まらなかった。そこで、目を付けたのが五年間監視を続けてきたロシア商会のアンドレイ・アフメーロフだった。五年前に通信の傍受に成功し、アンドレイがソ連の諜報員であることは判明した。
その後、アンドレイの監視盗聴によって重要な情報を入手できたが、昭和十六年四月に日ソ中立条約が成立し、満州と国境を接するソ連の脅威がなくなった日本軍は「南進」を決定し、資源を求めてフランス領インドシナへ侵攻した。参謀本部も条約締結によってソ連脅威説を下ろし、F機関の報告も軽視されるようになった。
ところが、敗色濃厚になった今、にわかにソ連の動向が重要になってきたのだ。外務省および東郷外務大臣は、ソ連を仲立ちにして連合国との講和を図ろうとしていたし、参謀本部の一部にはソ連の対日参戦を心配する人間もいた。そんな状況の中、昨日、連合国側からの「ポツダム宣言」が一方的に発表された。
ポツダム宣言にはソ連は署名していなかったため、大勢は中立条約が来年四月まで効力を持っているからソ連の対日参戦はないだろうという予測だったが、藤崎はソ連参戦を確信し、その裏付けとなる情報収集のために躍起になっていた。しかし、決め手になる情報は入手できず、焦った藤崎はアンドレイに直接コンタクトする計画を立てた。
「奴と接触するって?」と、上島が言った。
新京の官庁街にある雑居ビルの一階である。「日満文化交流協会」という看板の出た事務所だった。「F機関の知恵袋」と言われる最年長のWこと渡辺三郎、藤崎と中野学校で同期だったUこと上島隆平、若手のKこと神谷恂一郎、データ分析に強いTこと東金光一、それに藤崎の五人が揃っていた。
「そうだ。早急にソ連の対日参戦の意志を探り出さなければならん。戦局は非常に不利だ。先月、沖縄がアメリカ軍に占領された。本土は、連日の空襲に遭っている。この五年、アンドレイの言動は監視し盗聴してきた。彼の弱みも、望みも、欲望もわかっている。こちらに転ばせることができるかもしれない」と、藤崎は言った。
「買収か」と、上島が言う。「確かに、奴は金に汚い。それに共産主義に信念を持っている人間でもない。欲望に弱く、金と女になびく」
「それで、奴を落とせると----」と、渡辺が確認する。
「落とすしかない。奴を二重スパイにしてソ連に送り込み、情報を取得する」と、藤崎は言った。
「Fさん、焦ってませんか?」と、東金が冷静な声を出した。
「焦っている。だから、一か八かの賭けをする。ポツダムでの会議には、ソ連からスターリンとモロトフが参加している。ポツダム宣言には署名していないが、ソ連は連合国側だ。トルーマンとスターリンがどんな話をしたのか、早急に探り出さねばならん」
全員が藤崎を見つめた。心配する顔、異論を持つ顔、それぞれだが、藤崎が出した結論を彼らは飲んでくれるし、そのために最大の力を発揮してくれる。だから、失敗は許されない。幸い、今まで大きな失敗はなかったが、それはいつも成算のある計画を立ててきたからだ。今回は本当に賭けだ。賭けに勝つしかない、と藤崎は思った。
「あなたがそう決めたのなら、みんなに否はない。計画を話してください」と、渡辺が四人を見渡して答えた。
■1945年7月28日 満州国・新京
アンドレイ・アフメーロフは、いきつけのナイトクラブ「金馬車」に顔を出した。もう十時を過ぎていたが、彼がご執心のナターシャは、まだ日本人の客と踊っていた。満州では、どこでも日本人が威張っていた。まるで自分の国のように振る舞っている。アンドレイはテーブル席に座り、ボーイにウォッカを頼み「ナターシャがあいたら、きてほしい」と言った。
ナターシャがやってきたのは、十時半を過ぎた頃だった。アンドレイはナターシャを目当てに、もう半年近く通っていた。毎回、ナターシャを口説くのだが、色よい返事は返ってこない。もちろん、その間に金で買った女や他の酒場の女とも交渉があったが、ナターシャに対する気持ちは募るばかりだった。
ナターシャ・ジェルジンスキーは、革命で逃げ出した白系ロシア人の娘だった。祖父母と父母に連れられてロシアから大連に逃げてきた時には、まだ二歳だったという。ということは、今、二十八歳である。しかし、二十代前半にしか見えない。大連で成長し、満州国が成立した後に新京に移ってきた。クラブ勤めにしては、身持ちの堅い女だった。
「ナターシャ、そろそろ私の気持ちを受け入れてくれよ。焦らされすぎて、おかしくなりそうだ」と、アンドレイは大げさな身振りで言った。
「いいわよ」とナターシャが答え、アンドレイは、耳を疑った。
「もうすぐ店が終わるから、新京満鉄ホテルで部屋を取って待ってて。部屋が決まったら電話してね」
「本当かい」
「嘘は言わないわ」
そう言うと、ナターシャは席を立った。その後ろ姿を見送りながら、アンドレイは頬がゆるむのを抑えられなかった。
一時間後、アンドレイは裸のまま呆然と、ダブルベッドの足下に立つ日本人を見上げていた。どうしてこんなことになったのだ、と考えようとしたが、パニックになったのか、何も浮かんでこない。
「私は、もういいのね」
ナターシャがバスローブを引き寄せて、ベッドから立ち上がった。そのまま下着を身に付け、洋服をまとい、この部屋に入ってきた時の姿に戻った。さっき、アンドレイの裸の胸に裸身を寄せてきたのが、嘘のようだった。
いよいよ思いが遂げられるとナターシャを抱いた時、彼女が顔を背けたと思ったら、ドアが開き、ふたりの男が飛び込んできた。ひとりがカメラを向けると、フラッシュを焚いた。目の前が真っ白になった。
フラッシュの光で、まだ目がくらんでいた。チカチカする。それでも、ようやく自分が罠にはめられたのだとわかった。美人局だろうか。この日本人は、ナターシャの情夫なのだろうか。金で片が付く話なのだろうか。様々な思いがアンドレイの頭をよぎった。
「アンドレイ・アフメーロフさん」と、日本人はロシア語で言った。
カメラを持っているのも日本人だった。その男は、アンドレイの右後ろに立ち、アンドレイの逃亡を警戒していた。反撃はできそうになかった。それに、裸だ。アンドレイは裸の体にシーツを巻き付けた。
「あなたがNKVDの諜報部門の人間だということは、わかっている」
そういうことか、とアンドレイは思った。女がらみのトラブルではない。ナターシャは金で引き受けただけだ。この日本人は、軍関係者か、特務機関員なのだろう。
「こんな写真くらいで、私は脅せないぞ」と、アンドレイは言った。
「そうでしょうか。この写真がNKVD内に公表されたらまずいのではありませんか。相手が革命を逃れ亡命した白系ロシア人だと、よけいにまずいでしょう。ほんのささいな疑いで、収容所送りになったり、処刑された人間は数知れないのでは?」
アンドレイは、絶句した。確かに、今のソ連では、ささいなミスが死を招く。この日本人と接触したことが上部にわかると、それだけで疑いを持たれる。寝返ったのではないか、何か情報を漏らしたのではないか、そう疑われるのは間違いない。疑われるだけで、死がやってくる。
「私は、日本の参謀本部直属の特務機関員です。そう名乗った私と接触したことを、本部に知らせてみますか。Wさん、私たちの記念写真を撮ってください」と、日本人はいたぶるように言う。
Wと呼ばれた男がカメラを捧げて、アンドレイの前に立った。日本人はシーツを巻き付けているアンドレイの横に座り、アンドレイの頭を両手でつかんで正面を向かせ、自分もカメラを見つめた。フラッシュが光る。
「これで、先ほどの写真を撮られた後、日本の特務機関員とも会ったことの証拠が残りました。女との写真をネタに、寝返りを強要された証拠です。もしかしたら、こちらの写真の方が効き目があるかもしれませんね」
日本人の言う通りだった。そんな写真が組織の上部に渡ったら、間違いなく粛正される。一度疑われた諜報員に復活はない。
「私はFと名乗っておきます。彼はW」
Fと名乗った日本人は、顎でカメラを持った男を示して言った。
「単刀直入にいきます。取引の提案です。あなたの国では、ささいな疑いでも致命的だ。あなたは処刑されるか、収容所に送られる。しかし、私の提案に同意すれば、あなたには大金が支払われるし、満州にでも日本にでも亡命できる。いかがですか」
「何をすればいい?」
「ソ連は対日参戦をやる気があるのか、それともないのか。それを知りたい」
「そんな高度な政治判断、私にわかるものか」
「それを探ってもらいたい」
「誰もスターリンの考えはわからんよ」
「何とか探れませんか。そうしないと、先ほどの写真が、あなたの組織に送られることになる」
アンドレイは沈黙した。ここで、あくまで拒否すれば、この日本人たちはどう出るだろう。おそらく、殺される。母国に帰還しても死が待っているとしたら、金を受け取り、日本人の提案を受け入れれば、この場は生き延びることができる。
「わかった」と、アンドレイは答えた。
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