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2025年1月

2025年1月25日 (土)

■スターリンの暗殺者「第五章 標的」22

【五章の主な登場人物】
■ヴォールク(狼) 謎の工作員/狙撃手
■ロバート・パウエル CIA上級分析官
■ポール・バネン CIAエージェント
■マイケル・ダーン CIAエージェント

■花井光子 「平和荘」住人 飲み屋の女将
■柿沢恵子 「平和荘」住人 引揚者 通いの娼婦
■井上涼子 「平和荘」住人 SKDの踊子
■進藤栄太 「平和荘」住人 元新聞記者
■三浦良太 「平和荘」住人  戦災孤児の工員
■神崎辰之助 「平和荘」住人 元憲兵
■梶 幸兵 「平和荘」に引っ越してきた男

■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋 顎髭のジャズ・プレーヤー
■上島隆平 F機関の利け者 凍傷で指を失くし常に手袋をしている
■東金光一 F機関の事務方 メガネをしている

■山村善兵衛 元特高刑事
■新城玄太 警視庁公安部の新人刑事

■ジャック・デュバル メジャーリーガー
■レティシア・レイク ハリウッドの女神
■ジョン・フォスター・ダレス アメリカ合衆国国務長官

 

■1953年2月22日 東京・後楽園
 
試合開始の二時間前、大勢の観客に紛れて藤崎は三塁側の内野席に入った。ニューヨーク・ヤンキースの帽子を目深にかぶり、ティアドロップ型のレイバンのサングラスをかけ、ブルージーンズにスタジアム・ジャンパーというスタイルが珍しいのか、何人かの観客が振り返る。マフラーで顔が隠れているせいか、米国人に見えるのかもしれない。少なくとも、二世に見えれば成功なのだが----。
 
内野席のチケットを持っていれば外野席に入っても大丈夫だが、外野席のチケットで内野席にいるのが見つかればとがめられる。今日は満席が予想され、特に全日本チームのホームである一塁側内野席は人気があった。藤崎は米国人風のスタイルで、三塁側からアメリカン・チームを応援することにしていた。
 
何万人の中から、たったひとりの男を探し出す。大変なことのように思えたが、試合が始まれば全員がグランドを見つめることになる。その中で、別の意図を抱いて動いている人間がいれば、目立つはずだ。藤崎は、バックネット席の上方にある貴賓席を見上げた。そこから、まっすぐ視線をスコアボードに移す。やはり、スコアボード裏は狙撃場所としては最適だった。
 
だが、米国の国務長官がくるのだ。厳重な警戒態勢が敷かれている。貴賓席に座った国務長官をシークレット・サービスが囲む形になるだろう。先ほどの入場の時、各ゲートには警察官が二名ずつ立って、ひとりひとりの観客をチェックしていた。警備のための制服警官を要所に配置し、私服警官も観客の中に紛れ込ませているはずだ。
                                                                                             ★
十一時半、山村は一塁側内野席中段の出入り口に立つ新城と別れて階段を下り、二階の回廊に沿って球場を一周するように歩き始めた。内野席から外野席に入る時に球場係員に警察手帳を提示する。今日の警備体制は、球場側にも徹底されていた。国務長官、ハリウッド女優が貴賓席にいて、ジャック・デュバルを始めとする米国のヒーローたちが三塁側ベンチにいる。

相当な人数が警備につぎ込まれていた。各ゲートには制服警官が立ち、観客たちの出入りに目を光らせている。貴賓席の周辺は徹底的に調べられ、不審なものはすべて中身を改められて撤去された。狙撃を想定するとスコアボード裏が最も可能性が高く、そこには係員以外に二名の制服警官が配置されている。これでも、例の男は国務長官を狙うだろうか。

試合が始まれば、観客たちの目はグラウンドに注がれる。数万の観客の中で、別の行動をしていれば、嫌でも目を引くはずだ。だが、試合に注目している観客たちは、その動きに気付かないかもしれない。そのため、山村は上司にある進言をして、受け入れられた。

球場には、試合中も観客席を見ている者たちがいる。彼らは観客からの合図を見逃してはならない。観客たちがワーッと盛り上がれば、何が起こったのかとグラウンドを振り返るだろうが、すぐに観客席に目を戻す。おまけに、彼らは観客席に大勢散らばっている。

そう、彼らは売店の販売員である。ビールやジュース、弁当類などを抱えて観客席を練り歩く。妙な動きをしている人間がいれば、真っ先に気付くだろう。山村の提案を受けて、警察は販売部の責任者を通じて各販売員に「不審な人間を見つけたら、すぐに近くの警察官に知らせろ」と通達した。

それでも、奴はやってくるのか、と満員の後楽園球場を見渡して山村は思った。
                                 ★
十二時、男は販売員の制服を着て、一塁側内野席の一階の回廊から販売部が管理する貯蔵庫に向かっていた。昨日、ビールケースを積み上げて隠してあるバッグとバットケースを取り出すためだった。球場へは観客たちより早くに販売員の姿で入り、今まで販売員たちに混じって球場内を下見していた。
 
各売店は昼時を迎えて、どこも多忙になっている。観客席をまわっている販売員も、あちこちで呼びとめられているだろう。充分に補充してあるので、追加の飲み物を取りにくるまでには、まだ二、三十分はあるはずだ。取り出したバッグを開き、男は素早くレッドソックスのユニフォームに着替えた。
 
背番号と名前は、チームに参加している選手のものである。アメリカン・チームの連中に見つかるとバレる怖れはあるが、彼らのいるところには近付かない予定だった。男の身長は、アメリカン・チームの選手としても通用した。金髪のかつらをし、帽子を目深に被る。帽子から金髪が少しはみ出す。大きなサングラスを掛け、二本のバットが収納できるハードケースを提げる。頬から顔の下半分を濃い髭が覆っている。

男は、ゆっくりと貴賓席と三塁側ベンチが見える場所へ向かった。
                                 ★
十二時半、新国務長官は後楽園球場に公用車で到着した。前後に警護の要員が乗る車が従っている。貴賓席へ通じるゲートに三台の車が停まり、前後の車のドアが開いて一斉にダークスーツにサングラスの大柄な男たちが降りた。周囲を見渡し安全を確認すると、彼らのひとりが国務長官の乗る車の後部ドアを開く。
 
ゲートで出迎えたのは、日本プロ野球連盟の理事、アメリカン・チームの監督、後楽園スタジアム社長、読売ジャイアンツ球団社長といった顔ぶれだった。国務長官は、彼らのひとりひとりと握手をし、簡単な挨拶を交わした。後楽園スタジアム社長が先頭になって、アメリカン・チームの控室に案内する。
 
アメリカン・チームの選手たちは、全員がユニフォームに着替えて国務長官を迎えた。アメリカン・チームの監督が選手のひとりひとりを紹介すると、国務長官はそれぞれと握手を交わし、個別に言葉をかけていく。
「おめでとう。素晴らしい女性を妻に迎えたね」
ジャック・デュバルと握手を交わした時、国務長官はそう声をかけた。

「光栄です。国務長官」と、ジャック・デュバルが答えた。
「それに、きみの連続ヒットの記録は、未来永劫、破られることはなさそうだ。前人未到の大記録だよ」と、国務長官は続けた。
「いえ、記録はいつかは破られます」
「今日は、あなたの美しい奥様と並んで観戦できるのを喜んでいる」
「妻も光栄に思っていますよ」
「ただ、次の予定があって、三十分ほどで退席しなければならん。できれば、その間にホームランを見せてもらえるとうれしい」と、国務長官は笑った。
ジャック・デュバルも白い歯を見せ、「努力します。長官」と答えた。
                                  ★
十二時四十分、進藤栄太は外野席から山村の姿を捉えた。いつものようにハンチングを被り、グレーの安物のコートを着ている。栄太は席を立ち、山村のいる方へ向かった。元同僚の谷口司郎から国務長官の来日に警察が神経を尖らせている、という話を聞いたのは、一週間ほど前のことだった。

「それは、先日の李承晩狙撃事件があるからか」と、栄太は訊いた。
「そうだな。具体的な脅威があると警視庁は思ってるようだ」
「確か、来日の翌日、日米親善野球の試合を見にいく予定だと思ったが----」
「そうだ。アメリカン・チームを激励し、試合を観戦する」
「その国務長官を、誰かが狙う?」
「警視庁の動きを見ていると、そんな対応をしている」

「去年の大晦日、横須賀のバーのテロとつながりがあるのかな」
「米国を巡って、というか、朝鮮戦争に関係して、物騒なことばかりが続く」
「一方で、休戦交渉は断続的に続いているんだろう」
「ああ、だが、背後にスターリンがいる限り、休戦協定はまとまらないだろうと言われている」

「李承晩も、休戦には猛反対しているんじゃなかったか」
「アメリカ大統領が『休戦だ』と言えば、李承晩が何を言っても無駄だ」
「今回の新国務長官の訪日・訪韓は、大統領の公約である朝鮮戦争の終結を実現するための下交渉と見ていいのか」
「間違いないだろう」
「つまり、休戦を潰すには、国務長官暗殺が有効なんだな」

栄太は、そう念押しした。その暗殺阻止のために警視庁が全力をあげているのなら、公安刑事の山村は間違いなく後楽園球場に現れる。観客席を見まわっているはずだ、と栄太は思った。
 
それで、今日、栄太は安い外野席の入場券を買って後楽園球場に入った。入ってからわかったのだが、栄太の入場券では内野席にはいけなかった。少し前、内野席にいた山村を認めて栄太は追いかけようとしたが、ゲートで係員に止められてしまったのだ。
「差額を払うから、内野席にしてもらえないか」と、栄太は係員に言った。
「無理ですね。今日は内野席が満席で、変更できないです」と、係員は答えた。
 
仕方なく、栄太は去っていく山村の背中を見つめた。それから、一時間ほどして再び栄太は山村の姿を見つけたのだった。栄太はコートのポケットの中で、ナイフの柄を握りしめた。                      
                               ★
試合は一時に始まった。貴賓席には、国務長官とレティシア・レイクが並んで座っている。その周囲をダークスーツでサングラスをかけ、金髪や茶色の髪を一様にクルーカットにした大きな男たちが囲んでいた。彼らは絶えず首を動かし、周囲に視線を走らせている。それだけで威圧的だった。
 
外野席の最上段から、山村は球場を見渡した。これだけの人数を一望できるのは、ここくらいだろうな、と思った。内野席二万三千人、外野席一万五千人が収容できる。それだけの席が完全に埋まっていた。戦争中は、ここはイモ畑になり、二階席には高射砲が設置されていた。ほんの八年前のことだ。そんな山村の感慨を打ち消すように、携帯無線機に連絡が入った。

「スコアボード裏の警官から、不審なバットケースが見つかった、と報告が入った」
「了解。すぐに向かう」
山村は急ぎ足でスコアボードの裏に向かった。
                               ★
藤崎は、双眼鏡から目を離した。グラウンドではなく外野席の方向に双眼鏡を向けていたが、周囲の観客は試合に夢中で何も気付いてはいないようだった。外野席にいたあの刑事は、何か連絡を受けたようで急にどこかへ向かった。外野席の最上段から階段に向かい姿を消した。どこへいったのか。
 
藤崎は、再び双眼鏡を目に当てグランドへ視線を向けた。それから、ゆっくりと双眼鏡をスコアボードの方向へ向ける。確かに、貴賓席を狙うならスコアボードの裏が位置としては最適だが、この警戒ではその場所へ近づくことさえできないのではないか。どこかに〈ヴォールク〉は潜んでいるのだろうか。
 
双眼鏡をゆっくりと移動させていた時、一塁側内野席の中段に渡辺と東金がいるのに気付いた。バカめ、ここにはくるなと言っておいたのに、と思わず口に出しそうになった。ふたりがきているとすれば、上島もどこかにいるかもしれない。藤崎は席を立ち、渡辺たちの方に向かって移動した。

知り合いがいたので----とゲートの係員に言って、藤崎は一塁側内野席に入り、渡辺たちを探した。中段の観客席に出る階段を昇ったところに、渡辺と東金がいた。ふたりは、藤崎の格好を見て目を丸くした。三人で階段を下り、回廊の隅で改めて顔を合わせた。

「目立つ格好だな」と、渡辺が言った。
「アメリンカン・チームを応援する日系二世というところさ。目立つ方が、かえって警戒されない」
「警察の無線を盗聴してます」と、東金が言った。
見ると、東金のコートの襟から右の耳にコードが延びていた。右耳にはイヤフォンが入っている。

「さっき、スコアボード裏で不審物が見つかったようです」と、東金が言った。
「それで、刑事が急にどこかへいったのか」
「見付かったのは、バットを収納するハードケースらしい。ライフルを収納しておくには適してますね」と、東金が続けた。
                                 ★
バットケースには、鍵がかかっていた。山村は本日の警備のために、拳銃を携帯していた。それを腰のケースから取り出し、安全装置がかかっているのを確認してから逆手に持ち、銃床を鍵の部分に打ち付けた。二度めで鍵が壊れた。ゆっくりと、ケースを開く。
 
山村は息を飲んだ。アサルトライフルが銃身と銃身基部と銃床に分解されて入っていた。予備の弾倉もある。突撃銃と言われるものだ。ソ連軍が四年前に正式採用したAK47。口径は7・62ミリ、銃弾は7・62×39ミリ弾で、装弾数は三十発。連射も可能だ。
 
組み立てると、全長は九百ミリほどになる。有効射程距離は推定三百メートル。スコアボードから貴賓席までの距離は、百五十メートルほどだから狙撃には充分だ。ホームベース上から百五十メートルの飛距離のボールを打つと、それは場外ホームランになる。
 
しかし、狙撃銃とは言えない。戦闘のための銃である。ひとりの重要人物を正確に狙撃するのには向いていない。もちろん、単発にしてスコープで狙えば不可能ではないが、どちらかと言えば連射モードにして、群衆に向かって乱射するのに適した銃だ。狙いは、無差別テロだろうか。
 
しばらく銃を見つめていた山村は、静かにケースを閉じた。厳しい警備の中を武器を携帯して潜入するのは不可能と見て、あらかじめここに隠しておいたのだろうか。昨日までに球場へ入った人間の記録を調べる必要があるな、と山村は思った。
                                  ★
上島の頭の中を、妹の死が占めていた。あれから、まだ十日しか経っていない。「にいさん」と言って死んでいった光子の声が耳から離れない。まるで詫びるように、父母の死のことを口にした。〈私が一緒だったのに、ふたりを死なせてしまった〉と、赦しを乞うような言い方だった。不憫だった。

光子は、自分の生き方を恥じていたのだろうか。戦後、占領軍向けの慰安施設にいたという噂があったらしい。女がひとりで生き抜いたのだ。自分の店まで持ったのだ。何を恥じることがある。汚れるなんてことはありゃしない。しかし、そうだから兄にさえ会いたくなかったのか。そう考えると、さらに不憫さが募った。
 
やさしい子だった、と十代の光子が甦る。梶と名乗る男さえ現れなければ、光子はまだ生きていた。あの男は光子を楯にし、光子の命を犠牲にして、自分だけが逃げ延びたのだ。赦せなかった。この手で殺したい。
 
藤崎のためでも、誰のためでもなく、〈ヴォールク〉を殺したかった。そうしないと、一生、光子の死に際の言葉が呪いのように消えないだろう。光子の安らかな顔が浮かばない。〈ヴォールク〉の死を見なければ、光子に安らぎは訪れない。そんな思いに急かされて、上島は後楽園球場の中を彷徨っていた。
                                ★
試合開始から三十分。まだ二回裏である。アメリカン・チームは一回表でランナーをふたり出したが点には結び付かなかった。一回裏、昨年のシーズン最多勝利を上げたアメリカン・チームのエースが日本チームを三者三振に打ち取った。二回表では、日本チームのエースが本領を発揮し、三者凡退で終わった。
 
そして今、二回裏の攻撃で日本チームは三本の連続安打で二点を上げている。アメリカン・チームのエースは一回裏の三者連続三振で力を使い果たしたかのように、突然、球威がなくなったのだ。
〈何をやってるんだ。ジャップなんかに、連続ヒットを打たれるなんて〉と、ポール・バネンは舌打ちをした。
 
その時、国務長官が席を立つのが見えた。シークレット・サービスが周囲を囲む。国務長官は隣に座るレティシア・レイクに何か言い、シークレット・サービスたちと共に階段に向かった。ポール・バネンは上段から見下ろす形で国務長官の周囲に目を配っていたが、この三十分の間には注意を引く動きをする者はいなかった。
 
狙撃するとしたら外野方向か、スコアボードの近辺か。しかし、そこは日本の警察が厳重に警備している。公用車に乗り込んで球場を離れるまでわからないが、とりあえず国務長官は無事だった。ポール・バネンは観客席を離れて階段を下り、一階の回廊に出た。ロバート・パウエルが立っていた。
「国務長官は、横須賀基地へ向かった」と、ポール・バネンの顔を見てロバートが言った。

「無事でしたな。本当に、ここで狙う気だったのか?」
「日本の警察から報告があった。先ほど、スコアボード裏で不審なバットケースが見つかり、開けるとAK47が入っていたそうだ」
「ソ連軍のアサルトライフル」
「そうだ。これでソ連か北朝鮮の関与がはっきりした。昨日までに武器を運び込んでいたのだ。今日の警備じゃ、武器を持ち込むのは不可能だからな。暗殺は阻止された。警備体制もすぐに解除されるだろう」
 
本当にそうだろうか、とポール・バネンは思った。何かがひっかかる。簡単すぎる。簡単に武器が見つかりすぎた。国務長官には、何も起こらなかった。現場での長い経験が、ポール・バネンに〈安心するな〉と言っていた。警戒しろ、何かが違っている。
「奴の狙いは、米国民を怒らせることだ。敵に報復を、と叫ばせることだ。だとすれば、国務長官でなくてもいい」と、ポール・バネンは独り言のように言った。
 
貴賓席にポツンと残っていた、レティシア・レイクの姿が浮かんだ。新婚旅行だから、いつもの取り巻きはいないのだろう。解説をするつもりなのか、日本のプロ野球関係者らしい老人が付き添っているだけだった。遠くからでも、レティシア・レイクは目立った。
「まだ安心はできない。李承晩が狙撃されたから、次の標的も政治家だと思い込んでいたんだ」と、ポール・バネンは言った。
「どういうことだ?」と、ロバート・パウエルが訊く。

「暗殺者はスターリンに送りこまれた、とマイケルが訊き出したそうですね。スターリンはハリウッド映画のファンだ。毎夜のように自宅で映画を上映している。ジョン・フォードの西部劇が好きらしい。もちろん、レティシア・レイクも見ている。だから、大衆が映画スターに抱く憧れをよく知っている。その憧れの対象を暗殺したら、大衆は怒り狂う」
「何が言いたい?」
「標的は、レティシア・レイクかもしれない。ハリウッドの女神」
 
ポール・バネンは貴賓席に向かった。二段ほど上から貴賓席を見下ろし、その位置で視線を右から左へ球場全体をスキャンするように見ていった。三回の攻防が終り、チェンジの時間を利用してグラウンドの整備が行われていた。一塁側ブルペンから球場の係員が出てきた。続いて出てきたレッドソックスのユニフォームを着た選手らしき男を、フェンス沿いに案内する。

〈なぜ、レッドソックスの選手があんなところを歩いている?〉
                                  ★
「ヘイ、ユー、何やってる、こんなとこで」と、球場の係員らしき人物が声をかけてきた。
声をかけてくるくらいだから、少しは英語を喋れるのかもしれない。
「僕は代打要員でね。出番は七回以降にしかないから、日本の球場が珍しくて、いろいろ見てまわっていたら迷ってしまった」と、男は英語で言う。
「ここは一塁側。日本チームのブルペンだよ」と、係員は言った。
 
よく見ると、係員とはいっても年配の管理職風だ。英語も少しは自信があるのだろう。男の英語はひどい訛りがあり聞き取りにくいはずだが、相手は理解しているようだった。英語のネイティブ・スピーカーなら、男のロシア訛りに気付くだろう。

「三塁側ベンチに帰るには、どうすればいい」
「じゃあ、こっちへ」と、係員が言った。
「グラウンドを抜ければ早いじゃないか」
男がそう言うと、ブルペンのネット越しに係員はグラウンドを見た。ちょうどチェンジになりグラウンドの整備が始まった。五分ほどの時間はある。
「オーケー、ブルペンから出てフェンス沿いにいこう」
 
係員はそう言ってブルペンから出た。男も続いて出る。グラウンドに姿を晒すと、一斉に観客の視線が集まるような気がした。だが、ほとんどの観客はベンチの両チームを見ている。両チームのピッチャーが、それぞれベンチの前で軽くキャッチボールをしていた。

「何だか、みんなに見られてるみたいだ。センターのフェンスに出入り口が見えるけど」
「ああ、あそこから入ると、スコアボードの裏に上がれる」
「スコアボードの作業、見たいな。選手の名札や点数、ヒット数なんかのボードを人が入れ替えてるんだろ」
「そうだ」
「案内してくれないか。まだ出番はこないから」

係員は振り向いたが、〈仕方ないか〉という表情をしてうなずいた。センターのフェンスに設けられたドアを開けて裏に入り、細い通路を歩くと鉄階段が見えてきた。係員は「カム・ウィズ・ミー」と言いながら昇っていく。警官の姿は、すでになかった。
 
男は、階段を昇りながらバットケースを開き手を入れた。小型拳銃のグリップを手探りする。消音機を付けたワルサーPPKである。男は、グリップを握り直した。
 
係員が「ちょっと見学させてくれ」と言いながら、スコアボードの裏で作業をしていたふたりの男に近付いていった。ふたりの男が振り返る。その男たちの額の中央を狙って、男は拳銃の引き金を引いた。
 
男たちの額にポツンと赤い点が現れ、崩れ落ちた。係員が驚きと恐怖の表情で振り返る。その額にも赤い点が現れ、係員もその場に倒れた。ポンポンポンと、軽い発射音がしただけだ。誰も気付かない。ほんの数秒で三人の男が死んだ。〈ヴォールク〉らしい素早い仕事だった。
                               ★
藤崎は一塁側ブルペンから突然現れた、レッドソックスの選手に双眼鏡を向けた。背が高く、スリムな体型だ。帽子から金髪が見えている。大きなサングラスをして、顔の大半を髭が覆っていた。左手にバットケースを提げている。
 
何かが、藤崎の感覚に引っかかった。中野学校で学び、現場の諜報活動で身に着けた何かが警報を発していた。人物を見分けるのは、顔だけではない。変装をしても、体の特徴、些細な動きの癖などは、なかなか変えられない。
 
藤崎は、初めて会った人物の特徴を記憶する訓練を受けた。顔は変装されたらわからなくなる。しかし、耳の形は変えられない。よく観察すると、耳の形はそれぞれ特徴があるのだ。また、顎の骨格なども変えにくい。その場合は、よく髭でごまかそうとする。
 
それに体全体から受ける印象と、動きの癖だ。歩き方、その時の腕の動き、よほど気を付けていないと、いつもの癖が出る。〈あの男だろうか〉と、藤崎は双眼鏡の倍率をあげた。梶と名乗っていた男が〈ヴォールク〉だとすれば、藤崎は四度その男を見ていることになる。
 
横須賀の爆破現場で見かけた男、赤坂の交差点で見かけた背の高い男は、間違いなく同じ男だった。だが、赤坂のアパートで会った時と「平和荘」の廊下で対峙した時は、男の姿はシルエットになっていた。それでも、「平和荘」の男は横須賀と赤坂の交差点で見かけた人物と共通する佇まいだった。
 
今、双眼鏡の中に捉えたレッドソックスの選手は、その男と共通する雰囲気を持っている。おそらく、梶と名乗っていた男だ。だが、赤坂のアパートで正面から対峙した男は、顔こそはっきり見えなかったが、その体躯や動きが梶と名乗った男とは微妙に違っていた気がする。それが、藤崎の決断を躊躇させた。
 
藤崎は急いで動いて周囲の目を引かないように、ゆっくり立ち上がり売店にでもいくかのように落ち着いて階段を下りた。梶と名乗っていた男と思える相手は、センターのフェンスの扉を開けて入った。狙いは、やはりスコアボード裏か。ライフルが見付かった後だし、国務長官も無事に退席したから警備陣も気が緩んでいるだろう。
                                ★
一階の回廊を歩いていると、向こうから藤崎がやってきた。上島は声をかけようとしたが、一心に何かを追っているような藤崎の表情を見て動きを止めた。獲物を見付けた目だった。〈ヴォールク〉を追っているのだ。
 
上島は、藤崎の後を尾けた。妹の死以来、自分が冷静さを失っているのを上島は自覚していた。しかし、感情を抑えられなかった。満州での諜報活動では、いつも冷静でいられた。淡々と使命を果たし、常に生き延びた。
 
それが、妹の死で壊れてしまったのか。肉親のことは別なのか。妹が死に際に言った父母の死、目の前の妹の死。それが浮かぶと、いてもたってもいられない気になる。やるせなさが湧き起る。自分が学生だった頃の家族の姿が浮かんできて、不覚にも泣きそうになるのだ。戦争がすべてを変えてしまった。
 
あの男〈ヴォールク〉を殺さない限り、以前の冷静な自分には戻れない。藤崎に尾いていけば、それが叶うだろうか。
                                ★
「おい、ちょっと、その双眼鏡を貸せ」と、山村は新城に言った。
新城が首にかけていた革ひもを外し、双眼鏡を差し出した。それを受け取り、双眼鏡を、今気になった方向へ向けた。三塁側内野席で立ち上がり、階段へ向かう男に焦点を合わせる。スタジアム・ジャンパーにブルージーンズ、ニューヨーク・ヤンキースの帽子を被り、サングラスをしている。日本人離れした服装だが、日本人だった。
あの男だ、と山村にはわかった。
                                ★
男はAK47にスコープを取り付け、九回裏のスコアボードの板を外した。男の目的のためには、単発での狙撃も連射もできることが必要だった。試合が九回裏まで進むには、まだまだ時間がかかる。とはいっても、ぐずぐずしているとボードが外されたのに気付く人間がいるかもしれない。
 
視線の先に標的が見えた。銃身の先をボードの四角い穴の下端に押しあてる。寝そべってスコープを覗くと、標的が間近に見えた。動かない標的は命中率は高いし、大きな標的だとさらに命中する確率は高い。その標的は、男の腕なら簡単に命中させることができるものだった。
                                ★
レッドソックスの選手がセンターのフェンスの出入り口から姿を消した後も、ポール・バネンは不審な気持ちを抱いていた。じっと、外野のフェンスを見つめた。試合が再開される。ポール・バネンはホームに立つアメリカン・チームの選手に目を向けた。日本チームのエースが投げる。ストライクの判定だ。
 
バッターがバッターボックスを外す。今のがストライクか、と審判に確認しているようだ。バットを素振りし、再びバッターボックスに入った。ポール・バネンはスコアボードを見た。スコアボードには、ボールカウントが出ていなかった。ストライクの数字が「1」になっていなければならないのに----。
 
次の瞬間、ポール・バネンは走り出した。スコアボード裏で何かが起こっている。係員が仕事をできない状況になっている。発見されたバットケースの中のアサルトライフルは、単なるトリックだったのだ。準備した武器を発見し、国務長官が無事に離れたことで、警備に油断ができる。「スターリンの暗殺者」は、やはりハリウッドの女神を狙撃するつもりだ。
                                ★
藤崎は、最初に床に倒れている三人の男の死体に気付いた。三人とも、額の真ん中を撃ち抜かれていた。床に寝そべってライフルを構えていた男が振り向いた。ライフルを藤崎に向けようとしたが、銃身が何かに引っかかった。すぐにライフルを手から離す。その一瞬の隙をついて、藤崎は近くにあった「1」のボードを男に投げた。
                                ★
ライフルを離すと同時に腰を落とし、床に置いてあったバットケースからワルサーPPKを取り出そうとした男は、消音器を外して身に付けておくべきだったと悔やんだ。拳銃を取り出すのに手間取ったために、男は飛んできたボードを右の肩で受けることになった。激痛が走った。右手がしびれる。ワルサーPPKのグリップがしっかりつかめない。拳銃を持ち上げたが、消音器を付けているので前方に重心が移り銃口が下がった。
                                ★
藤崎は向けられた銃口を見て、横に飛んだ。藤崎の動きを追って、男の銃口が横に流れる。

その時、反対側の階段から上島が現れた。男は上島と藤崎に挟まれる形になった。だが、藤崎も上島も武器になるものを持っていない。男は拳銃を捨て、ライフルを拾い上げ銃口を藤崎に向けた。上島が男に向かって突進した。ライフルの銃口が上島に向いた。

「ドント・ムーブ」と、大きな声がした。
 
男たちの動きが止まる。上島の突進をかわした男は、スコアボードを背にして腰だめでライフルを構えている。上島は、突進した勢いで床に転がっていた。藤崎は、ボードを男に向かって投げようとする姿勢のまま凍結した。

「貴様ら、みんなソ連のエージェントか」と、鉄階段を昇りきった場所に白人が大型拳銃を構えて立っていた。

四十五口径のコルト・ガバメント。銃撃された衝撃で、相手の体は後ろに吹っ飛ぶという。もちろん一発で即死だ。
                                ★
ポール・バネンはコルト・ガバメントを構えたまま、三人の男の顔を見渡した。ふたりは間違いなくジャップだ。ひとりは、日本の警察が作った似顔絵の男だった。祖国を裏切り、ソ連から派遣されたエージェントだ。もうひとりの男に見憶えはない。
 
アサルトライフルを構えているのは、レッドソックスのユニフォームを着た長身の男。しかし、サングラスを外した目は東洋人のものだった。〈こいつがヴォールクか〉と、ポール・バネンは思った。しかし、互いに銃を向けあい、これでは膠着状態だった。
「銃を下ろせ」と、ポール・バネンは言った。
                                ★
白人が「貴様ら、みんなソ連のエージェントか」と言った瞬間、上島の中に正体不明の怒りが湧き起った。シベリアでの記憶が甦る。あの懲罰小屋での一夜。狭く身を横たえることさえできない小屋の中で孤独に耐えていた。あの時の怒りが甦った。
 
ひと晩中、体をこすり続けていた。だが、体の末端から感覚がなくなっていった。小刻みに体を動かし続けたが、強烈な眠気に襲われた。眠れば死ぬ、と言い聞かせたが、死んだ方が楽だという気持ちに負けそうになった。翌朝、小屋の扉が開かれた時、指の凍傷は手当しても手遅れだった。
 
帝大を出て陸軍に士官候補生として入り、一般人としての高い知性と教養を持っている人材がほしいと中野学校の一期生に採用された。それまでの名前も人生も棄てて別人になり、冷酷で人間の心を持たない間諜として満州で諜報活動に従事した。
 
終戦直前、ソ連に抑留され、シベリアに送られた。自分たちの命を救うために、藤崎が甘んじて銃殺刑を受け入れたことが、いつも心の隅にあった。そんな気持ちがソ連兵に逆らって、待遇改善の要求を出させたのかもしれない。どこかで死に急いでいた。
 
何度も死地を経験した。死んでもいいと何度も思ったが、その都度生き延びてきた。しかし、そのことに何の意味があったのか。祖国は敗れ、父母は焼夷弾が降り注ぐ炎の中で焼け死に、生き残りみじめな境遇に堕ちた妹を救えなかった。ようやく再会できた妹は、スターリンの暗殺者のために死んでいった。
 
一瞬で頭の中にすべてが甦り、激しい怒りが渦巻いた。体の底から突き上げてくる。上島は自分の動きを止めることはできなかった。目の前でライフルを構える男は〈ヴォールク〉だ。光子を死に追いやった男----。上島は身を起こし、〈ヴォールク〉に向かっていった。
                                ★
上島が〈ヴォールク〉に向かって突進した瞬間、「やめろ」と藤崎は大声を挙げた。同時に手に持ったボードを〈ヴォールク〉に向かって投げつける。

迫ってくる上島に向かって〈ヴォールク〉はライフルを向け、引き金を引いた。上島の左肩を銃弾がえぐったが、上島の勢いは止まらなかった。〈ヴォールク〉が連射に切り替える。だが、その時には上島の体が勢いよく〈ヴォールク〉にぶつかっていた。

上島ともつれあう〈ヴォールク〉に向かって白人が発砲した。大きな銃声が響き、銃弾が上島の背中を貫いた。〈ヴォールク〉のライフルの銃口が白人に向くと、ダダダダッと連射音が大きく響いた。白人はボードに叩きつけられたが、鮮血を迸らせながら〈ヴォールク〉に向かってコルト・ガバメントの引き金を引いた。

銃弾は〈ヴォールク〉の左胸を直撃し、再び連射音が響き、崩れ落ちようとする白人とスコアボードに銃弾を浴びせた。上島が最後の力を振り絞り、〈ヴォールク〉をスコアボードに押しつけた。その勢いで弾痕だらけのスコアボードが破れ、ふたりはもつれあったまますさまじい音と共に落下した。
 
藤崎は、ズタズタになった白人の死体に目をやり、破れたスコアボードからグラウンドを見下ろした。〈ヴォールク〉と思われる男は、外野のフェンスに不自然な形で引っかかっている。背中から血を流している上島の体は、フェンスにぶつかった後、グラウンドに落ちたのだろう。何かをつかむように、右手を前に伸ばして横たわっていた。

〈上島----〉と、藤崎は初めて名前で呼びかけた。〈死にたかったのか。死んで家族の元にいきたかったのか〉

四万人近くの観客を呑み込んだ後楽園球場は、パニックに陥った。
                                ★
銃声が立て続けに響き、バリバリという音が聞こえた後、観客が一斉に何かを叫んだり喚いたりする声が湧き起った。耳を聾さんばかりの地響きのような大音声が、山村の足を止めた。何が起こったのか。山村は観客席にもどろうかと考えたが、その時、数メートル先のスコアボード裏に続く鉄階段から藤崎一馬が降りてきた。

「動くな」と、山村は拳銃を出して言った。
藤崎が山村を見る。
「あんたか」と、藤崎が言った。
「おまえを逮捕する。若林良枝殺害容疑だ」
「私ではない」
「取調室で言え。藤崎」
「やっぱり、指紋の記録が残っていたのか。藤崎一馬で」
「陸軍の記録だ」
フフッと、藤崎が笑った。
「すべて秘密だと言ってたのに、藤崎で記録を残していたとはね」

「おまえは、何者だ」
「戦争がなければ、普通に生きていた人間だよ」
「今、生きてる人間は、みんな、戦争がなきゃ普通に生きていた」
「確かに、そうだな」
「両手を挙げて、こちらに背中を向けろ」と、山村は言った。
 
藤崎が両手を挙げたまま背中を向ける。山村は拳銃を構えて、左手で手錠を取り出した。藤崎に一歩近づいた瞬間、左足の太腿の後ろに激しい痛みを感じた。熱く焼けた火箸を差し込まれたようだった。見下ろすと、長い刃渡りの軍用ナイフが刺さっていた。
「特高警察、山村刑事」と、間近で囁く声がした。

振り向くと、進藤栄太が小刻みに身を震わせていた。右手の震えが止まらないようだった。真っ青な顔をしている。
「おまえ」と、言いながら山村は倒れた。

藤崎が振り向き、倒れた山村の右手首を足で踏んで動かないようにし、拳銃を取り上げた。進藤栄太は、その様子をぼんやりと眺めている。

「わしに拷問されて、ダメになった左脚の仇を取ったのか?」
山村は、自分が落ち着いた声を出せたことに驚いた。さらに驚いたことに、藤崎が自分のハンカチを出して山村の太腿をきつく縛り、止血をした。しかし、ナイフは刺さったままになっている。

「俺の人生を取り戻すためだ」と、進藤栄太が言った。
「取り戻せそうか?」と、山村は訊いた。
進藤栄太がうなずく。声も落ち着き、体の震えは止まっていた。山村をじっと見下ろしている。その瞳に光が戻り、はっきりした意志が現れた。
「だったら、いけ。人生をやり直せ」と、山村は言った。

進藤栄太が背中を向け、去っていく。

「人が刺されたと言っておく。すぐに手当されるだろう」
藤崎はそう言うと、拳銃をスタジアム・ジャンパーのポケットにしまい、背中を向けた。藤崎を見送った山村は、ハンカチを取り出しナイフの柄を拭った。激痛が走ったが、山村は誰の指紋も残らないようにしっかりと拭き取った。

 

2025年1月18日 (土)

■スターリンの暗殺者「第五章 標的」21

【五章の主な登場人物】
■ヴォールク(狼) 謎の工作員/狙撃手
■ロバート・パウエル CIA上級分析官
■ポール・バネン CIAエージェント
■マイケル・ダーン CIAエージェント

■花井光子 「平和荘」住人 飲み屋の女将
■柿沢恵子 「平和荘」住人 引揚者 通いの娼婦
■井上涼子 「平和荘」住人 SKDの踊子
■進藤栄太 「平和荘」住人 元新聞記者
■三浦良太 「平和荘」住人  戦災孤児の工員
■神崎辰之助 「平和荘」住人 元憲兵
■梶 幸兵 「平和荘」に引っ越してきた男

■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋 顎髭のジャズ・プレーヤー
■上島隆平 F機関の利け者 凍傷で指を失くし常に手袋をしている
■東金光一 F機関の事務方 メガネをしている

■山村善兵衛 元特高刑事
■新城玄太 警視庁公安部の新人刑事

■ジャック・デュバル メジャーリーガー
■レティシア・レイク ハリウッドの女神
■ジョン・フォスター・ダレス アメリカ合衆国国務長官

 

 

■1953年2月18日 東京・霞が関

「あの部屋から指紋はいくつか採取できたようですが、どれも記録とヒットするものはなかったようです」と、新城が報告する。
「ヒットする?」
「ああ、合致するという意味です」
「じゃあ、そう言えばいい」
 
捜査一課などと違って、公安の部屋は静かなものだ。それに、刑事たちは出払っていることが多い。彼らは何かを監視しているか、新しい情報提供者を作ろうとしているか、どちらにしろ常に何らかの行動をしている。レッドパージ以来、地下に潜った共産党幹部の探索も大きな仕事だった。
 
日本共産党が再び「武力革命」を提唱し、若者たちが「山村工作隊」と称して、農村に散ったのは数年前のことだ。共産党による武力闘争は過激化し、交番が焼き討ちされたり、警官へのテロ行為が続いた。その結果、昨年秋の総選挙では共産党は支持を失い、候補者全員が落選した。
 
現在、公安部にとっての最大の敵は日本共産党である。山村と新城は、その敵との戦いから外され、正体のわからないテロリストの追跡を担当している。そもそも、この男の背景には何があるのか。北朝鮮組織を使っているのはわかっている。といっても、ソ連の関与も感じられる。
 
梶と名乗って「平和荘」に住んでいた男が、そのテロリストであることは間違いないだろう。米軍基地を連続爆破し、横須賀の基地の近くのバーを爆破して米兵たちを多数殺傷した男。おそらく、赤坂のアパートの部屋で女性を殺し、李承晩を狙撃したのも梶という男だ。殺人容疑で手配された藤崎一馬ではない、と山村は推察していた。
 
では、藤崎は何を追っている。六日前の花井光子の店で起こった銃撃戦の情報を、山村は探っていた。内調や公安調査庁の旧知の人間にも問い合わせた。こちらの情報を提供しないと、向こうの情報はもらえない。一方的ではない、情報交換だ。藤崎一馬に関しては、こちらの情報が役立っているはずだ。
 
銃撃戦では、花井光子が死んだ。おそらく、光子は梶を匿っていた。CIAが監視し、梶を誘い出すために公然と監視することにした結果、窮鼠が猫を噛んだ。梶が手榴弾を持っていることは、予想できたはずだ。CIAのエージェントは現場から姿を消していたが、それは彼らの任務の失敗を示している。梶は、逃げ延びた。
 
しかし、光子を看取ったという上島隆平は、どう関係してくるのか。一流商社に勤める会社員である。ソ連に抑留されたが、終戦の翌年の暮れ、ソ連からの初めての復員船で帰ってきた。その後、ロシア語の能力を生かし、商社で活躍している。おそらく、抑留中に凍傷で指を失ったのだろう、左手の手袋を脱がない。だが、戦前から戦中の経歴ははっきりしない。
 
上島は「生き別れの妹かもしれないと思って訪ねてきたところ、事件に巻き込まれた」と主張している。銃撃戦の最中に車が店の近くに停車し上島が降りたのは、付近の住民が目撃していた。車は上島を残し、すぐに引き返した。だが、銃撃戦の中に、上島は怖れも見せずに入っていったという。何をしてきた男だ。
 
警察上部は、CIAが関係しているせいか、事件をやくざの出入りとして葬り去ろうとしている。終戦直後なら米軍から出た手榴弾や短機関銃を使った派手な出入りもあったが、さすがに最近はあれほどの銃撃戦を演じるやくざはいない。しかし、新聞などへの公式発表は、「やくざの喧嘩で、民間人一名が巻き添え」という形で終わるだろう。
 
上島は「妹とは違ったが、何かの縁だと思うので遺体を引き取りたい」と申し出た。調べてみると花井光子に身寄りはなく、引き取り手もなかったことから上島の希望は叶えられ、昨日、ささやかな葬儀が行われた。新城と山村は離れた場所から葬儀の様子を見ていたが、弔問に訪れたのは「平和荘」の住人たちとふたりの男だった。
 
顎髭の目立つ中年男は、花井光子の斜め前の部屋に住んでいる柿沢恵子と一緒に現れた。もうひとりのメガネをかけた三十半ばの男はひとりで現れて上島に声をかけ、火葬場まで同行した。他には、井上涼子というSKDの踊子、三浦良太という工員、それに神崎辰之助が弔問に現れ、焼香をして帰った。

「あの神崎、山村さんといきさつがあるようですね」と、新城が言った。
「また、調べたのか」と、山村は不快そうに答えた。
「調べておくのが僕の仕事です」
「同僚の過去もか?」
「例外はありません」
「あの件、神崎は誤解している」
「山村さんも仕事だったんですもんね」
「今の世の中では、許されんがね」
「進藤栄太は、葬儀にこないようですが----」
「あの男の人生を狂わせたのも、わしかもしれんな」
「公共の安全のためです。戦前戦中、彼は危険分子だった」
「時代は変わる。終戦前までの日本の社会は、全部否定された」
 
その時、山村は遠くを歩いている男に気付いた。その後ろ姿が藤崎一馬に似ているような気がした。藤崎は、警察に手配されている。あえて葬儀にやってきたのなら、上島と何らかの関係があるのか。しかし、なぜか山村は藤崎に似た男を追う気になれなかった。

■1953年2月21日 東京・羽田

ポール・バネンは、花井光子監視の報告をすませCIA東京支局を出た。梶と名乗っていた男を取り逃がし、エージェントのひとりを死なせてしまったのは大きな失敗だった。おまけに銃撃戦の巻き添えで、花井光子も死んでしまった。梶と名乗る男の手がかりはなくなった。警視庁はCIAからの申し入れを受けて、やくざの抗争事件として発表した。

「ポール」と、後ろから声がした。
振り返ると、マイケル・ダーンがニヤニヤ笑いながら立っていた。小男の尋問屋、とポール・バネンは陰で呼んでいた。ムシの好かない男だった。

「どこへいく?」と、マイケル・ダーンが言った。
「羽田だ」
「身辺警護は、本国からシークレット・サービスが付いてきているぜ」
「国務長官の来日までに、問題を排除できなかったんだ。標的になっている人物の周辺を探索するのは当然だろう」
「しかし、あんたは降ろされたんだろ」
 
ポール・バネンは、それをわざわざ言いにきたのか、と言い返そうかと考えた。確かに、先日の失敗で支局長からは、今回の件から外すと言われた。少し休め、と支局長は言ったが、仕事を途中で降りるのは業腹だった。そのことを聞きつけて、マイケル・ダーンは嫌味を言いにきたのだ。こちらが嫌っているように、マイケル・ダーンもポールを嫌っている。

「どこへいこうと、俺の自由だ」と、ポール・バネンは子供じみた言い方をした。
 マイケル・ダーンがまたニヤニヤと笑った。ポール・バネンは腹立たしさが募った。

「何年か前、『スターリンの暗殺者』のことを聞いたことがある。私はОSSに所属して、今と同じように尋問を専門にしていた。戦後すぐの頃で、ドイツに駐留していた。すでに東西冷戦が始まり、ベルリンが東西諜報組織の最前線だった。ある日、我々は英国占領地区で、食料品店を隠れ蓑にしたソ連側エージェントを拘束した。そのエージェントはよく耐えたが、結局は落ちた。我々としては、ソ連の原爆開発がどこまで進んでいるかを知りたかったのだ。ソ連のスパイに、我が国の原爆開発情報を盗み出されたからな。ソ連は、ものすごい勢いで開発していた。スターリンの厳命だった」
 
ポール・バネンは駐車場まで喋りながら尾いてくるマイケル・ダーンに閉口しながらも、その話には引き込まれた。ポール・バネンは自分の車のドアを開けた。
「この話の続き、聞きたくないのか?」と、マイケル・ダーンは言った。
 
ポール・バネンは顎で「一緒にこい」と示し、マイケル・ダーンが助手席のドアを開けて乗り込んだ。運転席に腰を下ろしたポール・バネンは車を出し、マイケル・ダーンが再び口を開いた。

「そのエージェントに強い自白剤を飲ませ、様々な質問をした。そいつは原爆の進行状況についてはほとんど情報を持っていなかったが、スターリンの粛清や処刑について詳細に知っていた。ソ連の政治局内部のことは複雑だからな。スターリンは秘密警察を駆使し、些細な疑いをかけて多くの人間を処刑し、収容所に送った。その手先になったのが、ベリヤだった。しかし、罪に陥れるための些細な疑いさえ被せられない人間がいた。冤罪に陥れるにしても、そのとっかかりもない弱みを持たない人間だ」

「そんな人間がソ連にもいたのかね」
「少しはいたようだ。彼らは革命時の英雄であり、国民的な人気もあった。政敵を粛清する時にスターリンがよく使ったのが『国家反逆罪』だったが、誰が見ても立派な愛国者だった。そんな人間たちを秘密裡に抹殺したい時に使ったのが、〈ヴォールク〉と呼ばれる暗殺者だったという。そのエージェントは『スターリンの暗殺者』と呼んだ。スターリン直属で、彼の命令しか聞かない特別な存在だった」
 
日本の道路事情はひどいものだ、とマイケル・ダーンの話を聞きながらポール・バネンは罵りたくなった。都心は多少ましだが、少し離れると舗装していないガタガタ道になる。羽田へ向かう土埃の舞い上がる道を、ポール・バネンは車を走らせた。

「その暗殺者がどうした?」
「先日、確保したイワン・キリーロフ。その後、自白剤を強くして、もう一度尋問してみた」と、マイケル・ダーンが言った。
「あれ以上、強い薬を使うと命に責任を持てないと、この間はロバートに言ったじゃないか」と、ポール・バネンは責める口調で言った。
「ああ、キリーロフは精神に変調をきたし、心臓が負担に耐えられず死んだよ」
「殺したな」
「事故だよ」
「死ぬのを予測して仕掛けた」
「しかし、キリーロフは『スターリンの暗殺者』のことを喋った。奴は我々を騙していたんだ。最初の自白剤には耐えたんだよ。大したもんだ。彼は重要な情報を持っていた」
マイケル・ダーンは、キリーロフから重要情報を引き出したことを誇った。

「どういうことだ?」
「スターリンは、朝鮮戦争の長期化を狙っている。中共と我が国に消耗戦を続けさせたいのさ。それで、〈ヴォールク〉を日本に潜入させ、米軍基地や米兵の溜まり場へのテロを仕掛け、米兵を殺傷し、李承晩暗殺を図り、次はおそらく国務長官を狙う。朝鮮戦争を長期化させるための火種だ」
「そんな単純な計画で、うまくいくものか」
「スターリンがトロツキーを蹴落としたきっかけを知っているか?」
「いや」

「トロツキーはレーニンの後継者と目されていたが、レーニンが死んだ時には別荘にいた。そこへスターリンからレーニンの死を知らせる電報が届いた。葬儀の日付を見ると、とても間に合わない。トロツキーは葬儀に出られないと返信した。ところが、実際の葬儀はスターリンがトロツキーに知らせた日の三日後に行われた。スターリンは葬儀を取り仕切り、後継者の地位を獲得した。単純なひっかけが、大成功したわけだ」
「トロツキーが間抜けだったのさ」

「スターリンは、単純なマキャべリストだ。大粛清の時、共産党幹部の大多数を処刑したが、彼らに『家族だけは助ける』と約束して国家反逆罪を認めさせた。しかし、彼らの処刑後、約束を破ってその家族を処刑した。スターリンが考えることは、想像がつく」
「今度のことも、スターリンの狙い通りにいっていると思うのか」

「数十人の米兵が死んだことで、本国の世論は『中国・北朝鮮に報復を』となった。これで、国務長官が暗殺されたら、スターリンの狙い通りになるかもしれない」
「アイゼンハワーの公約は、朝鮮戦争の早期終結だ」
「国務長官まで暗殺されて黙っていたら、アイク人気も暴落するさ」
「米兵も大勢死んでいるからな。東洋の果てのちっちゃな半島で、なぜ米兵が命を懸けなきゃいけないのか、アイオワでコーン作ってるおっさんには理解できないさ」
 
マイケル・ダーンが笑ったが、パール・バネンは別にジョークを言ったつもりではなかった。アイオワのおっさんは、コリアがどこにあるかさえ知らないだろう。ようやく、羽田が見えてきた。

「ソ連内部では、スターリンの朝鮮戦争長期化の考えに反対する勢力が存在するらしい。歳をとってスターリンの権力にも陰りが出てきたのかもしれない。そのグループが〈ヴォールク〉阻止を企んで人を送った。それが、藤崎という日本人だ。キリーロフは藤崎に情報を伝達する役だったから、現在、藤崎はソ連の諜報機関からの情報も入らず、孤立無援になっている」
「確かな話か」
「ああ」

羽田空港の駐車場に車を入れたポール・バネンは、窓を開けて青空を見上げた。一時間もすれば、特別機で国務長官がやってくる予定だった。

■1953年2月21日 東京・後楽園球場

後楽園球場の警備員が、オート三輪の前に立ちふさがった。
「おい、どこへいくんだ」と、警備員が言った。
男はオート三輪から降りる。荷台を振り返り、警備員の方を向いた。
「明日の準備で、飲み物を搬入しにきたんだ。久しぶりの野球の開催だからね。この一台分じゃ足りないから、午後からも何人か搬入にくると思う」
 
二月末。すでに春のキャンプをスタートさせたチームもあるが、ここでプロ野球が定期的に開催されるのは、三月のオープン戦を経て四月から十月中旬までの公式戦の期間である。三年前にプロ野球界はセントラル・リーグとパシフィック・リーグに分裂し、昨年からはフランチャイズ制が導入された。
 
後楽園球場をフランチャイズとするチームは、読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、東映フライヤーズ、毎日オリオンズ、大映ユニオンズの五チームあり、それぞれがホームとして後楽園球場を使うから、シーズン中はほとんどどこかのチームのホームゲームが開催されていた。
 
しかし、何も開催されていない時の球場は閑散としたものである。競輪が開催されている後楽園競輪場へいけば多くの人が集まっているが、球場の周辺はほとんど人通りもない。しかし、明日は球場が満杯になるだろうし、周辺にも多くのファンが集まるだろう。アメリカン・チームは憧れの選手ばかりで、ファンが殺到するに違いない。

「一応、警備室のノートに記入しておいてくれないか」と、警備員は警備室の窓口に置いてあるノートを指した。
「わかった」と答えて、男は警備室の窓口に向かった。
入場時刻、目的、退出予定時間、所属、氏名を書く欄があった。「後楽園スタジアム株式会社販売部・飲料搬入」などと書いて、入場時刻を腕時計で確認して記入し、退出予定を二時間後にしておいた。多少の遅れは大丈夫だろう。

男は再びオート三輪にまたがり、エンジンをかけた。右手でスロットルをまわし、回転を上げる。クラッチをつないで低速で球場の通路を進んだ。図面を頭に叩き込んであるので、戸惑うことはない。

明日は大勢の観客が入るだろうから、ジュース類、ビールなどを大量に運び込み冷やしておかなければならないことは、警備員にもわかっているのだ。だから、簡単に通り抜けることができた。本物の搬入員は、午後からでないとこないのはわかっている。
 
売店のための貯蔵庫の前にオート三輪を停め、荷台の幌を撥ね上げた。遠くから見ると、搬入作業をしているように見えるはずだ。男は荷台のビールケースをずらし、下から三十センチ四方の段ボール箱を取り出した。公式試合用の硬球の箱であり、スポーツメーカーの名前が印刷されている。
 
その箱を抱えて三塁側ベンチに入り、隅に置いた。箱の位置にしゃがみ込み、視線をスコアボードと外野のフェンスに向けた。外野側から箱が視認できることを確認する。それからオート三輪に戻り、荷台からバットケースを取り出した。二本のバットを並べて収納できるハードケースである。
 
球場を一周できる回廊をまわってスコアボード下までいき、鉄製の階段でスコアボード裏へ昇った。試合になると、二名がこの場所に待機しているはずだ。スコア用に使用する数字が描かれたボードが、0から9までの順番に壁に立てかけられている。
 
その壁とボードの間を広げて、男はバットケースを横にして落とし込んだ。ケースは見えなくなったが、試合が始まってボードが使われていくと、バットケースが見つかるかもしれない。なぜ、こんなところにあるのだろう、と不審がられるはずだ。もう一度、場所の様子を記憶し、反対側の鉄階段を降りた。
 
その他の準備を貯蔵室ですませても退出予定時刻まで余裕ができたので、ビールケースを抱えて球場内を見てまわった。誰かに見つかれば、各売店にビールを運んでいると説明するつもりだったが、誰にも会わずにすんだ。オート三輪を停めた場所に戻り、警備室で退出時刻を記入して外へ出た。
 
球場近くにオート三輪を停め、幌を下ろした荷台に入り、着替えを始める。着替え終わると、オート三輪を工事中の後楽園駅の前に置き、荷台から先ほどと同じ大きさの段ボール箱を取り出した。箱には「建築用凝固剤」という製品名とセメント会社の名前が印刷されていた。
 
男は、地下鉄工事の現場に降りていった。ヘルメットをかぶり、作業着の胸には建設会社名が入っている。地下足袋が地面に触れる感触に慣れていないので、おかしな歩き方にならないように気を付けた。地下の工事現場を抜け、地上へ出る。地下鉄駅と言っても、後楽園駅は地上にある。
 
工事現場のフェンスから首だけ出して見渡すと、交差点のほぼ真ん中だった。完全な交通遮断はしていないが、ここを抜ける時には必ず一旦停止しなければならない。作業員が交通整理をしており、数分停止すれば通過できた。球場の通用口を出て白山通りか目白通りに抜けるためには、必ず通らなければならない交差点だった。
 
先ほど聞いたラジオのニュースでは、米国の国務長官は特別機で羽田に到着したらしい。また、昨日、ハリウッドスターのレティシア・レイクとヤンキースの四番打者ジャック・デュバルの新婚夫婦が来日して帝国ホテルに宿泊した。明日、午後一時から行われる日米親善野球の試合に出場および観戦するとアナウンサーが言った。さらに、国務長官もアメリカン・チームを激励する予定だと付け加えた。

 

2025年1月11日 (土)

■スターリンの暗殺者「第五章 標的」20

【五章の主な登場人物】
■ヴォールク(狼) 謎の工作員/狙撃手
■ロバート・パウエル CIA上級分析官
■ポール・バネン CIAエージェント
■マイケル・ダーン CIAエージェント

■花井光子 「平和荘」住人 飲み屋の女将
■柿沢恵子 「平和荘」住人 引揚者 通いの娼婦
■井上涼子 「平和荘」住人 SKDの踊子
■進藤栄太 「平和荘」住人 元新聞記者
■三浦良太 「平和荘」住人  戦災孤児の工員
■神崎辰之助 「平和荘」住人 元憲兵
■梶 幸兵 「平和荘」に引っ越してきた男

■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋 顎髭のジャズ・プレーヤー
■上島隆平 F機関の利け者 凍傷で指を失くし常に手袋をしている
■東金光一 F機関の事務方 メガネをしている

■山村善兵衛 元特高刑事
■新城玄太 警視庁公安部の新人刑事

■ジャック・デュバル メジャーリーガー
■レティシア・レイク ハリウッドの女神
■ジョン・フォスター・ダレス アメリカ合衆国国務長官

 

■1953年2月12日 東京・代々木

「警視庁公安部が発見した男は、米軍基地の連続爆破犯、横須賀基地近くのバーを爆破し米兵を多数殺傷した犯人、李承晩暗殺未遂犯と断定してもいいだろう」
ロバート・パウエルはポール・バネンとマイケル・ダーンを前に、日本側から入った情報を詳細に説明した。

「警視庁公安部の刑事が、そのアパートにいったのは偶然だったということですか」と、マイケル・ダーンが訊いた。
「そうだ。たまたま別の件を調べていたらしい」
「その刑事が会った、在日朝鮮人のやくざ。身柄確保して尋問したい」と、ポール・バネンが言った。
「ところが、金山を確保しようと、警察が改めて松原組へいったところ、姿を消していた。組の誰もが行方は知らないと答えた」

「そのやくざは、間違いなく北朝鮮の組織とつながっているはずだ」と、ポール・バネンは苛立ちを隠さなかった。「その刑事は何だって、怪しんだ段階でアパートの男を逮捕しなかったんだ」
「周辺の調査を優先したのだろう。民主警察だから、証拠固めをしてからと考えたのかもしれん。もっとも、その刑事は戦前は特高警察で思想弾圧をしていたらしいがね」

「我々は、拷問も自白剤も躊躇しない」と、マイケル・ダーンが言う。
「確保してある北朝鮮工作員のふたり、その後、何か自白したかね」と、ロバート・パウエルは訊いた。
「先日までの情報以外、何も知らないようです。もっと情報を持っている人間を、確保すべきでした」
マイケル・ダーンは、ポール・バネンに当てつけるような言い方をした。

「彼らは、情報を集中しない。ひとりひとりは個別の断片的な指令しか受けないので、断片情報しか知らないのだ。すべての情報を握っている人間は、平壌にいる」と、ポール・バネンが言った。
「とすると、その男につながるルートは何もないということか」と、マイケル・ダーンが落胆したように言う。
「男の部屋からは、何も見つからなかった。指紋はいくつか出たが、データベースにヒットするものはなかった。ただ、警察の聞き込みの中で、いくつか判明したことがある」
 
ロバート・パウエルは、そこで言葉を切った。もったいぶっていると思うだろうが、その男に関しての手がかりはそれしかないのだ。ポール・バネンとマイケル・ダーンはロバート・パウエルの言葉を待っていた。

「複数の住人の証言によると、その男は二階に住んでいる花井光子と関係ができていた。花井光子は、アパートの近くで呑み屋を開いている。元はRAAの娼婦だった。警察は花井光子を連行して尋問した。女は男については何も知らなかったが、八日の日曜日に初めてふたりで出かけたと話した」
「どこへ?」
ポール・バネンが訊いた。自然と口に出たらしい。

「ふたりは水道橋駅で待ち合わせ、その周辺を隈なく歩いたらしい」
「あそこには、後楽園球場がある」と、ポール・バネンが言った。
「そうだ。女連れなら怪しまれずに周辺を調べられる」
「その女は?」と、マイケル・ダーンが口を挟んだ。
「二十四時間の監視を付けてある」と、ロバート・パウエルは答えた。
「俺も、そのチームに加えてもらおう」
立ち上がりながらポール・バネンが言った。現場に戻りたいのだ。国務長官の来日まで、もう十日を切っていた。

■1953年2月12日 東京・上野

男は酒やビールケースが積み上げられた三畳の部屋で、丸一日近くを過ごしていた。追跡を振り切った後、男は吾妻橋を超えた隅田川沿いでオート三輪を降りた。爆薬類を入れたトランクと狙撃用ライフルを収納した楽器ケースは、オート三輪の荷台に残したままだった。あの男に渡すよう連絡員に託す。

「あなたは、どこへ?」と、若い連絡員は言った。
その連絡員が部屋に飛び込んできて合言葉を口にした時、若すぎると男は思った。若いということは、経験不足ということだ。この仕事では、経験不足は致命的なこともある。しかし、よほど緊急だったのだろうと推察した。あの男は、緊急事態でない限り、万全の態勢を取るはずだ。しかし、若い連絡員が「どこへ?」と訊いたことで、改めて未熟さを感じた。

「必要があれば、連絡する」と男は言って、隅田川沿いを下りタクシーを拾った。もう一個の革のトランクには、手榴弾と短機関銃と大型拳銃、それに弾薬がたっぷり入っている。その分、重さは相当なもので、よくアパートから抱えてくることができたものだと思う。連絡員がいなければ、どちらかのトランクはあきらめねばならなかっただろう。連絡にオート三輪と人を寄こしたのは、あの男なりの配慮だったのだ。
 
しかし、衣類や細々としたものを入れていたボストンバッグも、あの男が現れなければ持ち出せたのだ。問題は、サイドポケットに入れておいた資料やメモだ。押収されたとすれば、こちらの狙いを読み解かれるかもしれない。だとしても、計画を中断するわけにはいかない。あの資料やメモ、雑誌が押収されたことを前提に計画を立て直すしかない。
 
隅田川沿いを下り再び橋を渡り、光子の店から少し離れた場所でタクシーを降りた。すでに夕暮れを迎えていた。トランクを提げて光子の店と反対の方向に向かい、路地に入った。路地裏沿いに光子の店に向かう。光子が開店の準備をしているのはわかっていた。
 
光子の店に隠れるのは賭けだったが、「平和荘」の様子を知りたかったのと、「灯台下暗し」という日本のことわざが浮かんだからだ。ただ、光子と梶のことはアパートの住人に知られている。梶につながる光子が、警察の監視対象になる可能性はあった。しかし、それを逆手に使えるかもしれない。
 
男の出現に、光子は驚いた顔をした。男は「匿ってくれないか」と言っただけだった。光子は物置にしている小部屋に男を匿い、「しばらく我慢して」と言った。
「ここに警察はきたか?」
「ううん」
「たぶん、今頃はアパートの住人が警察に聴取されている。きみとの関係も知られるだろう。とすると、きみはしつこく尋問される」
「どうすればいいの?」
「本当のことを言うんだ。私のことは何も知らない、それは本当だろ」
「そうね。この間のことは?」
「きみは尋問に慣れていないから、事実を言えばいい。私を匿っていること以外は----」
 
彼らは、後楽園球場のことを知るだろう。あのボストンバッグを押収された段階で、それは知られてしまったことだ。光子が話したところで変わりはない。その情報が奴らに渡ったことによって、ミスリードできる可能性がある。標的が何なのか、彼らは戸惑うだろう。男は計画を練り直した。
 
その夜、アパートに帰った光子は、警察署まで連行されて事情聴取されたという。アパートの住人たちは事情がわからないまま聴取され、逃亡していた殺人犯だとか、北朝鮮の工作員だったとか、地下に潜っていた共産党幹部だったとか、梶について様々な憶測が飛んでいた。
 
光子は、今日もいつもと同じように午後に店に現れ、準備を始めた。警察は、梶がいた部屋を封鎖しているが、警官が一名交代でいるだけで、刑事たちは引き上げたと光子は言った。問題は、梶との関係で光子が監視対象になっている可能性があることだった。ただし、光子を監視しているのなら、彼女が移動すれば監視している奴らも移動するはずだ。
 
二十四時間、ここにいるのはそれが限度だと男は思った。アパートを調べたのは、警視庁の人間だけだったという。昨日、アパートを飛び出した男を追ってきたのは、赤坂のアパートに出現した男なのか。あの男は「ヴォールクか」と口にした。あの男は、なぜ梶のアパートがわかったのだろう。
 
連絡員の話では、アパートの部屋を手配した男のところに刑事がきたので、急いで撤退を知らせにきたということだった。逃げる途中で振り向いた時、「ヴォールク」と言った男はふたりの男に追われていたようだ。遠くてはっきり確認できなかったが、あのふたりが刑事だとすれば、あの男も警察に追われている。
 
これまでの梶の動きは、ほぼ知られていると考えるべきだ。追っているとしたら、警察を始めとした日本の官憲、それに米国の情報組織、米軍の情報部やМPも考えられる。それ以外に、どんな存在があるだろう。ソ連の組織か。しかし、男はスターリンの命令を実行しているのだ。スターリンに反旗を翻す奴がソ連内にいるだろうか。
 
今夜、光子が店を閉めて帰った段階で、光子には知らせずに男は別の場所に移動するつもりだった。もう「平和荘」の様子を知る必要はない。今のところ、米軍関係、CIAの影は見えていない。だとすれば、目的の日まで、どこかで身を隠しておくのが最も賢明な判断だった。

■1953年2月12日 東京・新宿

「きみたちには、もう頼らないつもりだったのだが----」と、藤崎は言った。
新宿の渡辺の家で、四人の男は集まっていた。藤崎が吹き出しそうになったのは、渡辺が昨日の出来事を語り終わり、東金に「どうして、Wさんは、そのアパートにいたんですか?」と訊かれた時だった。

渡辺は、突然、しどろもどろになった。それまで理路整然と話していただけに、その変化は藤崎の笑いを誘った。上島も東金も理由がわからないまま、藤崎が笑うのにつられて笑みを浮かべた。
「そのことは、〈ヴォールク〉とは関係ないから」と、渡辺は答えるしかなかった。

「話しておいたら、どうだい」と、藤崎は促した。
渡辺が藤崎を見て、躊躇する。決断の早い男だったが、プライベートなこと、特に女のこととなると、照れてしまうのかもしれない。四十半ばの男のくせに、まるで少年のようにはにかんだ。

「代わりに話しておこう。彼は、満州時代の女性と再会したんだ。向こうは引揚げで苦労して、今もいろいろ大変らしいのだが、再会して焼けぼっくいに火が点いたらしい。その女性が、たまたま平和荘の二階に住んでいた」
「だから、その部屋からアパートの出入りを見張っていたんですね」と、東金が確認する。
「Fを刑事たちが追っている間に部屋から持ってきたのが、このバッグなんだな」と、上島は渡辺に確認するように言ってバッグを開いた。

中身を、すべてテーブルの上に出す。衣類を一点一点、点検する。衣類に何かがくるまれていることはなかった。サイドポケットを開くと、折りたたんだ紙と何枚かのメモ用紙が出てきた。さらに、「週刊朝日」と「月刊平凡」があった。上島は、それらを丁寧に広げる。雑誌はページを繰って、何かが挟まれていないかを確認した。栞のように一枚のメモが「月刊平凡」のグラビアページに挟まれていた。

「これを、見てみろ」と、折りたたまれた紙を広げて上島が言った。「後楽園球場の図面だぜ。配管、電気の配線までわかる」
全員が、その広げられた図面を見下ろした。
「後楽園球場は、二年前にナイター設備を設置する工事が行われた。これは、その時に起こした図面じゃないか。ナイターの照明灯が描き込まれている」と、渡辺が言った。

「すでに調べておいたってわけかい。手まわしがいい」と、上島が言った。
「東京大空襲の時、最初に作られたスコアボードが焼けちまった。それが三年ほど前、昭和二十四年に二代目のスコアボードが完成したんだ。もう一枚の図面は、その時のものらしい。スコアボードの構造が詳細にわかる」と、渡辺が説明する。
「スコアボードは、バックネットのVIP席の真正面になるのか」と、藤崎が訊いた。

「三年前のスコアボードの改修で、以前より位置が高くなっているらしい。試合中はスコアボード裏に係員がいて、ヒットが出たり、点が入ったりすると、数字のボードを入れ替える作業をやっている。選手交替だと、選手名のボードも入れ替えなきゃならない。けっこう忙しいぜ」と、渡辺が答えた。
「何人だ?」
「少なくとも、ひとりではないだろう」

「スコアボード裏から、観覧席にいる人物を狙撃する?」と、東金が言った。「〈ヴォールク〉なら、スコアボードの係員を殺してでも実行するでしょうね」
「標的は、この記事に出ている人物の可能性が高いな」と、上島が「週刊朝日」の頁を開いて見せた。
 
そのページの見出しには、「新国務長官、日米野球の親善試合を観戦予定」とあった。ジョン・フォスター・ダレス国務長官は二月二十一日に来日し、翌日に後楽園球場で予定されている日米代表チームの親善野球試合を観戦する予定、と記事は詳細を伝えていた。

「〈ヴォールク〉の狙いは、それか」と、渡辺が言った。
「国務長官を暗殺されたら、アイゼンハワー新大統領は朝鮮戦争の休戦交渉に入るどころじゃなくなりますね」と、東金が冷静に言った。
上島は、他のメモを一枚一枚丁寧に見ていた。手描きのメモを取り上げて、じっと見る。
「これは、〈ヴォールク〉が自分で確かめて描いた周辺の詳細な地図らしい。目印になるようなものも書き加えられている。Tよ、ここから何か読み取れるか」と、上島は東金に言った。
 
東金は手描きの地図を受け取り、じっと見つめる。球場を中央に置き、水道橋駅までのルートと白山通りや目白通りなど幹線道路も描かれている。二年前に池袋駅で起工式が行われた地下鉄丸の内線の工事地域も描き込まれていた。丸ノ内線の後楽園駅が完成すれば、水道橋駅より球場には近くなる。その工事中の地域の一角に「▽」マークが描き込まれていた。

「逃走ルートの検討をしたんでしょうかねぇ」と、東金は首をひねった。「地下鉄工事中のルートを通れば、追っ手を攪乱できるかもしれない」
「その可能性はあるな。ところで、『月刊平凡』に栞が挟まっていたけど、どんなページだった」と、藤崎は言った。

渡辺が、そのページを広げた。「ハリウッド女優と野球界のヒーロー結婚」と大きな見出しが踊っている。金髪の美人女優とニューヨーク・ヤンキースのユニフォームを着た大柄な白人男の写真が大きく載っている。

「レティシア・レイクとジャック・デュバルですよ。先日、結婚した。米国中の話題を独占しています。ジャック・デュバルがアメリカン・チームの一員として親善試合に出場するので、ついでに日本で新婚旅行だそうです。試合が終われば、京都奈良へいくらしいですよ。この記事にも出ています」と、東金が詳しく解説した。
「それで、〈ヴォールク〉はこの雑誌も確認していたのか。当然、その女優も試合当日は観戦するんだろうな」と、藤崎が言う。

「米国政界のVIP、人気絶頂のハリウッド女優、それに米国野球界のヒーロー、三人が揃うってわけか」と、上島が指摘した。
「ジャック・デュバルってのは、米国のヒーローなのか。日本で言えば、誰だ?」と、渡辺が訊く。
「まったく、野球オンチなんだから。日本人選手で言えば、全盛期の川上哲治かな」と、東金が答えた。
「川上自体がよくわからん」と渡辺が言い、他の三人が笑った。

「ところで、『平和荘』の梶と名乗っていた男だが、二階に住んでいた女と関係ができていた。その女は警察でしつこく尋問された。その女を張っていれば、梶が現れるかもしれないと考える奴もいる」と、渡辺が言った。
「警察か」と、上島が訊いた。
「いいや、米軍関係者じゃないかと思う。昨夜から女を監視している連中の中に白人がいる」
「CIAか」と、藤崎が言った。「あいつら、日本の警察ほど甘くない」

「その女、何て名だ?」と、何気なく上島が訊いた。
「花井光子。アパートの近くで、呑み屋をひとりでやっている」
渡辺がそう答えた途端、上島が立ち上がった。渡辺を見つめる。

「いくつだ、その女」と、上島の顔色が変わっていた。
「二十代後半かな」
「その女のところへ連れてってくれ」と、上島は今にも飛び出しそうだった。
「何なんだ、その女」と、藤崎が訊いた。
「妹----、かもしれない」と、上島がじっと左手を見ながらつぶやいた。

■1953年2月12日 東京・上野

ポール・バネンは、花井光子がのれんを仕舞いながら、駐車した大型車を気にしている様子をビルの二階の窓から見ていた。夜の十一時を過ぎ、人通りは少なくなっているし、少ない外灯の周辺を除いて辺りは闇に包まれている。
 
昨夜から監視を始めたが、二十四時間経っても動きはなかった。そこで、ポール・バネンは、あえて監視を気付かせることにした。光子の店の正面に大型の米国車を駐車し、誰が見ても監視していることがわかるようにした。
 
酔客たちは店を出ると怪訝そうに大型車を見て、その中にふたりの白人が座っているのに気付き目を反らせた。中には、わざわざ店に戻る者もいた。おそらく、女将の光子に知らせているのだろう。
 
ここまで監視をあからさまにして、まったく動きがなかったら、光子は梶と名乗っていた男の居場所はおそらく知らない。また、店内に男が匿われている可能性もないだろう。もし、男が店内に匿われていたら、何らかの反撃に出るかもしれない。
 
大型車に乗っているふたりは、自分たちが囮であることを知っているし、充分に警戒をしている。ポール・バネン自身は、その大型車と店の入口の両方が見える斜め前の建物の二階に潜んでいた。一階が喫茶店で二階は喫茶店のオーナーの自宅だったが、その一室を提供させたのだ。
 
花井光子が店に戻ってから二十分が過ぎた。昨夜はのれんを仕舞うとすぐに店の灯りを落とし、アパートへ帰った。それに比べ、二十分という時間は長過ぎた。監視をあからさまにして四時間、客も帰り、店仕舞いをして、中で何をしているのか。ポール・バネンは無線機を取り出し、大型車のふたりを呼び出した。
「のれんを仕舞ってから時間がかかっている。警戒しろ」
「了解」
 
その時、突然、店の灯りが消えた。店の灯りに照らされていた周囲は、急に闇に包まれた。ポール・バネンが視線を移すと、外灯の淡い光の輪の外にはいたが、大型車は微かな光に浮かび上がっていた。まずい、とポール・バネンは思った。
「すぐに、車を出ろ」と、無線機に向かって叫んだ。
 
その時、ガラガラと大きな音を立てて店の入口の引き戸が開いた。その音に注意を引かれ、思わず目を移した時、店の奥の暗闇から何かが投げられた。ふたりは車から出ようと、運転席と助手席のドアを開けたところだった。その車のボンネットに何かが撥ねた。
「手榴弾だ」と、ポール・バネンは窓を開け放って怒鳴った。
ふたりは車の後方に走った。短機関銃の掃射音がした。その時、手榴弾が爆発した。
                                                                                                   ★
「まだ、外に大型の米国車が駐車している。中にいるのは白人ふたりだと、お客が教えてくれたわ」と、光子は言った。
「監視しているのだと教えているのだ。こちらをおびき出そうとしている」と、男は答えた。

「ここにいるのを知っているのかしら」
「いや、それがわからないから監視していることを、わかるようにしたのだろう」
「どうするの?」
「大型の米国車で白人が乗っている。つまり、米軍関係か、CIAか。どちらにしろ、手荒なことをやってくるかもしれないな。日本の警察とは違う」
 
男は、トランクを開いた。四十五口径の大型拳銃を取り出し、挿弾子を点検して挿入し、銃身をスライドさせて一発を薬室に送り込み、安全装置をかけ、背中の位置でベルトに挟んだ。予備の挿弾子を二個ジャケットの左右のポケットに入れる。右足のズボンの裾をまくり上げ、軍用ナイフをテープで脚に張り付けた。
 
短機関銃の弾倉をふたつ取り出し、上下を逆にしてテープでしっかりと固定する。ひとつの弾倉が空になれば引き抜き、上下を逆にして挿入すれば一秒で新しい弾倉を装着できる。ただ、大きくてかさばるので予備は持っていけない。手榴弾をコートの左右のポケットに一個ずつ入れ、短機関銃を右手で持って立ち上がる。二個をつなげた弾倉が長く下に伸びていた。
 
光子が目を丸くして、そんな男を見つめた。
「機先を制して、強行突破する」と、男は言った。「合図をしたら、店の灯りを消せ。その前に数分、目を閉じて暗闇に慣れさせておくんだ。灯りを消すとすぐに、入口の引き戸を大きな音をさせて開く。そのタイミングも教える。開いた後は、扉の横で身を伏せていろ」

「わかったわ」と、光子は答えた。
「ずいぶん落ち着いているんだな。死ぬかもしれないぞ」
「死んでもいいのよ。空襲でひとりぼっちになってから、ひどい生活をしてきたの。あなたに会って、初めて楽しい日々を送った」
男は、光子を見つめた。どんな人生だったかは想像できた。この前、ふたりで出かけた時の光子の表情が甦った。

「本当にひとりなのか。誰か身寄りはいないのか」
「もしかしたら、兄が生きているかもしれない。でも、会いたくなかった。自分が汚れてしまった気がして----」
「自分に恥じない生き方をしていれば、汚れるなんてことはない。きみは恥じてるか」
「ううん、あんな時代を生き抜いてきたことを誇りにしているわ」
「だったら、きみは汚れてなんかいやしない」

「あなたは?」
「同じさ。今までやってきたことを恥じちゃいない。生き抜くために必要だった」
光子が男を見た。嘘を見抜く目だった。そう、嘘は言っていない、と男は思った。
「では、目を閉じて、『消せ』と言ったら灯りを消し、『開けろ』と言ったら、引き戸を思いっきり開くんだ」
 
五分後、店の灯りを消し、その数秒後、引き戸を開いた。その瞬間、男は手榴弾のピンを引き抜き、大型車に向かって投げた。手榴弾がボンネットで撥ねた。ドアを開けて飛び出した白人たちが車の後方に走る。男はひとりの白人に向かって、短機関銃を掃射した。爆発が起き、車が炎上した。
                                        ★
渡辺が手配した車に四人で同乗し、新宿から上野方面に向かった。上島は、車の中でも気が逸っていた。花井光子。年頃からいっても、妹に間違いない。だが、一方で同姓同名の同じ年頃の女なのではないか、という疑いも湧き起こる。早く着かないか、と上島は後部座席で気ばかり焦らせていた。

「花井が、中野学校へ入る前の本名なんですか?」と、隣に座っている東金がのんびりした口調で言った。
「ああ」と上島は答えたが、東金の静かな口調で気が鎮まるようだった。
「じゃあ、Fさんは?」
助手席から藤崎が振り返った。
「もう忘れたよ」

「親族縁者は、みんな原爆でやられたからですか」
「そうだな。古い名前を思い出しても意味がない」
「もし、彼女が妹だったら、一緒に暮らすかい?」と、渡辺が運転しながら上島に訊いた。
「さあ、もう大人だし、どんな人生を送ってきたかもわからない。もしかしたら、俺には会いたくないと思っているかもしれない」
「どうして?」

「会いたいと思っていたら、何か連絡できるような手がかりを残していただろうし、探す方法はあった」
「兄は死んだと思っていたんじゃ----」と、東金が言った。
「わからん。ただ、生きているのなら、そのことだけは確認したいし、困っているのなら助けたい」
 
車が上野から田原町方面に入る。もうすぐ花井光子の店だった。もしかしたら、もう店は閉まっているかもしれないが、その時は「平和荘」にまわればいい。
その時、爆発音が聞こえた。
                                         ★
車が炎上し、その数メートル後ろで白人ふたりが倒れていた。ポール・バネンはコルト・ガバメントを取り出し、二階の窓から光子の店の入口に向かって装弾子に入っているだけの弾丸を撃ち込んだ。空になった装弾子をボタンを押して落とし、ポケットから新しい装弾子を取り出して装填した。銃身をスライドして薬室に弾丸を送り込む。

光子の店の中は、不気味な沈黙が続いている。車が炎上する音だけが聞こえた。倒れていた白人のひとりが身を起こした。ポール・バネンのいる窓を振り向き、拳銃を取り出した。ポール・バネンが部屋を飛び出し階段を駆け降りる途中で、拳銃を撃つ音が連続して起こった。
 
ポール・バネンが道に飛び出した時、炎上する車の後方から白人はまだ拳銃を撃ち続けていた。弾が切れたのか、その音が途絶えた。ポール・バネンの銃撃にも、店の中からは一切反撃はなかった。不自然だった。そんなに簡単に射殺されたとは思えない。こちらが様子を見にいくのを待っているのか。
 
炎上する車の明かりで、周囲は照らし出されている。悪いことに、かえって店の周辺は闇に沈んでいた。炎上する車の後方の白人は、店の入口に向かうには最も明るい場所を通過しなければならない。完全に姿を晒すことになる。ビルの物陰に身を隠したまま、ポール・バネンは焦った。
 
その時、一台のヘッドライトを消した車が大通りを走ってきた。店の五メートルほど手前で停車し、後部ドアが開いて男がひとり飛び出した。店に向かって走る。
                                         ★
暗闇の中で、男は光子の体を抱き上げた。銃弾が彼女の右の胸を撃ち抜いていた。すぐに肺に血液があふれだす。「扉の後ろで身を伏せておけ」とは言ったが、光子が被弾する確率は高かった。だが、男自身が引き戸を開けると手榴弾を投げるタイミングが遅れ、先に銃撃を受けたかもしれなかった。
 
かすかな後悔のようなものが、男の胸に湧き起る。他人に対してこんな感情が起こったのは、あの男に対してだけだった。同じ訓練所で出会った男。スターリンは別にして、あの男にだけは個人的な感情が湧き上がる時がある。男は、抱き上げている光子を見つめた。
「逃げて」と、光子が荒い息で言った。
 
男は、光子を横たえた。ひとりは炎上する車の後ろにいる。車にいたもうひとりは、おそらく無力化した。もうひとりは先ほど二階の窓から撃ってきたが、今はビルの一階の入口で身を隠している。短機関銃で連射し、その間に逃げるしかないだろう。だが、そのタイミングをどうするか。
 
その時、車の停まる音がした。見ると、日本人の男がひとり走ってくる。男は開いたままの戸口を飛び出し、先ほど銃撃してきた白人が身を隠しているあたりを連射した。短機関銃とはいえ、ダダダダダと連射する銃撃音は足をすくませる。そのまま走り、振り向いて連射し、弾丸を撃ち尽くすと弾倉を逆にして装填し、もう一度振り向いて連射した。
 
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。消防車かパトカーかはわからない。まるで、戦争が始まったような騒ぎだったのだ。近辺の人間は銃撃音を怖れて出てこないが、警察と消防に連絡がいっているのは間違いない。
 
男は弾を撃ち尽くした短機関銃を路地裏のゴミ置き場に放置し、狭い道を選んで駆け抜けた。追っ手をまき、あの男に連絡をしなければならない。まだ、決行の日まで十日もあるのだ。
                                             ★
「まずいな。引き上げよう」と、渡辺が言った。
上島が飛び降り、光子の店に走って向かった時、店の中から飛び出した男が短機関銃を乱射しながら逃げていった。男が連射した物陰から飛び出した白人が、振り返っては連射する男を追っていくと、上島が店に入るのが見えた。

「おそらく、この店を監視していたCIAと梶という男がぶつかった」
「Uさんは?」と、東金が言った。
「俺たちのルールは、彼もわかってる。自分で何とかするさ」

渡辺はそう言うと、エンジンをかけたままだった車をUターンさせた。炎上する車の向こうからひとりの白人がやってくるのが見えた。白人がこちらに向けて何か叫び、銃を構えた。渡辺は急発進させ、スピードを上げる。銃声がして、リアウインドが砕けた。

「あの男、ストップと言ったんだ」と、東金がつぶやいた。「それで、妹さんだったんでしょうか?」
「会えてるといいな」と、藤崎が言う。
「銃撃戦に巻き込まれて、女は大丈夫だったかな」と、渡辺が言った。「俺たちには、不運がつきまとっているのかもしれない」
                                          ★
上島は店に入ると、土間に横たわる女に気付いた。暗くて顔もよくわからない。スイッチを探して灯りを点けると、女が呻いた。女の顔を見て、ハッとする。十代の頃の面影は残っていたが、すっかり変わっていた。和服の右胸に血の染みが広がっている。大口径の銃で撃たれていた。
「光子、俺だ。浩平だ」
 
その声に反応して、光子が目を開けた。上島が見えているのだろうか。
「兄さん?」と、光子が言った。
光子は右手を上げようとしている。その手を上島は握った。
「父さんも母さんも焼け死んだ----」と、弱々しい声で光子が言った。「私、ひとりで生きてきたの」
「わかってる。何も言うな」
 
サイレンの音が近くなった。店を覗き込んだ白人が何かつぶやいて立ち去った。上島は光子を抱き上げ、店の外へ出た。消防車が一台停まり、炎上する車に放水しようとしていた。パトカーから降りてきた警官が、上島を取り囲んだ。

「救急車を呼んでくれ」と、上島は怒鳴った。
肺が出血であふれたのか、光子はゴホッという息と共に血を吐いた。

 

2025年1月 4日 (土)

■スターリンの暗殺者「第五章 標的」19

【五章の主な登場人物】
■ヴォールク(狼) 謎の工作員/狙撃手
■ロバート・パウエル CIA上級分析官
■ポール・バネン CIAエージェント
■マイケル・ダーン CIAエージェント

■花井光子 「平和荘」住人 飲み屋の女将
■柿沢恵子 「平和荘」住人 引揚者 通いの娼婦
■井上涼子 「平和荘」住人 SKDの踊子
■進藤栄太 「平和荘」住人 元新聞記者
■三浦良太 「平和荘」住人  戦災孤児の工員
■神崎辰之助 「平和荘」住人 元憲兵
■梶 幸兵 「平和荘」に引っ越してきた男

■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋 顎髭のジャズ・プレーヤー
■上島隆平 F機関の利け者 凍傷で指を失くし常に手袋をしている
■東金光一 F機関の事務方 メガネをしている

■山村善兵衛 元特高刑事
■新城玄太 警視庁公安部の新人刑事

■ジャック・デュバル メジャーリーガー
■レティシア・レイク ハリウッドの女神
■ジョン・フォスター・ダレス アメリカ合衆国国務長官


■1953年2月10日 東京・田原町

もう十日以上、藤崎は浅草から上野あたりにかけて、不動産屋を中心に聞き込みをして「平和荘」を探していた。浅草国際劇場のチラシに「平和荘」と書かれていたというだけの手がかりである。だいたい、そのチラシが謎の楽団員が落としたものかどうか。しかし、手がかりは、それしかなかった。
 
そして、昨日、ようやく田原町にある「平和荘」を見つけた。近辺で聞き込んでみると、背の高い痩せた楽団員らしき男が住んでいるという。そこで、藤崎は張り込んでみることにした。ひとりでの張込みは限界がある。それでも、藤崎は「平和荘」を見張った。
 
上野浅草に近いので藤崎は再び労務者の姿になり、山谷のドヤ街に潜り込んだ。その姿なら、酒瓶を持って空地に積み上げた土管に座り込んでいても不審には思われなかった。もっとも、昼間から酒瓶を置いて座っている藤崎に、気味悪そうな視線を向け大まわりしていく通行人は多かった。
 
アパートに入っていく渡辺を見かけた時、藤崎は驚いた。一瞬、そのアパートに住んでいる楽団員は、渡辺のことじゃないのかと錯覚した。しかし、そんなはずはないと打ち消し、渡辺が出てくるのを待った。渡辺が出てきたのは、一時間後だった。藤崎は渡辺の後を尾け、上野が近くなったところで声をかけた。

「Fさん」と、渡辺は振り返って声を挙げた。
「さっき、平和荘から出てきたな」
藤崎がそう言うと、渡辺は不思議な表情をした。しまったという反応の後、照れたように顔をそむけ、表情を隠そうとするように下を向く。長い付き合いの中でも、見たことのない渡辺の態度だった。
「見てたのか?」と、渡辺が言った。「まずいところを見られちまった」
藤崎には、どういうことか判断がつかなかった。渡辺は何を隠しているのだろう。
「女のところからでも出てきたのか?」と、冗談のつもりで藤崎は言った。
渡辺の反応を見て、藤崎は冗談が的を射たのを知った。まさか----、渡辺に女ができたのだろうか。

「私を見張ってたんですか?」
「まさか。〈ヴォールク〉の手がかりかもしれないものを見つけたら、浅草近辺の平和荘が浮かんできた。探し出して、張ってたんだ」
「どんな手がかり?」
「バンドマンに化けて米軍基地に潜入した男が、浅草国際劇場のチラシを落としていた可能性がある。そのチラシに『平和荘』とメモしてあった。誰かにアパートの名前を教えられ、持っていたチラシにメモしたのかもしれない」
「そう言えば、アパートの一階奥に去年十二月からバンドマンらしき男が住んでいると言っていた。三十半ばで痩せていて、背が高い----」
「誰が言っていたんだ?」
「先日、満州時代の昔なじみに再会したんだ。その女が言ってた」
「昔の恋人かい」
「まあ、ちょっとしたいきさつがあった女ですよ。満州で亭主を殺され、引揚げの途中で子供も死なせて----」
渡辺はそう言うと、照れ笑いをした。

「所帯を持つのか?」
「あいつは『うん』とは言わないな」
なぜ、と訊きそうになったが、藤崎は口に出さなかった。それぞれの事情があるのだ。言いたくなれば、渡辺の方から口にするだろう。
「そのバンドマンらしい男だが」と、藤崎は言った。「顔を確認したい」
「わかった。明日、午後から二階の部屋で張ろう。女の部屋だが、窓から出かけていく姿は確認できる。男は、午後遅く、場合によっては夕方から出かけて、夜遅く、時には明け方に帰ってくるらしい。それと、アパートに住んでいる近くで呑み屋をやっている女と関係ができたようだと言ってましたね」
「それは、男女の関係?」
「ええ」

それは〈ヴォールク〉らしくないことだな、と藤崎は思った。もしかしたら、人違いなのかもしれない。

■1953年2月11日 東京・上野

上野から御徒町にかけてを縄張りとする松原組の事務所は、昭和通りに面した三階建てのビルだった。玄関前にはチンピラ風の若い男がふたり立っていた。新城が警察手帳を見せ山村と中に入ろうとすると、「サツが何の用事だ」とひとりが言った。

「金山はいるか?」と、新城が言った。
「いますよ。何の用っすか」と、別のひとりが答えた。
「訊きたいことがある」と、山村が言う。
若い男は黙って事務所に入り、しばらくすると出てきて「どうぞ」と言った。事務所に入ると正面に神棚があり、その下に大きな机と背もたれのある椅子があった。机の前にソファがあり、そこに男がひとり座っている。四十くらいだろうか、ストライプの派手なスーツを着て幹部らしい貫禄を見せていた。

「金山さんかい?」と、山村は訊いた。
「何の用ですか」
「鶯谷のキャバレーの支配人に、アパートの部屋を借りさせたらしいな」と、山村は単刀直入にいくことにした。
「俺みたいなのは、大家に嫌われるんでね」
「だが、自分じゃ住んじゃいない」
「又貸ししちゃいけねぇんで?」
「今、誰が住んでる?」
「楽団の野郎らしいですね」
「あんた、在日朝鮮人か?」と、新城が口を挟む。
「それが、何か関係あるんっすか」
「そっちの関係で頼まれたんじゃないのか」と、新城が突っ込む。
「そっちの関係って、何です?」
「金日成のお役に立とうという連中さ」
「さあ、そんな連中は知りませんね」
 
山村は新城に目くばせした。
「そうかい。わかった。役に立ったよ」と言って、山村は腰を上げた。
山村は新城を促して部屋を出たが、ビルの前で立ち止まり、少しして再び玄関ドアを開けた。正面の机の上にあった電話の受話器をつかんで、金山が喋っていた。山村を振り返り、驚いて受話器を置く。

「誰に電話した?」と、山村は言った。
「知ったこっちゃねえよ」と、金山は不貞腐れたように言う。
「新城、タクシーをつかまえろ」と山村が言うと、新城は飛び出していった。
昭和通りに出ると、新城が流しのタクシーを止めて警察手帳を見せているところだった。山村はタクシーに乗り込み「平和荘」の場所を教えた。
「金山は『警察がきた』と、誰かに知らせたに違いない」

アパートの部屋には、電話を引いていないはずだ。金山から電話を受けた誰かは、どうやって「平和荘」の男に知らせるのか。タクシーを飛ばせば間に合うかもしれない、と山村は思った。

■1953年2月11日 東京・田原町

藤崎は「平和荘」二階の柿沢恵子の部屋にいた。渡辺が一緒だった。柿沢恵子は、渡辺と藤崎が午後にやってくると、「どこかで時間をつぶすわ」と言って出かけていった。狭い部屋で、顔をつき合わせていたくなかったのだろう。
 
藤崎は窓を少し開けて下を見た。アパートの玄関は見えないが、玄関の前の道が見える。アパートから出た人間の背中が確認できた。大通りへ出るために角を曲がる時、顔が確認できる位置だった。
 
三十分ほどした頃、大きな音を立ててオート三輪がアパートの前にやってきた。大通りの方へ向けて駐車する。若い男が長い脚を蹴上げるようにして運転席から飛び降りた。安物のジャンパーに幅広のズボンを履いている。慌てているようだった。
 アパートの玄関を走り込んだのが想像できた。渡辺が扉を開けて二階の廊下を確認した。
「二階にはこない。一階の部屋へいったんだ」と、渡辺が言った。

その時、一階の部屋の扉が開く大きな音が聞こえてきた。藤崎は部屋を飛び出した。階段を駆け降りると、奥の部屋の扉が開いていた。若い男が大きな革のトランクを抱えて立っていた。部屋の中から背の高い男が楽器ケースと革のトランクを提げて出てきた。廊下は暗く、男の顔ははっきり見えなかった。
「ヴォールクか」と、藤崎は言った。
「貴様、誰だ」と、男は答えた。
 
その時、渡辺が階段を駆け降りてきた。若い男が革のトランクを前に押し出すようにして藤崎に向かってきた。その勢いに押されて、藤崎は階段まで下がる。若い男は勢いをつけてトランクを振りまわした。その後ろを楽器ケースと革のトランクを持って背の高い男が駆け抜ける。

背の高い男が外に出ると、若い男は革のトランクを扉の外へ置いた。振り向き、扉を背にしてジャンパーのポケットから小型拳銃を取り出した。少し開いた玄関扉の向こうで、背の高い男が荷物をオート三輪の荷台に積み込むのが見えた。
 
若い男が小型拳銃を発射した。パンと、乾いた音がして階段の手すりの木っ端が散る。藤崎は身を伏せ、渡辺は階段を駆け上った。オート三輪のエンジン音が聞こえた。若い男はもう一度、威嚇するように拳銃を撃ち飛び出す。藤崎が表に出た時には、若い男が運転するオート三輪が大通りへ向かう路地を曲がるところだった。
 
藤崎は追った。渡辺が少し遅れる。大通りに出ると、藤崎は左右を見渡した。オート三輪は、浅草方面へ向かっていた。交通量は多い。
 
その時、藤崎の目の前でタクシーが停まった。後部ドアが開き、横須賀で出会ったふたりの刑事が降りてくるのを見た瞬間、藤崎は大通りに飛び出し、走ってくる車の間を縫って横断した。立て続けに、急ブレーキの音がした。
 
渡り切った藤崎が振り向くと、路地から出てきた渡辺が野次馬のような顔をして立っていた。ふたりの刑事が大通りを横断しようとして、やってくる車に向かって〈停まれ〉というように両手を上げている。藤崎は振り返ると、全速力で走り出した。
                                                                                                       ★
田原町の「平和荘」に近づいた時、タクシーの中から山村は藤崎一馬の姿を確認した。「平和荘」の方向から何かを追って走ってきたように見えた。
「あの男の前に停めろ」と、山村は藤崎一馬を指さして運転手に怒鳴った。
 
タクシーが停まり、新城が飛び出し、山村も続いた。藤崎がふたりに気付き、車の往来が多い大通りに飛び出した。強引に横切っていく。車の急ブレーキの音が続いた。クラクションが鳴り、急ブレーキをかけた車が再び走り出す。
 
藤崎を追って大通りに出た新城が、両手を上げて車を停める。藤崎のように跳ねられてもいい勢いで走り出すことはできなかった。新城が停めた車の前を、山村は走った。それでも、向かってくる車を気にして動きを止める。
 
大通りを渡り切り、藤崎が向かった方に走り、路地を曲がった。最初の四辻で見渡したが、藤崎の姿はない。次の四辻まで走り、再び左右を確認する。どこにも藤崎の姿はなかった。新城が息を切らせて走ってきた。
「ダメだ。まかれた。『平和荘』に戻る」と言って、山村は大通りの方へ引き返した。

アパートの前には、ふたりの女とひとりの男が立っていた。男は、神崎辰之助だった。神崎は山村の顔を見て、眉間に皴を寄せた。何かを思い出そうとするようだった。やがて、山村を思い出したのか、背中を向けてアパートの中に戻った。

「警察だ。何があった?」と、山村はふたりの女に訊いた。
「私、一階に住んでる者だけど」と、中年の女が一歩前に出て言った。「誰かが駆け込んできて、一階奥に住んでいた人と飛び出していったみたい。その後を誰かが追っかけてったのかしら。パーンって音が二度したわ」
 
話し好きだというタクシー運転手の妻なのだろう。若い女は、二階に住んでいるSKDの踊子だろうと見当を付けた。
「あなたは、何か見た?」と、新城が若い女に訊く。
「何も。何だか騒がしかったから出てきただけ」と、女は答えた。
「一階奥に住んでたのは、楽器ケースを提げた男かな」と山村が問うと、ふたりの女はうなずいた。
 
二階の西端の部屋の窓が少し開いていた。男の姿がチラリと見えた。進藤栄太だった。山村の姿を確認したようだ。
「中を見よう」と、山村は新城に言ってアパートの玄関扉を押した。
新城が続き、ふたりの女も入ってきた。若い女はそのまま階段を昇ったが、中年女は一階の廊下に立ち、山村たちを見ていた。山村は階段の手すりが削りとられているのに気付いた。硝煙の匂いも立ち込めている。

「拳銃を発射したようだな」
「拳銃ですか」と、新城が意味もなく繰り返した。
一階奥の部屋は、扉が開いたままになっていた。山村は中を覗いた。片隅に布団が畳まれているが、何もない部屋だった。

「本署に連絡して、鑑識課の出動を要請してくれ。指紋、その他を調べてほしい」と山村は新城に言うと、靴を脱いで部屋に上がった。
押し入れを開いてみた。何もなかった。藤崎の姿を見付けたので、とっさにタクシーを止めてしまったが、この部屋にいた男を追っていたとすると、そちらの逮捕を優先すべきだったかなと山村は悔やんだ。やはり、藤崎はこの部屋にいた男の目的を阻止しようと動いているのだろうか。

「あんた、ここの住人か?」と、廊下にいる新城の声が聞こえた。
「そうよ。二階に住んでるわ」
山村が廊下に出てみると、三十半ばに見える女が階段を昇ろうとしていた。
「何かあったの?」と、女が言った。
                                                         ★
渡辺は、柿沢恵子の部屋で身を潜めていた。藤崎の後を追い大通りに出たところで、タクシーから降りたふたりの男が藤崎を追い始めた。たぶん藤崎から聞いた刑事たちだろうと、動きを止めた。大通りを強引に横断した刑事たちが藤崎を見失ったのを確認し、アパートに帰った。物音に驚いたのか、ふたりの女と初老の男がアパートの玄関前に出ていた。
 
渡辺は何度かきているうちに顔を合わせた中年女と初老の男に会釈をしてアパートに入り、一階奥の扉が開いたままの部屋を覗いた。部屋の隅にボストンバッグがポツンと置かれていた。押し入れを確認する時間はなさそうだった。渡辺はバッグを取ると、すぐに階段を昇り恵子の部屋に戻った。しばらくすると、恵子がもどってきた。

「何があったの。下で刑事にいろいろ質問されたわ」と、恵子が言った。
「住人ひとりずつ調べるつもりかな」
「そうかも。ひとりかと訊かれたから、お客がいる、と答えておいた。いけなかった?」
「いや、大丈夫だ。調べられて困ることはない。それから、このバッグ、預かっておいてくれないか。明日には受け取りにくる」
 
渡辺が差し出したボストンバッグを受け取ると、恵子は押し入れを開き中に置いた。その時、扉をノックする音がした。恵子が返事をすると、「警察です。少しうかがいたいことが----」と言った。恵子が扉を開けた。
「あなたには、先ほどうかがいました。お客がいるということでしたので」と、若い刑事が部屋の中を覗くようにした。

「何か?」と言いながら、渡辺は立った。
「先ほど、下の部屋の人が飛び出していったようなんですが、何か気が付いたことは?」
「特に何も」
「さしつかえなければ、名前と住所を教えていただけますか」
「渡辺三郎。住所は新宿----」と、渡辺は正直に答えた。
「こちらの柿沢さんとは?」
「古いなじみです。満州時代のね」
「わかりました」と、刑事はあっさりと引き上げた。
隣の神崎の部屋をノックする音が聞こえてきた。

■1953年2月12日 東京・田原町

神崎辰之助は、最初、山村の顔がわからなかった。十二年も前のことだ。お互いに歳を取った。戦後の動乱を経て、記憶も薄れかけていた。しかし、山村の顔の中に十二年前の特高刑事の面影を見出した途端、昔のことが一気に甦ってきた。
 
ゾルゲ事件。昭和十六年秋、特高警察がスパイ網の一斉検挙に踏み切り、憲兵隊も協力した。リヒャルト・ゾルゲはドイツ人でドイツの新聞社の東京特派員であり、駐日ドイツ大使からも厚い信頼を得ていた。しかし、若い頃からの共産主義者で、秘かにソ連のスパイとして活動していた。
 
ゾルゲのスパイ網が政権中枢にまで及んでいたことは、朝日新聞記者で近衛内閣の嘱託だった尾崎秀実が逮捕され、同じく近衛内閣の嘱託であり元老・西園寺公望の孫である西園寺公一が参考人として取り調べを受けたことでもわかる。ゾルゲと尾崎は上海時代からの知り合いで、ふたりは昭和十九年に死刑になった。
 
しかし、神崎にとっては苦い思い出だった。神崎には、当時、十九になる娘がいた。妻を亡くし、男手ひとつで育てたひとり娘だった。娘は新聞社の事務員として勤めていたが、そこで若い記者と恋仲になり、神崎の知らないうちに結婚の約束をしていた。
 
その若い記者が尾崎秀美の後輩であったことから、スパイ網の一員として逮捕され取り調べを受けた。そのことを娘から初めて知らされ、神崎は焦った。娘の婚約者がソ連のスパイ網の一員だったかもしれないというのは、憲兵である自分にとっては致命的な事態になりかねなかった。
 
しかし、神崎はそんなことより娘への愛情が勝り、別のスパイ事件で協力した時に知り合った特高刑事の山村に事情を話し、娘の恋人の様子を教えてもらおうとした。だが、逆に山村は若い記者に婚約者がいること、その父親が憲兵であることを自白を迫るための脅しに使った。黙秘を続けていた若い記者は追い詰められ、移送の途中に五階の窓を割って身を投げた。
 
娘は恋人の自殺を知ると、神崎をなじり家を出ていった。神崎が調べると、母ひとり子ひとりだった恋人の実家でその母と暮らし始めていた。しかし、昭和二十年三月十日の東京下町大空襲で恋人の母と共に焼け死んだ。神崎は娘と再会することもなく、ひとりぼっちになった。
 
それ以来、神崎はまともな暮らしはしてこなかった。元憲兵と知ると、誰もが非難する目で見た。闇屋を始めて、何度も警察に捕まった。度胸だけはあったので闇屋の中でも頭角を現し、時にはやくざや三国人とも渡り合った。いつの間にか、贅沢をしなければ食っていける金が溜まり、今は安アパートで何の目的もなく暮らしている。
 
そんなところへ、また、あの刑事が現れたのだ。さすがに顔を合わすのを避けたのか、聞き込みには若い刑事を寄こした。一階奥の部屋に住んでいた、三十半ばの背の高い男。あの男が何をしたのだろう。山村は、目の色を変えて探しているらしい。

だが、山村に協力する気はない。あの背の高い男が花井光子の店に匿われているらしいことも、自分だけの胸にしまっておこう。食事がてら、毎夜のように光子の店に神崎は顔を出していた。昨夜も神崎はカウンターの隅で飲んでいた。
 
光子の店の小上がりの奥には、物置として使っている三畳ほどの小部屋がある。手洗いの方からまわらないと上がれないが、一度、神崎はその部屋から酒瓶を運び出すのを手伝ったことがあった。手洗いのドアの向かいに三畳の部屋への扉があった。
 
昨夜、一度、手洗いに立った時、神崎の動きを心配そうに見つめる光子の視線に気付いた。他の客が手洗いを使っても気にしなかったのは、彼らは梶という男を知らないからだ。だが、神崎は知っている。そんな気持ちが、光子の視線に現れていた。この奥にあの男はいる、と神崎は確信した。それは、憲兵時代に培ったカンだった。
                                          ★
あの刑事だ、と進藤栄太は窓から見た山村の姿を浮かべた。こちらを見て気付いたに違いない。栄太が住んでいるのを調べて、やってきたのだろう。また、俺を屈服させるためにやってきたのか、と栄太は思った。
 
昨日、一階に住んでいた梶という男について、すべての部屋の住人に刑事が聞き込みにきた。だが、山村は若い刑事を寄こしただけで、自分は姿を見せなかった。一階奥の部屋には、鑑識課の人間たちと一緒にずっといたらしい。栄太を無視したことで、栄太は山村への怒りを募らせた。

ああ、俺は気が狂いそうだ、と進藤栄太は米軍の流出品を扱う店で手に入れた軍用ナイフを目の前にかざした。

 

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