■スターリンの暗殺者「第五章 標的」22
【五章の主な登場人物】
■ヴォールク(狼) 謎の工作員/狙撃手
■ロバート・パウエル CIA上級分析官
■ポール・バネン CIAエージェント
■マイケル・ダーン CIAエージェント
■花井光子 「平和荘」住人 飲み屋の女将
■柿沢恵子 「平和荘」住人 引揚者 通いの娼婦
■井上涼子 「平和荘」住人 SKDの踊子
■進藤栄太 「平和荘」住人 元新聞記者
■三浦良太 「平和荘」住人 戦災孤児の工員
■神崎辰之助 「平和荘」住人 元憲兵
■梶 幸兵 「平和荘」に引っ越してきた男
■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋 顎髭のジャズ・プレーヤー
■上島隆平 F機関の利け者 凍傷で指を失くし常に手袋をしている
■東金光一 F機関の事務方 メガネをしている
■山村善兵衛 元特高刑事
■新城玄太 警視庁公安部の新人刑事
■ジャック・デュバル メジャーリーガー
■レティシア・レイク ハリウッドの女神
■ジョン・フォスター・ダレス アメリカ合衆国国務長官
■1953年2月22日 東京・後楽園
試合開始の二時間前、大勢の観客に紛れて藤崎は三塁側の内野席に入った。ニューヨーク・ヤンキースの帽子を目深にかぶり、ティアドロップ型のレイバンのサングラスをかけ、ブルージーンズにスタジアム・ジャンパーというスタイルが珍しいのか、何人かの観客が振り返る。マフラーで顔が隠れているせいか、米国人に見えるのかもしれない。少なくとも、二世に見えれば成功なのだが----。
内野席のチケットを持っていれば外野席に入っても大丈夫だが、外野席のチケットで内野席にいるのが見つかればとがめられる。今日は満席が予想され、特に全日本チームのホームである一塁側内野席は人気があった。藤崎は米国人風のスタイルで、三塁側からアメリカン・チームを応援することにしていた。
何万人の中から、たったひとりの男を探し出す。大変なことのように思えたが、試合が始まれば全員がグランドを見つめることになる。その中で、別の意図を抱いて動いている人間がいれば、目立つはずだ。藤崎は、バックネット席の上方にある貴賓席を見上げた。そこから、まっすぐ視線をスコアボードに移す。やはり、スコアボード裏は狙撃場所としては最適だった。
だが、米国の国務長官がくるのだ。厳重な警戒態勢が敷かれている。貴賓席に座った国務長官をシークレット・サービスが囲む形になるだろう。先ほどの入場の時、各ゲートには警察官が二名ずつ立って、ひとりひとりの観客をチェックしていた。警備のための制服警官を要所に配置し、私服警官も観客の中に紛れ込ませているはずだ。
★
十一時半、山村は一塁側内野席中段の出入り口に立つ新城と別れて階段を下り、二階の回廊に沿って球場を一周するように歩き始めた。内野席から外野席に入る時に球場係員に警察手帳を提示する。今日の警備体制は、球場側にも徹底されていた。国務長官、ハリウッド女優が貴賓席にいて、ジャック・デュバルを始めとする米国のヒーローたちが三塁側ベンチにいる。
相当な人数が警備につぎ込まれていた。各ゲートには制服警官が立ち、観客たちの出入りに目を光らせている。貴賓席の周辺は徹底的に調べられ、不審なものはすべて中身を改められて撤去された。狙撃を想定するとスコアボード裏が最も可能性が高く、そこには係員以外に二名の制服警官が配置されている。これでも、例の男は国務長官を狙うだろうか。
試合が始まれば、観客たちの目はグラウンドに注がれる。数万の観客の中で、別の行動をしていれば、嫌でも目を引くはずだ。だが、試合に注目している観客たちは、その動きに気付かないかもしれない。そのため、山村は上司にある進言をして、受け入れられた。
球場には、試合中も観客席を見ている者たちがいる。彼らは観客からの合図を見逃してはならない。観客たちがワーッと盛り上がれば、何が起こったのかとグラウンドを振り返るだろうが、すぐに観客席に目を戻す。おまけに、彼らは観客席に大勢散らばっている。
そう、彼らは売店の販売員である。ビールやジュース、弁当類などを抱えて観客席を練り歩く。妙な動きをしている人間がいれば、真っ先に気付くだろう。山村の提案を受けて、警察は販売部の責任者を通じて各販売員に「不審な人間を見つけたら、すぐに近くの警察官に知らせろ」と通達した。
それでも、奴はやってくるのか、と満員の後楽園球場を見渡して山村は思った。
★
十二時、男は販売員の制服を着て、一塁側内野席の一階の回廊から販売部が管理する貯蔵庫に向かっていた。昨日、ビールケースを積み上げて隠してあるバッグとバットケースを取り出すためだった。球場へは観客たちより早くに販売員の姿で入り、今まで販売員たちに混じって球場内を下見していた。
各売店は昼時を迎えて、どこも多忙になっている。観客席をまわっている販売員も、あちこちで呼びとめられているだろう。充分に補充してあるので、追加の飲み物を取りにくるまでには、まだ二、三十分はあるはずだ。取り出したバッグを開き、男は素早くレッドソックスのユニフォームに着替えた。
背番号と名前は、チームに参加している選手のものである。アメリカン・チームの連中に見つかるとバレる怖れはあるが、彼らのいるところには近付かない予定だった。男の身長は、アメリカン・チームの選手としても通用した。金髪のかつらをし、帽子を目深に被る。帽子から金髪が少しはみ出す。大きなサングラスを掛け、二本のバットが収納できるハードケースを提げる。頬から顔の下半分を濃い髭が覆っている。
男は、ゆっくりと貴賓席と三塁側ベンチが見える場所へ向かった。
★
十二時半、新国務長官は後楽園球場に公用車で到着した。前後に警護の要員が乗る車が従っている。貴賓席へ通じるゲートに三台の車が停まり、前後の車のドアが開いて一斉にダークスーツにサングラスの大柄な男たちが降りた。周囲を見渡し安全を確認すると、彼らのひとりが国務長官の乗る車の後部ドアを開く。
ゲートで出迎えたのは、日本プロ野球連盟の理事、アメリカン・チームの監督、後楽園スタジアム社長、読売ジャイアンツ球団社長といった顔ぶれだった。国務長官は、彼らのひとりひとりと握手をし、簡単な挨拶を交わした。後楽園スタジアム社長が先頭になって、アメリカン・チームの控室に案内する。
アメリカン・チームの選手たちは、全員がユニフォームに着替えて国務長官を迎えた。アメリカン・チームの監督が選手のひとりひとりを紹介すると、国務長官はそれぞれと握手を交わし、個別に言葉をかけていく。
「おめでとう。素晴らしい女性を妻に迎えたね」
ジャック・デュバルと握手を交わした時、国務長官はそう声をかけた。
「光栄です。国務長官」と、ジャック・デュバルが答えた。
「それに、きみの連続ヒットの記録は、未来永劫、破られることはなさそうだ。前人未到の大記録だよ」と、国務長官は続けた。
「いえ、記録はいつかは破られます」
「今日は、あなたの美しい奥様と並んで観戦できるのを喜んでいる」
「妻も光栄に思っていますよ」
「ただ、次の予定があって、三十分ほどで退席しなければならん。できれば、その間にホームランを見せてもらえるとうれしい」と、国務長官は笑った。
ジャック・デュバルも白い歯を見せ、「努力します。長官」と答えた。
★
十二時四十分、進藤栄太は外野席から山村の姿を捉えた。いつものようにハンチングを被り、グレーの安物のコートを着ている。栄太は席を立ち、山村のいる方へ向かった。元同僚の谷口司郎から国務長官の来日に警察が神経を尖らせている、という話を聞いたのは、一週間ほど前のことだった。
「それは、先日の李承晩狙撃事件があるからか」と、栄太は訊いた。
「そうだな。具体的な脅威があると警視庁は思ってるようだ」
「確か、来日の翌日、日米親善野球の試合を見にいく予定だと思ったが----」
「そうだ。アメリカン・チームを激励し、試合を観戦する」
「その国務長官を、誰かが狙う?」
「警視庁の動きを見ていると、そんな対応をしている」
「去年の大晦日、横須賀のバーのテロとつながりがあるのかな」
「米国を巡って、というか、朝鮮戦争に関係して、物騒なことばかりが続く」
「一方で、休戦交渉は断続的に続いているんだろう」
「ああ、だが、背後にスターリンがいる限り、休戦協定はまとまらないだろうと言われている」
「李承晩も、休戦には猛反対しているんじゃなかったか」
「アメリカ大統領が『休戦だ』と言えば、李承晩が何を言っても無駄だ」
「今回の新国務長官の訪日・訪韓は、大統領の公約である朝鮮戦争の終結を実現するための下交渉と見ていいのか」
「間違いないだろう」
「つまり、休戦を潰すには、国務長官暗殺が有効なんだな」
栄太は、そう念押しした。その暗殺阻止のために警視庁が全力をあげているのなら、公安刑事の山村は間違いなく後楽園球場に現れる。観客席を見まわっているはずだ、と栄太は思った。
それで、今日、栄太は安い外野席の入場券を買って後楽園球場に入った。入ってからわかったのだが、栄太の入場券では内野席にはいけなかった。少し前、内野席にいた山村を認めて栄太は追いかけようとしたが、ゲートで係員に止められてしまったのだ。
「差額を払うから、内野席にしてもらえないか」と、栄太は係員に言った。
「無理ですね。今日は内野席が満席で、変更できないです」と、係員は答えた。
仕方なく、栄太は去っていく山村の背中を見つめた。それから、一時間ほどして再び栄太は山村の姿を見つけたのだった。栄太はコートのポケットの中で、ナイフの柄を握りしめた。
★
試合は一時に始まった。貴賓席には、国務長官とレティシア・レイクが並んで座っている。その周囲をダークスーツでサングラスをかけ、金髪や茶色の髪を一様にクルーカットにした大きな男たちが囲んでいた。彼らは絶えず首を動かし、周囲に視線を走らせている。それだけで威圧的だった。
外野席の最上段から、山村は球場を見渡した。これだけの人数を一望できるのは、ここくらいだろうな、と思った。内野席二万三千人、外野席一万五千人が収容できる。それだけの席が完全に埋まっていた。戦争中は、ここはイモ畑になり、二階席には高射砲が設置されていた。ほんの八年前のことだ。そんな山村の感慨を打ち消すように、携帯無線機に連絡が入った。
「スコアボード裏の警官から、不審なバットケースが見つかった、と報告が入った」
「了解。すぐに向かう」
山村は急ぎ足でスコアボードの裏に向かった。
★
藤崎は、双眼鏡から目を離した。グラウンドではなく外野席の方向に双眼鏡を向けていたが、周囲の観客は試合に夢中で何も気付いてはいないようだった。外野席にいたあの刑事は、何か連絡を受けたようで急にどこかへ向かった。外野席の最上段から階段に向かい姿を消した。どこへいったのか。
藤崎は、再び双眼鏡を目に当てグランドへ視線を向けた。それから、ゆっくりと双眼鏡をスコアボードの方向へ向ける。確かに、貴賓席を狙うならスコアボードの裏が位置としては最適だが、この警戒ではその場所へ近づくことさえできないのではないか。どこかに〈ヴォールク〉は潜んでいるのだろうか。
双眼鏡をゆっくりと移動させていた時、一塁側内野席の中段に渡辺と東金がいるのに気付いた。バカめ、ここにはくるなと言っておいたのに、と思わず口に出しそうになった。ふたりがきているとすれば、上島もどこかにいるかもしれない。藤崎は席を立ち、渡辺たちの方に向かって移動した。
知り合いがいたので----とゲートの係員に言って、藤崎は一塁側内野席に入り、渡辺たちを探した。中段の観客席に出る階段を昇ったところに、渡辺と東金がいた。ふたりは、藤崎の格好を見て目を丸くした。三人で階段を下り、回廊の隅で改めて顔を合わせた。
「目立つ格好だな」と、渡辺が言った。
「アメリンカン・チームを応援する日系二世というところさ。目立つ方が、かえって警戒されない」
「警察の無線を盗聴してます」と、東金が言った。
見ると、東金のコートの襟から右の耳にコードが延びていた。右耳にはイヤフォンが入っている。
「さっき、スコアボード裏で不審物が見つかったようです」と、東金が言った。
「それで、刑事が急にどこかへいったのか」
「見付かったのは、バットを収納するハードケースらしい。ライフルを収納しておくには適してますね」と、東金が続けた。
★
バットケースには、鍵がかかっていた。山村は本日の警備のために、拳銃を携帯していた。それを腰のケースから取り出し、安全装置がかかっているのを確認してから逆手に持ち、銃床を鍵の部分に打ち付けた。二度めで鍵が壊れた。ゆっくりと、ケースを開く。
山村は息を飲んだ。アサルトライフルが銃身と銃身基部と銃床に分解されて入っていた。予備の弾倉もある。突撃銃と言われるものだ。ソ連軍が四年前に正式採用したAK47。口径は7・62ミリ、銃弾は7・62×39ミリ弾で、装弾数は三十発。連射も可能だ。
組み立てると、全長は九百ミリほどになる。有効射程距離は推定三百メートル。スコアボードから貴賓席までの距離は、百五十メートルほどだから狙撃には充分だ。ホームベース上から百五十メートルの飛距離のボールを打つと、それは場外ホームランになる。
しかし、狙撃銃とは言えない。戦闘のための銃である。ひとりの重要人物を正確に狙撃するのには向いていない。もちろん、単発にしてスコープで狙えば不可能ではないが、どちらかと言えば連射モードにして、群衆に向かって乱射するのに適した銃だ。狙いは、無差別テロだろうか。
しばらく銃を見つめていた山村は、静かにケースを閉じた。厳しい警備の中を武器を携帯して潜入するのは不可能と見て、あらかじめここに隠しておいたのだろうか。昨日までに球場へ入った人間の記録を調べる必要があるな、と山村は思った。
★
上島の頭の中を、妹の死が占めていた。あれから、まだ十日しか経っていない。「にいさん」と言って死んでいった光子の声が耳から離れない。まるで詫びるように、父母の死のことを口にした。〈私が一緒だったのに、ふたりを死なせてしまった〉と、赦しを乞うような言い方だった。不憫だった。
光子は、自分の生き方を恥じていたのだろうか。戦後、占領軍向けの慰安施設にいたという噂があったらしい。女がひとりで生き抜いたのだ。自分の店まで持ったのだ。何を恥じることがある。汚れるなんてことはありゃしない。しかし、そうだから兄にさえ会いたくなかったのか。そう考えると、さらに不憫さが募った。
やさしい子だった、と十代の光子が甦る。梶と名乗る男さえ現れなければ、光子はまだ生きていた。あの男は光子を楯にし、光子の命を犠牲にして、自分だけが逃げ延びたのだ。赦せなかった。この手で殺したい。
藤崎のためでも、誰のためでもなく、〈ヴォールク〉を殺したかった。そうしないと、一生、光子の死に際の言葉が呪いのように消えないだろう。光子の安らかな顔が浮かばない。〈ヴォールク〉の死を見なければ、光子に安らぎは訪れない。そんな思いに急かされて、上島は後楽園球場の中を彷徨っていた。
★
試合開始から三十分。まだ二回裏である。アメリカン・チームは一回表でランナーをふたり出したが点には結び付かなかった。一回裏、昨年のシーズン最多勝利を上げたアメリカン・チームのエースが日本チームを三者三振に打ち取った。二回表では、日本チームのエースが本領を発揮し、三者凡退で終わった。
そして今、二回裏の攻撃で日本チームは三本の連続安打で二点を上げている。アメリカン・チームのエースは一回裏の三者連続三振で力を使い果たしたかのように、突然、球威がなくなったのだ。
〈何をやってるんだ。ジャップなんかに、連続ヒットを打たれるなんて〉と、ポール・バネンは舌打ちをした。
その時、国務長官が席を立つのが見えた。シークレット・サービスが周囲を囲む。国務長官は隣に座るレティシア・レイクに何か言い、シークレット・サービスたちと共に階段に向かった。ポール・バネンは上段から見下ろす形で国務長官の周囲に目を配っていたが、この三十分の間には注意を引く動きをする者はいなかった。
狙撃するとしたら外野方向か、スコアボードの近辺か。しかし、そこは日本の警察が厳重に警備している。公用車に乗り込んで球場を離れるまでわからないが、とりあえず国務長官は無事だった。ポール・バネンは観客席を離れて階段を下り、一階の回廊に出た。ロバート・パウエルが立っていた。
「国務長官は、横須賀基地へ向かった」と、ポール・バネンの顔を見てロバートが言った。
「無事でしたな。本当に、ここで狙う気だったのか?」
「日本の警察から報告があった。先ほど、スコアボード裏で不審なバットケースが見つかり、開けるとAK47が入っていたそうだ」
「ソ連軍のアサルトライフル」
「そうだ。これでソ連か北朝鮮の関与がはっきりした。昨日までに武器を運び込んでいたのだ。今日の警備じゃ、武器を持ち込むのは不可能だからな。暗殺は阻止された。警備体制もすぐに解除されるだろう」
本当にそうだろうか、とポール・バネンは思った。何かがひっかかる。簡単すぎる。簡単に武器が見つかりすぎた。国務長官には、何も起こらなかった。現場での長い経験が、ポール・バネンに〈安心するな〉と言っていた。警戒しろ、何かが違っている。
「奴の狙いは、米国民を怒らせることだ。敵に報復を、と叫ばせることだ。だとすれば、国務長官でなくてもいい」と、ポール・バネンは独り言のように言った。
貴賓席にポツンと残っていた、レティシア・レイクの姿が浮かんだ。新婚旅行だから、いつもの取り巻きはいないのだろう。解説をするつもりなのか、日本のプロ野球関係者らしい老人が付き添っているだけだった。遠くからでも、レティシア・レイクは目立った。
「まだ安心はできない。李承晩が狙撃されたから、次の標的も政治家だと思い込んでいたんだ」と、ポール・バネンは言った。
「どういうことだ?」と、ロバート・パウエルが訊く。
「暗殺者はスターリンに送りこまれた、とマイケルが訊き出したそうですね。スターリンはハリウッド映画のファンだ。毎夜のように自宅で映画を上映している。ジョン・フォードの西部劇が好きらしい。もちろん、レティシア・レイクも見ている。だから、大衆が映画スターに抱く憧れをよく知っている。その憧れの対象を暗殺したら、大衆は怒り狂う」
「何が言いたい?」
「標的は、レティシア・レイクかもしれない。ハリウッドの女神」
ポール・バネンは貴賓席に向かった。二段ほど上から貴賓席を見下ろし、その位置で視線を右から左へ球場全体をスキャンするように見ていった。三回の攻防が終り、チェンジの時間を利用してグラウンドの整備が行われていた。一塁側ブルペンから球場の係員が出てきた。続いて出てきたレッドソックスのユニフォームを着た選手らしき男を、フェンス沿いに案内する。
〈なぜ、レッドソックスの選手があんなところを歩いている?〉
★
「ヘイ、ユー、何やってる、こんなとこで」と、球場の係員らしき人物が声をかけてきた。
声をかけてくるくらいだから、少しは英語を喋れるのかもしれない。
「僕は代打要員でね。出番は七回以降にしかないから、日本の球場が珍しくて、いろいろ見てまわっていたら迷ってしまった」と、男は英語で言う。
「ここは一塁側。日本チームのブルペンだよ」と、係員は言った。
よく見ると、係員とはいっても年配の管理職風だ。英語も少しは自信があるのだろう。男の英語はひどい訛りがあり聞き取りにくいはずだが、相手は理解しているようだった。英語のネイティブ・スピーカーなら、男のロシア訛りに気付くだろう。
「三塁側ベンチに帰るには、どうすればいい」
「じゃあ、こっちへ」と、係員が言った。
「グラウンドを抜ければ早いじゃないか」
男がそう言うと、ブルペンのネット越しに係員はグラウンドを見た。ちょうどチェンジになりグラウンドの整備が始まった。五分ほどの時間はある。
「オーケー、ブルペンから出てフェンス沿いにいこう」
係員はそう言ってブルペンから出た。男も続いて出る。グラウンドに姿を晒すと、一斉に観客の視線が集まるような気がした。だが、ほとんどの観客はベンチの両チームを見ている。両チームのピッチャーが、それぞれベンチの前で軽くキャッチボールをしていた。
「何だか、みんなに見られてるみたいだ。センターのフェンスに出入り口が見えるけど」
「ああ、あそこから入ると、スコアボードの裏に上がれる」
「スコアボードの作業、見たいな。選手の名札や点数、ヒット数なんかのボードを人が入れ替えてるんだろ」
「そうだ」
「案内してくれないか。まだ出番はこないから」
係員は振り向いたが、〈仕方ないか〉という表情をしてうなずいた。センターのフェンスに設けられたドアを開けて裏に入り、細い通路を歩くと鉄階段が見えてきた。係員は「カム・ウィズ・ミー」と言いながら昇っていく。警官の姿は、すでになかった。
男は、階段を昇りながらバットケースを開き手を入れた。小型拳銃のグリップを手探りする。消音機を付けたワルサーPPKである。男は、グリップを握り直した。
係員が「ちょっと見学させてくれ」と言いながら、スコアボードの裏で作業をしていたふたりの男に近付いていった。ふたりの男が振り返る。その男たちの額の中央を狙って、男は拳銃の引き金を引いた。
男たちの額にポツンと赤い点が現れ、崩れ落ちた。係員が驚きと恐怖の表情で振り返る。その額にも赤い点が現れ、係員もその場に倒れた。ポンポンポンと、軽い発射音がしただけだ。誰も気付かない。ほんの数秒で三人の男が死んだ。〈ヴォールク〉らしい素早い仕事だった。
★
藤崎は一塁側ブルペンから突然現れた、レッドソックスの選手に双眼鏡を向けた。背が高く、スリムな体型だ。帽子から金髪が見えている。大きなサングラスをして、顔の大半を髭が覆っていた。左手にバットケースを提げている。
何かが、藤崎の感覚に引っかかった。中野学校で学び、現場の諜報活動で身に着けた何かが警報を発していた。人物を見分けるのは、顔だけではない。変装をしても、体の特徴、些細な動きの癖などは、なかなか変えられない。
藤崎は、初めて会った人物の特徴を記憶する訓練を受けた。顔は変装されたらわからなくなる。しかし、耳の形は変えられない。よく観察すると、耳の形はそれぞれ特徴があるのだ。また、顎の骨格なども変えにくい。その場合は、よく髭でごまかそうとする。
それに体全体から受ける印象と、動きの癖だ。歩き方、その時の腕の動き、よほど気を付けていないと、いつもの癖が出る。〈あの男だろうか〉と、藤崎は双眼鏡の倍率をあげた。梶と名乗っていた男が〈ヴォールク〉だとすれば、藤崎は四度その男を見ていることになる。
横須賀の爆破現場で見かけた男、赤坂の交差点で見かけた背の高い男は、間違いなく同じ男だった。だが、赤坂のアパートで会った時と「平和荘」の廊下で対峙した時は、男の姿はシルエットになっていた。それでも、「平和荘」の男は横須賀と赤坂の交差点で見かけた人物と共通する佇まいだった。
今、双眼鏡の中に捉えたレッドソックスの選手は、その男と共通する雰囲気を持っている。おそらく、梶と名乗っていた男だ。だが、赤坂のアパートで正面から対峙した男は、顔こそはっきり見えなかったが、その体躯や動きが梶と名乗った男とは微妙に違っていた気がする。それが、藤崎の決断を躊躇させた。
藤崎は急いで動いて周囲の目を引かないように、ゆっくり立ち上がり売店にでもいくかのように落ち着いて階段を下りた。梶と名乗っていた男と思える相手は、センターのフェンスの扉を開けて入った。狙いは、やはりスコアボード裏か。ライフルが見付かった後だし、国務長官も無事に退席したから警備陣も気が緩んでいるだろう。
★
一階の回廊を歩いていると、向こうから藤崎がやってきた。上島は声をかけようとしたが、一心に何かを追っているような藤崎の表情を見て動きを止めた。獲物を見付けた目だった。〈ヴォールク〉を追っているのだ。
上島は、藤崎の後を尾けた。妹の死以来、自分が冷静さを失っているのを上島は自覚していた。しかし、感情を抑えられなかった。満州での諜報活動では、いつも冷静でいられた。淡々と使命を果たし、常に生き延びた。
それが、妹の死で壊れてしまったのか。肉親のことは別なのか。妹が死に際に言った父母の死、目の前の妹の死。それが浮かぶと、いてもたってもいられない気になる。やるせなさが湧き起る。自分が学生だった頃の家族の姿が浮かんできて、不覚にも泣きそうになるのだ。戦争がすべてを変えてしまった。
あの男〈ヴォールク〉を殺さない限り、以前の冷静な自分には戻れない。藤崎に尾いていけば、それが叶うだろうか。
★
「おい、ちょっと、その双眼鏡を貸せ」と、山村は新城に言った。
新城が首にかけていた革ひもを外し、双眼鏡を差し出した。それを受け取り、双眼鏡を、今気になった方向へ向けた。三塁側内野席で立ち上がり、階段へ向かう男に焦点を合わせる。スタジアム・ジャンパーにブルージーンズ、ニューヨーク・ヤンキースの帽子を被り、サングラスをしている。日本人離れした服装だが、日本人だった。
あの男だ、と山村にはわかった。
★
男はAK47にスコープを取り付け、九回裏のスコアボードの板を外した。男の目的のためには、単発での狙撃も連射もできることが必要だった。試合が九回裏まで進むには、まだまだ時間がかかる。とはいっても、ぐずぐずしているとボードが外されたのに気付く人間がいるかもしれない。
視線の先に標的が見えた。銃身の先をボードの四角い穴の下端に押しあてる。寝そべってスコープを覗くと、標的が間近に見えた。動かない標的は命中率は高いし、大きな標的だとさらに命中する確率は高い。その標的は、男の腕なら簡単に命中させることができるものだった。
★
レッドソックスの選手がセンターのフェンスの出入り口から姿を消した後も、ポール・バネンは不審な気持ちを抱いていた。じっと、外野のフェンスを見つめた。試合が再開される。ポール・バネンはホームに立つアメリカン・チームの選手に目を向けた。日本チームのエースが投げる。ストライクの判定だ。
バッターがバッターボックスを外す。今のがストライクか、と審判に確認しているようだ。バットを素振りし、再びバッターボックスに入った。ポール・バネンはスコアボードを見た。スコアボードには、ボールカウントが出ていなかった。ストライクの数字が「1」になっていなければならないのに----。
次の瞬間、ポール・バネンは走り出した。スコアボード裏で何かが起こっている。係員が仕事をできない状況になっている。発見されたバットケースの中のアサルトライフルは、単なるトリックだったのだ。準備した武器を発見し、国務長官が無事に離れたことで、警備に油断ができる。「スターリンの暗殺者」は、やはりハリウッドの女神を狙撃するつもりだ。
★
藤崎は、最初に床に倒れている三人の男の死体に気付いた。三人とも、額の真ん中を撃ち抜かれていた。床に寝そべってライフルを構えていた男が振り向いた。ライフルを藤崎に向けようとしたが、銃身が何かに引っかかった。すぐにライフルを手から離す。その一瞬の隙をついて、藤崎は近くにあった「1」のボードを男に投げた。
★
ライフルを離すと同時に腰を落とし、床に置いてあったバットケースからワルサーPPKを取り出そうとした男は、消音器を外して身に付けておくべきだったと悔やんだ。拳銃を取り出すのに手間取ったために、男は飛んできたボードを右の肩で受けることになった。激痛が走った。右手がしびれる。ワルサーPPKのグリップがしっかりつかめない。拳銃を持ち上げたが、消音器を付けているので前方に重心が移り銃口が下がった。
★
藤崎は向けられた銃口を見て、横に飛んだ。藤崎の動きを追って、男の銃口が横に流れる。
その時、反対側の階段から上島が現れた。男は上島と藤崎に挟まれる形になった。だが、藤崎も上島も武器になるものを持っていない。男は拳銃を捨て、ライフルを拾い上げ銃口を藤崎に向けた。上島が男に向かって突進した。ライフルの銃口が上島に向いた。
「ドント・ムーブ」と、大きな声がした。
男たちの動きが止まる。上島の突進をかわした男は、スコアボードを背にして腰だめでライフルを構えている。上島は、突進した勢いで床に転がっていた。藤崎は、ボードを男に向かって投げようとする姿勢のまま凍結した。
「貴様ら、みんなソ連のエージェントか」と、鉄階段を昇りきった場所に白人が大型拳銃を構えて立っていた。
四十五口径のコルト・ガバメント。銃撃された衝撃で、相手の体は後ろに吹っ飛ぶという。もちろん一発で即死だ。
★
ポール・バネンはコルト・ガバメントを構えたまま、三人の男の顔を見渡した。ふたりは間違いなくジャップだ。ひとりは、日本の警察が作った似顔絵の男だった。祖国を裏切り、ソ連から派遣されたエージェントだ。もうひとりの男に見憶えはない。
アサルトライフルを構えているのは、レッドソックスのユニフォームを着た長身の男。しかし、サングラスを外した目は東洋人のものだった。〈こいつがヴォールクか〉と、ポール・バネンは思った。しかし、互いに銃を向けあい、これでは膠着状態だった。
「銃を下ろせ」と、ポール・バネンは言った。
★
白人が「貴様ら、みんなソ連のエージェントか」と言った瞬間、上島の中に正体不明の怒りが湧き起った。シベリアでの記憶が甦る。あの懲罰小屋での一夜。狭く身を横たえることさえできない小屋の中で孤独に耐えていた。あの時の怒りが甦った。
ひと晩中、体をこすり続けていた。だが、体の末端から感覚がなくなっていった。小刻みに体を動かし続けたが、強烈な眠気に襲われた。眠れば死ぬ、と言い聞かせたが、死んだ方が楽だという気持ちに負けそうになった。翌朝、小屋の扉が開かれた時、指の凍傷は手当しても手遅れだった。
帝大を出て陸軍に士官候補生として入り、一般人としての高い知性と教養を持っている人材がほしいと中野学校の一期生に採用された。それまでの名前も人生も棄てて別人になり、冷酷で人間の心を持たない間諜として満州で諜報活動に従事した。
終戦直前、ソ連に抑留され、シベリアに送られた。自分たちの命を救うために、藤崎が甘んじて銃殺刑を受け入れたことが、いつも心の隅にあった。そんな気持ちがソ連兵に逆らって、待遇改善の要求を出させたのかもしれない。どこかで死に急いでいた。
何度も死地を経験した。死んでもいいと何度も思ったが、その都度生き延びてきた。しかし、そのことに何の意味があったのか。祖国は敗れ、父母は焼夷弾が降り注ぐ炎の中で焼け死に、生き残りみじめな境遇に堕ちた妹を救えなかった。ようやく再会できた妹は、スターリンの暗殺者のために死んでいった。
一瞬で頭の中にすべてが甦り、激しい怒りが渦巻いた。体の底から突き上げてくる。上島は自分の動きを止めることはできなかった。目の前でライフルを構える男は〈ヴォールク〉だ。光子を死に追いやった男----。上島は身を起こし、〈ヴォールク〉に向かっていった。
★
上島が〈ヴォールク〉に向かって突進した瞬間、「やめろ」と藤崎は大声を挙げた。同時に手に持ったボードを〈ヴォールク〉に向かって投げつける。
迫ってくる上島に向かって〈ヴォールク〉はライフルを向け、引き金を引いた。上島の左肩を銃弾がえぐったが、上島の勢いは止まらなかった。〈ヴォールク〉が連射に切り替える。だが、その時には上島の体が勢いよく〈ヴォールク〉にぶつかっていた。
上島ともつれあう〈ヴォールク〉に向かって白人が発砲した。大きな銃声が響き、銃弾が上島の背中を貫いた。〈ヴォールク〉のライフルの銃口が白人に向くと、ダダダダッと連射音が大きく響いた。白人はボードに叩きつけられたが、鮮血を迸らせながら〈ヴォールク〉に向かってコルト・ガバメントの引き金を引いた。
銃弾は〈ヴォールク〉の左胸を直撃し、再び連射音が響き、崩れ落ちようとする白人とスコアボードに銃弾を浴びせた。上島が最後の力を振り絞り、〈ヴォールク〉をスコアボードに押しつけた。その勢いで弾痕だらけのスコアボードが破れ、ふたりはもつれあったまますさまじい音と共に落下した。
藤崎は、ズタズタになった白人の死体に目をやり、破れたスコアボードからグラウンドを見下ろした。〈ヴォールク〉と思われる男は、外野のフェンスに不自然な形で引っかかっている。背中から血を流している上島の体は、フェンスにぶつかった後、グラウンドに落ちたのだろう。何かをつかむように、右手を前に伸ばして横たわっていた。
〈上島----〉と、藤崎は初めて名前で呼びかけた。〈死にたかったのか。死んで家族の元にいきたかったのか〉
四万人近くの観客を呑み込んだ後楽園球場は、パニックに陥った。
★
銃声が立て続けに響き、バリバリという音が聞こえた後、観客が一斉に何かを叫んだり喚いたりする声が湧き起った。耳を聾さんばかりの地響きのような大音声が、山村の足を止めた。何が起こったのか。山村は観客席にもどろうかと考えたが、その時、数メートル先のスコアボード裏に続く鉄階段から藤崎一馬が降りてきた。
「動くな」と、山村は拳銃を出して言った。
藤崎が山村を見る。
「あんたか」と、藤崎が言った。
「おまえを逮捕する。若林良枝殺害容疑だ」
「私ではない」
「取調室で言え。藤崎」
「やっぱり、指紋の記録が残っていたのか。藤崎一馬で」
「陸軍の記録だ」
フフッと、藤崎が笑った。
「すべて秘密だと言ってたのに、藤崎で記録を残していたとはね」
「おまえは、何者だ」
「戦争がなければ、普通に生きていた人間だよ」
「今、生きてる人間は、みんな、戦争がなきゃ普通に生きていた」
「確かに、そうだな」
「両手を挙げて、こちらに背中を向けろ」と、山村は言った。
藤崎が両手を挙げたまま背中を向ける。山村は拳銃を構えて、左手で手錠を取り出した。藤崎に一歩近づいた瞬間、左足の太腿の後ろに激しい痛みを感じた。熱く焼けた火箸を差し込まれたようだった。見下ろすと、長い刃渡りの軍用ナイフが刺さっていた。
「特高警察、山村刑事」と、間近で囁く声がした。
振り向くと、進藤栄太が小刻みに身を震わせていた。右手の震えが止まらないようだった。真っ青な顔をしている。
「おまえ」と、言いながら山村は倒れた。
藤崎が振り向き、倒れた山村の右手首を足で踏んで動かないようにし、拳銃を取り上げた。進藤栄太は、その様子をぼんやりと眺めている。
「わしに拷問されて、ダメになった左脚の仇を取ったのか?」
山村は、自分が落ち着いた声を出せたことに驚いた。さらに驚いたことに、藤崎が自分のハンカチを出して山村の太腿をきつく縛り、止血をした。しかし、ナイフは刺さったままになっている。
「俺の人生を取り戻すためだ」と、進藤栄太が言った。
「取り戻せそうか?」と、山村は訊いた。
進藤栄太がうなずく。声も落ち着き、体の震えは止まっていた。山村をじっと見下ろしている。その瞳に光が戻り、はっきりした意志が現れた。
「だったら、いけ。人生をやり直せ」と、山村は言った。
進藤栄太が背中を向け、去っていく。
「人が刺されたと言っておく。すぐに手当されるだろう」
藤崎はそう言うと、拳銃をスタジアム・ジャンパーのポケットにしまい、背中を向けた。藤崎を見送った山村は、ハンカチを取り出しナイフの柄を拭った。激痛が走ったが、山村は誰の指紋も残らないようにしっかりと拭き取った。