■スターリンの暗殺者「第三章 李承晩」10
■1953年1月4日 東京・代々木
大日本帝国陸軍は代々木に広大な練兵場を保有していたが、戦後、占領軍に接収され三十万坪にも及ぶワシントン・ハイツに変わった。米空軍関係者の居住地区である。そこには商店はもちろん、学校、教会、劇場など、何でも揃っていた。そのワシントン・ハイツの外れ、将校クラブの近くに一軒の大きめの住居がある。高級将校の家族向けらしく、広い庭にプール、瀟洒な二階建ての住宅で地下室も設けられていた。
ワシントン・ハイツ自体が高いフェンスに囲われ、ゲートには常に警備の兵士が立って厳重に警戒されていたが、兵舎や住居から隔絶されたその家はさらに厳重に監視され、どんな侵入者も拒んでいる。そこは、CIA東京支局のセーフハウスとして使用されていた。今、そのセーフハウスにいるのは、CIAエージェントのロバート・パウエル、ポール・バネン、マイケル・ダーンの三人だった。
彼らは、ソ連のエージェントであるイワン・キリーロフの尋問を担当していた。地下室に置かれた椅子に、イワンは手足を拘束されて腰掛けている。しかし、目は開いているものの視点はどこにも合っていない。トロンとした目で漠然と何かを見ていた。唇は半ば開き、痴呆じみて首を左に傾けていた。明らかに、薬物を投与されている。
「結局、この男は基地の連続爆破や横須賀のバーの爆破については、何も知らないというわけか」
ポール・バネンが吐き捨てるように言った。体の大きな男だった。百九十センチ、百キロ。引き締まった体を持っている。シャツの両袖をまくり上げ、先ほどまで力仕事を担当していたようだ。もっとも、この男の拳で殴られたら自白するまえに壊れてしまうだろう。それでも、イワンは自白剤を投与されるまで口を割らなかった。
「だが、日本人工作員に北朝鮮工作員たちの動きを伝えろという指令は受けたと言っている」
そう言ったロバート・パウエルは上級職員で、きちんとしたダークスーツに白いシャツ姿だった。グリーンに白い水玉模様のネクタイを締めている。金髪をGIのようにクルーカットに刈り上げているが、メタルフレームのメガネが知的な雰囲気を醸し出していた。
「その日本人工作員は、何者だ?」
マイケル・ダーンがイワンの前に立って質問した。マイケル・ダーンは、アメリカ人にしては小男だった。平均的な日本人よりは少し背は高いのだろうが、百七十センチには届かない。縮れた赤茶っぽい髪が目立つ男だった。自白剤を投与した後の尋問は、彼が担当していた。
「知--ら--ない」と、イワンはゆっくりと答える。
「その指令は、どういうルートできた?」
「正規のルート--じゃなかった」
「正規のルートとは?」
「本国の--内務人民委員部から出る--指令」
「では、どこから出た指令だった?」
「政治局の誰か----だと思う」
「ベリヤか?」
「それなら--正規ルートだ」
「誰だ?」
「わから--ない」
「その日本人に情報を渡したか?」
「別の--人間が----」
そう言うと、イワンはがっくりと首を落とした。意識がなくなっていた。自白剤が強すぎたのかもしれない。
「これが限界でしょう」と、マイケル・ダーンがイワンの顎に手を当てグイッと顔を上げさせて言った。「本当に何も知らない男だったようです。下っ端でしたな」
「北朝鮮工作員を尋問して得られた情報とすり合わせれば、少しは何か掴めるだろう。そこから分析すればいい」と、ロバート・パウエルは言って地下室の階段を上った。
拷問部屋のような地下室が、パウエルはあまり得意ではなかった。ポール・バネンの野蛮さも、マイケル・ダーンの冷酷さも、パウエルには受け入れられなかった。目に見える暴力は、気持ちを萎えさせる。できれば、尋問の立ち合いも避けたかった。パウエルの得意分野は、収集した情報の分析だった。様々な情報から、ひとつのつながりを発見した時、パウエルは達成感を感じることができた。
一階奥の部屋の机の上には、二名の北朝鮮工作員を拘束して尋問したレポートが届いている。二名の存在は一年前から把握していたが、監視をするだけで泳がせておいたのだ。彼らの動きがあわただしくなっているのは、昨年の十二月に報告があった。その後、基地の連続爆破が起こった。そして、数十人の米兵が死傷した横須賀の爆破テロだ。そこに何らかのつながりがあるはずだ。
しかし、北朝鮮工作員は二人とも末端の人間だったようだ。実際の工作は行うが、目的も背景も知らされてはいない。今回の連続爆破については、彼らは実行犯ではなかった。彼らが受けた指令は、「〈ヴォールク〉に協力しろ」というものだった。その後、一度だけ〈ヴォールク〉からある依頼があり、その調査結果を渡すために接触した工作員によると相手は日本人に見えたという。
しかし、その人物が〈ヴォールク〉なのかどうかはわからない。〈ヴォールク〉というのが、作戦のコードネームなのか、人物を示すコードネームなのかもわからなかった。ただ、〈ヴォールク〉と名乗って連絡があれば、組織をあげて協力する体勢になっている、とレポートにはあった。
しかし、〈ヴォールク〉とは別に日本人が登場する。日本人工作員は、ソ連の政治局員の誰かの指令で日本に潜入し、ソ連の諜報組織の協力を得て何かをしようとしている。その日本人が基地の連続爆破、横須賀の爆破を実行したのか。横須賀の爆破の時、ひとりの日本人が爆破に巻き込まれた。しかし、彼は警察の聴取の前に姿を消した。
その日本人が爆破犯だろうか。トイレにブービー・トラップを仕掛けたが、店から脱出する前に膀胱を満タンにした兵士がトイレのドアを開け、その日本人も爆発に巻き込まれた。そう考えれば、辻褄は合う。本当にそうか、ロバート。トイレに仕掛けたトラップは爆発物処理班の専門家の分析によれば、ドアを引き開ければ爆発するものだった。
その男はトイレの中でトラップを仕掛けた後、どうやってトイレを出たのだ。あのトイレには窓があり、そこから脱出したと考えるべきだろう。だとすれば、バーテンが証言した最初に現れた日本人が犯人である。バーテンは、その男がトイレに向かうのを見ている。そして、男が出ていったのを確認していない。二人目の日本人は、その後に入ってきた。その日本人は、やはり店を出ようとして爆発に巻き込まれたのだ。
だが、最初の日本人の顔をバーテンは、よく憶えていないと言った。仕事をしながら応対したので、ろくに顔を見なかったという。二人目の男との会話は短かったが正面から見ていたので、バーテンはいくつかの特徴を挙げた。中肉中背、顎の張った四角い顔、少し前髪を垂らした七三分け。その証言を元に似顔絵を描き、バーテンに確認した。
今のところ、手がかりはその日本人だけだ。ロシア人エージェントが言う「日本人」とは、その男である可能性もある。CIAと米軍の総力をあげて、男を探索し真相を暴かなければならない。そうしなければ、アメリカ兵数十人が死傷したテロの報復を叫ぶアメリカ国民は納得しないだろう。
東洋の小さな半島の戦争など「原爆投下で片を付けろ」と叫ぶ国民だって、決して少数ではないのだ。かつて、マッカーサーも朝鮮半島への原爆投下をトルーマンに進言したではないか。
■1953年1月4日 東京・赤坂
夕方だった。帰宅を急ぐ人たちで街はいっぱいだ。その人混みの中で、男は背の高さゆえに目立っていた。男は、星条旗が翻る米国大使館を見つめている。大使館正面の門に向かう大きな通りの四辻だった。信号がない四辻の真ん中で警官が立って、交通整理をしていた。
警官は東西の通りの車を止め、南北の通りの直進車と左折車を通す。その後、南北の通りの右折車だけを通した。交通量はそれほど多くはないから、ひとりの警官の手による指示で順調に流れていく。路面を走る都電がやってくると、警官は都電が通り抜けるまで、四辻のすべての車を止めた。
そんな警官の動きを見ている振りをして、男は大使館を観察した。潜入は不可能だし、最初からそんなつもりはなかった。明後日、おそらくあの門を李承晩を乗せた車が入っていく。数時間後、その車は出てくることになる。帰国は三日後だ。李承晩を狙うとしたら、明後日しかない。あの門に入る時か、出てくる時である。
男は周囲を見渡し、角のアパートの二階の窓に注目した。後部座席を狙うのなら、門に向かっている時の方がいい。車の時速にもよるが、それほど高速だとは思えない。とすると、あの窓から十秒間ほど後部座席を視認できる。おそらく後部座席に座る李承晩を狙撃するとしたら、あの部屋の窓だなと男は確信した。
おそらく、あの男も同じ結論を出しているはずだ。ふたりの人間が見て同じ結論を出したなら、警備の専門家も同じ結論を出すだろう。つまり、プロの狙撃者なら狙撃ポイントを想定できるわけだ。そうだとしたら、その裏をかかねばならない。予想外の位置から狙撃するか、あるいは----。
今のところ、男は受けた指令を忠実に果たしていた。米軍基地への連続テロから米兵を狙った爆破テロへとエスカレートし、さらに韓国大統領の狙撃である。そして、来月には最も重要な標的が来日する。その標的が暗殺されたら、アメリカ中が大騒ぎになるだろう。その時の世界中の反応を想像して、男は笑みを浮かべた。
★
「山村善兵衛、四十五歳。戦前は、特高警察の刑事でした。ゾルゲ事件では手柄を立てたそうです。追放解除で、今は警視庁公安部の刑事に復帰。やはり、米軍基地の連続爆破を隠密理に調べていたようです。それで、横須賀の爆発に遭遇した」と、Wは報告した。
赤坂から少し離れた清水谷公園のベンチだった。すぐ近くに大久保利通の哀悼碑が立っている。この近くで大久保利通は暗殺されたのだ。その次男の牧野信顕も昭和天皇側近であったことから「君側の奸」として五・一五事件でも、二・二六事件でも命を狙われた。牧野信顕は、吉田茂首相の岳父に当たる。
「やはり、そうか。そうすると、赤坂で鉢合わせしたのは、向こうも次の標的は李承晩だと予測していた可能性は高い」
「米軍とCIAの調査は、それなりに進んでいるようだ。内調は日本版CIAをめざして設立された関係で、組織同士の情報共有を行っている。組織が出来たばかりで、日本の情報収集能力は弱いから米国の情報収集力に頼ることになる」
「何か具体的な情報は?」
「CIAはロシア人や朝鮮人じゃなく、日本人を探しているらしい。もっとも、奴らにゃ日本人も朝鮮人も見分けがつかないだろうけどね」
「〈ヴォールク〉は朝鮮族出身のロシア人で、見た目は日本人と変わらない。それに、日本語も朝鮮語も流暢だそうだ」
「その〈ヴォールク〉のことを、奴らは知ったのかな?」
「どうかな」
「これから、どうする?」
「ひとりで動く。とりあえず地下へ潜る。何かあれば、こちらから連絡する」
「何か、あては?」
「横須賀の爆発の後、野次馬の中に目立つ男がいた。背が高かったので目立ったのだが、妙に気になった。似た男を見かけたんだ。今日の夕方、米国大使館の近くの四辻に立っていた」
「それだけ?」
「何かを物色している様子だった」
「何を?」
「私と同じことを考え、同じ場所に目をつけたのかもしれない。明日と明後日、その場所を見張ってみる」
「その男は?」
「人混みの中で見失った」
「満州時代に比べたら、ヤキがまわったようですな」と、Wが冷やかした。
「東京は人が多すぎる。シベリヤの荒野さえ懐かしくなるよ」
「まさか」と、Wは片頬をひきつらせた。
★
山村は、再び米国大使館前に立っていた。あの男が立ち止まった時、何をしていたのかが気になった。あの男が立ち止まった位置に立ち、あの男が見上げたビルを見た。それから、体を回転させてみた。百八十度まわったところで、大使館の門から出て直線が続く大通りがまっすぐ見えた。
五階建ての雑居ビルだった。一階の郵便受けに、部屋番号と事務所名が書いてあり、それを一軒一軒確認した。場所柄か、多くは法律事務所だった。山村は五階まで上がり、階段を一階ずつ降りて点検した。各階の同じ位置に共同トイレがあり、同じ造りになっている。
男子用と女子用に分かれ、男子用は個室ひとつと小便器がひとつと洗面台。女子用には個室がひとつと洗面台があった。男子用の奥に小窓があり、そこから覗くと大通りだった。先ほど立っていた場所が見下ろせる。再び一階から五階までのトイレの小窓をすべて覗いてみた。
「あのう、どちら様ですか?」と、三階の廊下で声をかけられた。
振り向くと、スーツを着た四十がらみの紳士がドアから半身を乗り出していた。ドアの上部は磨りガラスになっていて、そこに「林佳夫法律事務所」とある。おそらく、林弁護士本人なのだろう。
「不審に思われたのでしょうな」と山村は答えて、警察手帳を出した。「ちょっと調べていましてね」
「警察が何を?」
「この建物の造りを見ています」
「なぜ?」
「ある事件と関係がありましてね」
「ここは法律事務所が多く入っています。人権派と言われる人もね。警察が何か調べてるんですか」
「いえ、そんなことはありません」
「どんな事件ですか?」
「捜査のことはちょっと----」
「お話しいただけない。だとすると、我々のことを調べている可能性もあるわけですな」
いつの間にか、他の事務所からも人が顔を出していた。
「いや、別の事件ですよ」と山村は言いながら、階段を降りた。
「逃げるんですか」と、上から声が降りてきた。
まったく、戦後は嫌な世の中になりやがった、とビルから出て山村は思った。自分が公安部だと知られたら、もっとやっかいなことになっていただろう。何が民主主義だ。権利意識ばかり強くなりやがって、と山村は肚がおさまらない。
しかし、アメリカ大使館に出入りする車を狙うとしたら、あのビルの男子トイレは理想的かもしれない。雑居ビルだから個室が長く塞がっていても、別の事務所の人間が使っていると思うだろう。各階にトイレがあるから、塞がっていたら別の階にいくかもしれない。
狙撃の実行まで個室で準備し、待機していてもわからない。また、トイレのドアそのものも内側から鍵が掛けられる。狙撃の時にはその鍵を掛けておけば、誰も入ってこない。狙撃した後、ビルの裏口から出れば細い路地に抜けられる。
あの男は、李承晩の狙撃場所を物色していたのだろうか。そんなこと----と山村は打ち消そうとしたが、横須賀では数十人の死傷者を出す爆破に、あの男が関係していたのかもしれない、だとすれば李承晩狙撃もあり得る----と思い直した。