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2024年12月 7日 (土)

■スターリンの暗殺者「第四章 終戦前夜」15

【四章の主な登場人物】
■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋
■上島隆平 F機関の利け者 
■東金光一 F機関の事務方
■神谷恂一郎 F機関で最も若くムードメーカー
■アンドロイ・アフメーロフ ソ連内務人民委員部(NKVD)所属の間諜
■イリヤ・モシンスキー ソ連内務人民委員部(NKVD)ハバロフスク支局長
■イワノビッチ・スモクトノフスキー ソ連政治局員
■ニキータ・フルシチョフ ソ連政治局員
■大木大尉 虎頭要塞守備隊長・砲兵隊長


■1945年8月4日 ソ連・ハバロフスク

不思議なことに、藤崎たち五人の取り調べは、一日目は行われなかった。彼らは別々の部屋に入れられ、放置された。放置されることで疑心暗鬼が生まれる。それぞれひとりだから、他の人間がどうなっているのか、何を話したか、想像し、不安になる。それを狙ってのことだと、皆、わかっているはずだ、と藤崎は思った。
 
相手がどういう方法で尋問してくるか、どういう心理戦を仕掛けてくるか、どれも予想がついた。F機関の全員を藤崎は信じている。個別に隔離され、放置された時、何も話さないことだ。相手は「他の人間は、こう言ってるぞ」とカマをかけてくる。しかし、仲間を信じて何も話さない。ただ、耐えるしかない。
 
二日目の午後になって、藤崎の部屋の鉄製の扉が開いた。そこには、NKVD将校の制服姿のアンドレイ・アフメーロフが立っていた。顔つきまでが違っているように見える。一瞬、アンドレイは頬を緩めたが、また真顔に戻り、部屋に入ってきた。
 
こちらが騙されていたのか、と藤崎はため息をついた。自分の焦りが、他の四人も巻き込んでしまった。五年間、監視と盗聴を継続し、アンドレイの弱点をつかんだつもりだったが、盗聴も監視も知ったうえで、この男は金と女に弱い諜報員を演じていたのだ。

「藤崎一馬、その名前で呼んでいいですか?」と、アンドレイは言った。
「こちらのことは、すべてわかっているということか」
「そうです」
 
そう言うと、アンドレイは鉄扉を閉めた。ふたりきりになることを警戒していない。自信に充ちた態度だった。しかし、なぜ、この男は自分の上司を殺したのか。
「あなた方は日本の諜報機関の人間で、我が国の日本への参戦時期の情報を得るために潜入し、NKVD極東支局長を尋問し殺害したことで拘留されています。我が国と日本が交戦状態になれば、我が国に潜入したスパイは処刑されても文句は言えません」
 
藤崎は部屋の隅にあった丸椅子に腰を下ろした。死ぬのは覚悟していた。しかし、他の四人も道連れにしてしまったことを悔やむ気持ちが消えない。確かに、彼らも死ぬ覚悟はしているだろう。だが、藤崎が無理な計画を立てなければ、死なずにすんだのだ。

「仲間のことを考えていますね」
藤崎は、アンドレイを睨んだ。こいつには本当に騙された、と思うが、諜報員としての能力は尊敬に値する。そして、今もまだ、彼の計画は進行中なのだ。こいつの狙いは何だ、と藤崎は目に力を込めた。

「他の四人を救うことができる提案があります」
「おまえの狙いは、何だ」と、藤崎は口を開いた。
「それを話す機会はあるかもしれませんが、今は言えません」
「おまえは、自分の上司を殺した」

「そのことですが、あなたが殺したことにしてくれませんか。私が殺したと話しても信じてもらえませんよ。そもそも尋問官は私ですしね。それに、私があなた方に寝返り協力したと話しても、すでに私の報告書が出ています。あなたたちをソ連領に誘い込み、捕らえるためだったとなっています。あなたたちの特務機関は、私たちにとっては目障りでした。日本語で言う『目の上のタンコブ』です。ただ、ソ連と日本は中立条約を結んでいるから、敵対しているわけではない」

「だから、手を出さなかったと----。しかし、今になって我々を捕らえても意味ないだろう」
「そんなことは、ありません。近々、我が国は日本に宣戦布告します」
「おまえは、殺されたイリヤの後釜になるのか」
「よく、わかりましたね」
「それが殺した理由か」
「それだけでは、ありませんがね」
アンドレイはクックッと、さもおかしそうに笑った。優越感に浸っているのだ。

「さて、話を戻しましょう。あなたがイリヤを殺したことにしてくれれば、あなたにあるチャンスを差し上げます」
アンドレイは背筋を伸ばし、顎を引き、カツカツと軍靴の音を立てて、部屋の中を歩いた。鍛えられた軍人のような歩き方だった。

「チャンス?」
「ここを脱出し、あなたが入手した情報を日本軍に届けることができるチャンスです」
藤崎は、一瞬、アンドレイが言った言葉を理解できなかった。混乱しそうになる。

「どういうことだ?」
「ただし、条件があります。情報を伝え終わったら、ここへ帰ってくること。あなたに与えられる猶予は二十四時間」
「今日は四日だ。今から脱出しても、虎林に着くのは五日になる。今日、明日にでもソ連軍は国境を越えるつもりか」
「それは、わかりません。もしかしたら、あなたの情報で関東軍は我々を迎え撃つ準備ができるかもしれない」
「なぜ、そんなことをする?」
「話せません」

「情報が漏洩した事実が、必要なんだな」と、藤崎は確信したように言った。「おまえは、NKVDのために動いていない。だから、支局長も殺した。もっとも、ソ連じゃ突然の粛清や処刑は日常茶飯事らしいが----」
 
アンドレイが薄笑いを浮かべた。的を外したわけではないらしい。いや、図星だったのかもしれない。NKVDの長はベリヤだったはずだ。大粛清を行い、数知れない人間を処刑し、収容所に送った男。最も恐れられている人物だった。
 
そのベリヤと彼が率いるNKVDに、瑕疵をつけようとしている人物がいる。アンドレイは、その人物に忠誠を尽くしているのではないか。NKVD極東支部を掌握するために支局長を殺し、その地位に就く。それが目的のひとつ。さらに----。
 
NKVD支局長が尋問に耐えかねて日本の諜報員に重要な情報を漏らし、その情報が日本側に伝わる。その情報遺漏の責任は誰かが取らねばならない。当然、NKVDトップのベリヤだろう。ベリヤを追い落としたい誰かが責任を追及する。結局、クレムリン内部の権力闘争なのだ。

「私の提案を呑むのなら、私が出た後、扉を開けるといい。ただし、さっきも言ったように、あなたは二十四時間後には戻っていなければならない。そうしないと、他の四人は銃殺刑に処せられることになる」
「何だと」
「あなたが戻れば、四人は収容所送りになります。ただし、あなただけは軍事法廷で裁かれます。その場合、銃殺になる可能性もある」

日本人諜報員によって対日参戦の日にちが漏洩した事実を作りたいが、その証人は抹殺したい。そのために、四人を人質に取る。

「あなたの名誉と仲間への友情のために、あなたとの取引の内容は彼らにも知らせておきます。それが、精一杯の私の好意ですよ」
そう言うと、アンドレイは懐から藤崎の旅券と財布を出してテーブルに置いた。昨夜、取り上げられたものだった。

「こちらに選択の余地はないということか」
「そういうことです」
 そう言って、アンドレイは鉄扉を開き出ていった。

■1945年8月5日 満州・虎頭
 
虎頭要塞はソ連に対する満州防衛の要として構築された、東西十キロ、南北四キロに及ぶ巨大な要塞である。ウスリー江に面した猛虎山の丘陵に建設され、昭和十八年に完成した。五十キロの射程距離を持つ巨大な砲台を持ち、迷路のような地下通路が縦横に走っている。ソ連国境の向こうにシベリア鉄道を見ることができ、その破壊が可能だった。
 
しかし、日ソ中立条約締結によってソ連が仮想敵国ではなくなった後、配備されていた守備隊を減らし、その人員を南進への兵力に充当した。だが、今年四月の条約更新をしないというソ連側の対応を警戒し、この七月に千四百人の守備隊が改めて配置された。
 
ハバロフスクを出発した十時間後の八月五日早朝、虎頭要塞の背後の門に藤崎はたどり着いた。警備兵が両脇に立っている。巨大な要塞の後部は小山のふもとのようなもので、それほど目立たないし、この先に砲台があるとは想像できない。

「F機関のFが面会したいと、守備隊長の西脇大佐に伝えていただきたい」
藤崎は、警備兵のひとりに向かってそう言った。
「西脇大佐は、司令部に出張中であります」と、警備兵が答えた。
「では、砲兵隊の大木大尉はおられるか」
「お待ちください」と言って、警備兵は要塞の中に入っていった。

虎頭要塞の守備隊長も砲兵隊長の大木大尉も顔なじみだったのが、藤崎には幸いだった。こちらの正体を詮索しないで、面会には応じてもらえるだろう。特に大木大尉は直情径行型の愚直な軍人で、愛すべき人物だった。頭は堅いが、柔軟性がないわけではない。ひと言で言えば、武人である。
 
十五分ほど待たされて、大木大尉が現れた。長い地下道を通ってやってきたのだろう。藤崎を認めると、破顔した。
「まだ生きてたか。特務機関員」と、大木は大声を挙げた。

「頼みがある」と、藤崎は言った。
「いきなりだな」
「時間がない。関東軍司令部に重要な情報について連絡したい」
「関東軍司令部は、あんたらF機関の情報については重要視しないぞ」
「そんなことを言っている場合じゃない。ソ連が対日参戦を決め、着々と準備を進めているんだ」
大木大尉の顔色が変わった。

「本当か」
「ドイツ降伏の三カ月以内にソ連は対日参戦をする。つまり、八月八日までに参戦するということだ。現に、アムール川沿いにソ連軍の師団が集結している」
「その情報は、確かか?」
「間違いない。ハバロフスクで入手した」
「ここの要塞が忙しくなるな」
「バカ言うな。下手したら玉砕だぞ」
「玉砕か」
「したいのか」
「したくはないが、逃げるのは嫌だ」
「ここには、千数百人いるんだろ」
「民間人も保護を求めてやってくるかもしれん」
「とにかく、あと三日だ。油断しない方がいい」
「露スケの奴らが国境を越えたら、シベリア鉄道を破壊してやる」
「射程距離五十キロというが、正確に目標に落とせるのか」
「俺は砲兵だぜ」と、大木大尉は胸を張った。

それから、大木大尉は踵を返し、要塞内部に向かった。藤崎は、その後を追った。長い地下通路を歩く。分厚いコンクリートで固められており、相当な砲撃にも耐えられる構造だ。ここに籠って戦えば、持久戦になるだろう。

「武器弾薬、食糧などの備蓄はあるのか?」と、藤崎は先をゆく大木大尉に訊いた。
「この時期、そんな余裕のある部隊が存在していると思うのか?」
「じゃあ、持久戦には持ち込めないな」
「ああ、短期決戦でケリをつけるしかない」
この男、ソ連軍が攻撃してきたら死ぬ気だなと藤崎は思った。
「司令室はすぐそこだ」と、大木大尉が言った。

頑丈な鉄扉があった。それを大木大尉は力を入れて開く。地下通路が続き、その奥に要塞の指令室があった。指令室も鉄扉である。それを開いて、大木大尉は入っていった。ついてこい、という顔で藤崎を振り向く。
 
正面の壁に大きな地図があった。満州の全図だ。国境線がすべてわかる。その手前に大きなテーブルがある。おそらく作戦会議もここで開くのだろう。右手奥に無線機が設置され、通信兵二名が椅子に座って向かっていた。

「おい、関東軍総司令部に連絡を入れてくれ。重要な情報を入手した。最優先事項だと言うんだ」と、大木大尉は言った。
 
通信兵が返事をして、すぐに関東軍総司令部を呼び出す。数分後、総司令部から返事が入った。兵士が大木大尉の言葉を繰り返す。向こうの通信兵が総司令官を呼びにいくと言って通信が切れた。

「どういう情報か?」という声が、しばらくしてスピーカーから流れた。
「山田総司令官殿でありますか。虎頭要塞守備隊の大木大尉であります」
「わかった、大木。用件を早く言え」
「ソ連に潜入していた特務機関員よりの報告です。ソ連軍は対日参戦の準備中。八月八日までに国境を越える可能性あり、とのことです」

「間違いないか」
「信頼できる情報です」
「戦力は?」
「少なくともハバロフスク周辺に一個師団が待機中だ。歩兵隊、工兵隊、戦車隊が揃っている」と、藤崎は大木大尉に向かって言った。
「特務機関員がそこにいるのか?」と、スピーカーから声が流れた。
「はい、そうであります」と、大木大尉が答えた。
「直接、報告を聞きたい」
「了解です」

藤崎はマイクの前に座った。
「どこで、その情報をつかんだ?」
「ハバロフスクのソ連内務人民委員部、通称NKVD極東支局長を捕らえ尋問し直接聞き取りました」
「その男は?」
「尋問後、死亡しました」
「NKVDの追跡は?」
「彼らが気付く前に、国境を越えました」
「わかった。大木大尉に代われ」

藤崎は大木大尉と交代した。大木大尉が通信機に向かう。
「大木、そこには他に誰がいる」と、関東軍司令官が言った。
「私と特務機関員、それに通信兵二名です」
「わかった、通信兵に命じてその男を拘束しろ。そいつはソ連軍に寝返っている」
 
大木大尉が藤崎を見た。通信兵二名が立ち上がり、藤崎の背後にまわった。大木が腰のケースから拳銃を取り出して藤崎に向けた。

「司令官殿、どういうことでありますか?」と、大木大尉が藤崎から目を離さずに大声で言った。
「昨日、こちらで傍受したソ連軍の通信がある。その暗号を解読すると、内容はNKVD極東支局長を尋問殺害した日本の特務機関員五名全員を逮捕したというものだった。そいつは逮捕され、助命を条件に偽情報を我々に与えるためにソ連軍が送ってきたものと推察される」
「お言葉ですが、彼はそんな男ではありません」
「では、なぜ、ソ連軍に逮捕された男がそこにいるのだ」

説明がややこしいのと、アンドレイの提案を正直に話しても信じてはもらえまいと思い、見つかる前に逃げたと報告したことが失敗だったのだ。今更、本当のことを言っても信用はされまい。一度、疑われてしまえば、どんな話も言い逃れと取られる。
 
しかし、藤崎はここで拘束されるわけにはいかない。今日の夕方六時までに帰らないと、四人は銃殺されてしまう。情報は関東軍総司令部に伝わったが、それはソ連軍の謀略だと判断されてしまった。
 
昨日、ソ連軍の暗号通信を傍受したというが、それもアンドレイが手配した謀略ではないのか。ソ連参戦の情報が漏れたことで、ベリヤの責任を追及できる。同時に、藤崎がもたらせた情報を関東軍に信用させないために、あえて通信を傍受させたのだ。

「確かに、一度は逮捕された。ただ、情報は偽ではない。間違いない情報だ」と、藤崎は大木大尉の目をまっすぐに見て言った。
「大木大尉、その男を拘束し、すぐに新京へ送れ。こちらで尋問する。以上だ」
 
新京の関東軍総司令部との通信は切れた。藤崎の目の前には銃口があり、緊張した面持ちで大木大尉が立っている。背後に立つ二名の通信兵が近づく気配がした。

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