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2024年10月

2024年10月26日 (土)

■スターリンの暗殺者「第三章 李承晩」10

■1953年1月4日 東京・代々木

大日本帝国陸軍は代々木に広大な練兵場を保有していたが、戦後、占領軍に接収され三十万坪にも及ぶワシントン・ハイツに変わった。米空軍関係者の居住地区である。そこには商店はもちろん、学校、教会、劇場など、何でも揃っていた。そのワシントン・ハイツの外れ、将校クラブの近くに一軒の大きめの住居がある。高級将校の家族向けらしく、広い庭にプール、瀟洒な二階建ての住宅で地下室も設けられていた。

ワシントン・ハイツ自体が高いフェンスに囲われ、ゲートには常に警備の兵士が立って厳重に警戒されていたが、兵舎や住居から隔絶されたその家はさらに厳重に監視され、どんな侵入者も拒んでいる。そこは、CIA東京支局のセーフハウスとして使用されていた。今、そのセーフハウスにいるのは、CIAエージェントのロバート・パウエル、ポール・バネン、マイケル・ダーンの三人だった。

彼らは、ソ連のエージェントであるイワン・キリーロフの尋問を担当していた。地下室に置かれた椅子に、イワンは手足を拘束されて腰掛けている。しかし、目は開いているものの視点はどこにも合っていない。トロンとした目で漠然と何かを見ていた。唇は半ば開き、痴呆じみて首を左に傾けていた。明らかに、薬物を投与されている。

「結局、この男は基地の連続爆破や横須賀のバーの爆破については、何も知らないというわけか」

ポール・バネンが吐き捨てるように言った。体の大きな男だった。百九十センチ、百キロ。引き締まった体を持っている。シャツの両袖をまくり上げ、先ほどまで力仕事を担当していたようだ。もっとも、この男の拳で殴られたら自白するまえに壊れてしまうだろう。それでも、イワンは自白剤を投与されるまで口を割らなかった。

「だが、日本人工作員に北朝鮮工作員たちの動きを伝えろという指令は受けたと言っている」
 
そう言ったロバート・パウエルは上級職員で、きちんとしたダークスーツに白いシャツ姿だった。グリーンに白い水玉模様のネクタイを締めている。金髪をGIのようにクルーカットに刈り上げているが、メタルフレームのメガネが知的な雰囲気を醸し出していた。

「その日本人工作員は、何者だ?」
 
マイケル・ダーンがイワンの前に立って質問した。マイケル・ダーンは、アメリカ人にしては小男だった。平均的な日本人よりは少し背は高いのだろうが、百七十センチには届かない。縮れた赤茶っぽい髪が目立つ男だった。自白剤を投与した後の尋問は、彼が担当していた。

「知--ら--ない」と、イワンはゆっくりと答える。
「その指令は、どういうルートできた?」
「正規のルート--じゃなかった」
「正規のルートとは?」
「本国の--内務人民委員部から出る--指令」
「では、どこから出た指令だった?」
「政治局の誰か----だと思う」
「ベリヤか?」
「それなら--正規ルートだ」
「誰だ?」
「わから--ない」
「その日本人に情報を渡したか?」
「別の--人間が----」
 
そう言うと、イワンはがっくりと首を落とした。意識がなくなっていた。自白剤が強すぎたのかもしれない。

「これが限界でしょう」と、マイケル・ダーンがイワンの顎に手を当てグイッと顔を上げさせて言った。「本当に何も知らない男だったようです。下っ端でしたな」
「北朝鮮工作員を尋問して得られた情報とすり合わせれば、少しは何か掴めるだろう。そこから分析すればいい」と、ロバート・パウエルは言って地下室の階段を上った。

拷問部屋のような地下室が、パウエルはあまり得意ではなかった。ポール・バネンの野蛮さも、マイケル・ダーンの冷酷さも、パウエルには受け入れられなかった。目に見える暴力は、気持ちを萎えさせる。できれば、尋問の立ち合いも避けたかった。パウエルの得意分野は、収集した情報の分析だった。様々な情報から、ひとつのつながりを発見した時、パウエルは達成感を感じることができた。
 
一階奥の部屋の机の上には、二名の北朝鮮工作員を拘束して尋問したレポートが届いている。二名の存在は一年前から把握していたが、監視をするだけで泳がせておいたのだ。彼らの動きがあわただしくなっているのは、昨年の十二月に報告があった。その後、基地の連続爆破が起こった。そして、数十人の米兵が死傷した横須賀の爆破テロだ。そこに何らかのつながりがあるはずだ。
 
しかし、北朝鮮工作員は二人とも末端の人間だったようだ。実際の工作は行うが、目的も背景も知らされてはいない。今回の連続爆破については、彼らは実行犯ではなかった。彼らが受けた指令は、「〈ヴォールク〉に協力しろ」というものだった。その後、一度だけ〈ヴォールク〉からある依頼があり、その調査結果を渡すために接触した工作員によると相手は日本人に見えたという。
 
しかし、その人物が〈ヴォールク〉なのかどうかはわからない。〈ヴォールク〉というのが、作戦のコードネームなのか、人物を示すコードネームなのかもわからなかった。ただ、〈ヴォールク〉と名乗って連絡があれば、組織をあげて協力する体勢になっている、とレポートにはあった。
 
しかし、〈ヴォールク〉とは別に日本人が登場する。日本人工作員は、ソ連の政治局員の誰かの指令で日本に潜入し、ソ連の諜報組織の協力を得て何かをしようとしている。その日本人が基地の連続爆破、横須賀の爆破を実行したのか。横須賀の爆破の時、ひとりの日本人が爆破に巻き込まれた。しかし、彼は警察の聴取の前に姿を消した。
 
その日本人が爆破犯だろうか。トイレにブービー・トラップを仕掛けたが、店から脱出する前に膀胱を満タンにした兵士がトイレのドアを開け、その日本人も爆発に巻き込まれた。そう考えれば、辻褄は合う。本当にそうか、ロバート。トイレに仕掛けたトラップは爆発物処理班の専門家の分析によれば、ドアを引き開ければ爆発するものだった。
 
その男はトイレの中でトラップを仕掛けた後、どうやってトイレを出たのだ。あのトイレには窓があり、そこから脱出したと考えるべきだろう。だとすれば、バーテンが証言した最初に現れた日本人が犯人である。バーテンは、その男がトイレに向かうのを見ている。そして、男が出ていったのを確認していない。二人目の日本人は、その後に入ってきた。その日本人は、やはり店を出ようとして爆発に巻き込まれたのだ。
 
だが、最初の日本人の顔をバーテンは、よく憶えていないと言った。仕事をしながら応対したので、ろくに顔を見なかったという。二人目の男との会話は短かったが正面から見ていたので、バーテンはいくつかの特徴を挙げた。中肉中背、顎の張った四角い顔、少し前髪を垂らした七三分け。その証言を元に似顔絵を描き、バーテンに確認した。
 
今のところ、手がかりはその日本人だけだ。ロシア人エージェントが言う「日本人」とは、その男である可能性もある。CIAと米軍の総力をあげて、男を探索し真相を暴かなければならない。そうしなければ、アメリカ兵数十人が死傷したテロの報復を叫ぶアメリカ国民は納得しないだろう。
 
東洋の小さな半島の戦争など「原爆投下で片を付けろ」と叫ぶ国民だって、決して少数ではないのだ。かつて、マッカーサーも朝鮮半島への原爆投下をトルーマンに進言したではないか。

■1953年1月4日 東京・赤坂

夕方だった。帰宅を急ぐ人たちで街はいっぱいだ。その人混みの中で、男は背の高さゆえに目立っていた。男は、星条旗が翻る米国大使館を見つめている。大使館正面の門に向かう大きな通りの四辻だった。信号がない四辻の真ん中で警官が立って、交通整理をしていた。
 
警官は東西の通りの車を止め、南北の通りの直進車と左折車を通す。その後、南北の通りの右折車だけを通した。交通量はそれほど多くはないから、ひとりの警官の手による指示で順調に流れていく。路面を走る都電がやってくると、警官は都電が通り抜けるまで、四辻のすべての車を止めた。
 
そんな警官の動きを見ている振りをして、男は大使館を観察した。潜入は不可能だし、最初からそんなつもりはなかった。明後日、おそらくあの門を李承晩を乗せた車が入っていく。数時間後、その車は出てくることになる。帰国は三日後だ。李承晩を狙うとしたら、明後日しかない。あの門に入る時か、出てくる時である。
 
男は周囲を見渡し、角のアパートの二階の窓に注目した。後部座席を狙うのなら、門に向かっている時の方がいい。車の時速にもよるが、それほど高速だとは思えない。とすると、あの窓から十秒間ほど後部座席を視認できる。おそらく後部座席に座る李承晩を狙撃するとしたら、あの部屋の窓だなと男は確信した。
 
おそらく、あの男も同じ結論を出しているはずだ。ふたりの人間が見て同じ結論を出したなら、警備の専門家も同じ結論を出すだろう。つまり、プロの狙撃者なら狙撃ポイントを想定できるわけだ。そうだとしたら、その裏をかかねばならない。予想外の位置から狙撃するか、あるいは----。
 
今のところ、男は受けた指令を忠実に果たしていた。米軍基地への連続テロから米兵を狙った爆破テロへとエスカレートし、さらに韓国大統領の狙撃である。そして、来月には最も重要な標的が来日する。その標的が暗殺されたら、アメリカ中が大騒ぎになるだろう。その時の世界中の反応を想像して、男は笑みを浮かべた。

                                                                                            ★

「山村善兵衛、四十五歳。戦前は、特高警察の刑事でした。ゾルゲ事件では手柄を立てたそうです。追放解除で、今は警視庁公安部の刑事に復帰。やはり、米軍基地の連続爆破を隠密理に調べていたようです。それで、横須賀の爆発に遭遇した」と、Wは報告した。
 
赤坂から少し離れた清水谷公園のベンチだった。すぐ近くに大久保利通の哀悼碑が立っている。この近くで大久保利通は暗殺されたのだ。その次男の牧野信顕も昭和天皇側近であったことから「君側の奸」として五・一五事件でも、二・二六事件でも命を狙われた。牧野信顕は、吉田茂首相の岳父に当たる。

「やはり、そうか。そうすると、赤坂で鉢合わせしたのは、向こうも次の標的は李承晩だと予測していた可能性は高い」
「米軍とCIAの調査は、それなりに進んでいるようだ。内調は日本版CIAをめざして設立された関係で、組織同士の情報共有を行っている。組織が出来たばかりで、日本の情報収集能力は弱いから米国の情報収集力に頼ることになる」

「何か具体的な情報は?」
「CIAはロシア人や朝鮮人じゃなく、日本人を探しているらしい。もっとも、奴らにゃ日本人も朝鮮人も見分けがつかないだろうけどね」
「〈ヴォールク〉は朝鮮族出身のロシア人で、見た目は日本人と変わらない。それに、日本語も朝鮮語も流暢だそうだ」
「その〈ヴォールク〉のことを、奴らは知ったのかな?」
「どうかな」
「これから、どうする?」
「ひとりで動く。とりあえず地下へ潜る。何かあれば、こちらから連絡する」
「何か、あては?」

「横須賀の爆発の後、野次馬の中に目立つ男がいた。背が高かったので目立ったのだが、妙に気になった。似た男を見かけたんだ。今日の夕方、米国大使館の近くの四辻に立っていた」
「それだけ?」
「何かを物色している様子だった」
「何を?」
「私と同じことを考え、同じ場所に目をつけたのかもしれない。明日と明後日、その場所を見張ってみる」
「その男は?」
「人混みの中で見失った」
「満州時代に比べたら、ヤキがまわったようですな」と、Wが冷やかした。
「東京は人が多すぎる。シベリヤの荒野さえ懐かしくなるよ」
「まさか」と、Wは片頬をひきつらせた。

                                                         ★

山村は、再び米国大使館前に立っていた。あの男が立ち止まった時、何をしていたのかが気になった。あの男が立ち止まった位置に立ち、あの男が見上げたビルを見た。それから、体を回転させてみた。百八十度まわったところで、大使館の門から出て直線が続く大通りがまっすぐ見えた。

五階建ての雑居ビルだった。一階の郵便受けに、部屋番号と事務所名が書いてあり、それを一軒一軒確認した。場所柄か、多くは法律事務所だった。山村は五階まで上がり、階段を一階ずつ降りて点検した。各階の同じ位置に共同トイレがあり、同じ造りになっている。
 
男子用と女子用に分かれ、男子用は個室ひとつと小便器がひとつと洗面台。女子用には個室がひとつと洗面台があった。男子用の奥に小窓があり、そこから覗くと大通りだった。先ほど立っていた場所が見下ろせる。再び一階から五階までのトイレの小窓をすべて覗いてみた。

「あのう、どちら様ですか?」と、三階の廊下で声をかけられた。
振り向くと、スーツを着た四十がらみの紳士がドアから半身を乗り出していた。ドアの上部は磨りガラスになっていて、そこに「林佳夫法律事務所」とある。おそらく、林弁護士本人なのだろう。

「不審に思われたのでしょうな」と山村は答えて、警察手帳を出した。「ちょっと調べていましてね」
「警察が何を?」
「この建物の造りを見ています」
「なぜ?」
「ある事件と関係がありましてね」
「ここは法律事務所が多く入っています。人権派と言われる人もね。警察が何か調べてるんですか」
「いえ、そんなことはありません」
「どんな事件ですか?」
「捜査のことはちょっと----」
「お話しいただけない。だとすると、我々のことを調べている可能性もあるわけですな」
いつの間にか、他の事務所からも人が顔を出していた。
「いや、別の事件ですよ」と山村は言いながら、階段を降りた。
「逃げるんですか」と、上から声が降りてきた。
 
まったく、戦後は嫌な世の中になりやがった、とビルから出て山村は思った。自分が公安部だと知られたら、もっとやっかいなことになっていただろう。何が民主主義だ。権利意識ばかり強くなりやがって、と山村は肚がおさまらない。

しかし、アメリカ大使館に出入りする車を狙うとしたら、あのビルの男子トイレは理想的かもしれない。雑居ビルだから個室が長く塞がっていても、別の事務所の人間が使っていると思うだろう。各階にトイレがあるから、塞がっていたら別の階にいくかもしれない。

狙撃の実行まで個室で準備し、待機していてもわからない。また、トイレのドアそのものも内側から鍵が掛けられる。狙撃の時にはその鍵を掛けておけば、誰も入ってこない。狙撃した後、ビルの裏口から出れば細い路地に抜けられる。
 
あの男は、李承晩の狙撃場所を物色していたのだろうか。そんなこと----と山村は打ち消そうとしたが、横須賀では数十人の死傷者を出す爆破に、あの男が関係していたのかもしれない、だとすれば李承晩狙撃もあり得る----と思い直した。

 

2024年10月19日 (土)

■スターリンの暗殺者「第三章 李承晩」09

■1953年1月3日 東京・新宿

「尾行された。先日、横須賀の爆発現場にいた刑事たちだ。なぜ、米国大使館の近くにいたのかはわからない」
 
新宿の外れ、Wが住む小さな一軒家の奥の座敷でFは言った。今日は、Wしかいない。UもTも本業の方が忙しくなっている。Wはアルトサックスを柔らかな布で拭きながら、Fの話を聞いていた。

「そいつらは、どこの刑事です?」
「警察手帳を見た。警視庁の山村という刑事だ。若い方はわからない」
「警視庁の刑事が横須賀まで出かけていたうえ、爆発現場の近くにいた?」
「爆発が起きた時に近くにいた。おそらく基地の周辺を調べていたのだろう。私と同じように」
 
Fは、山村という刑事の鋭い視線を思い出した。あれは同業者の目だ。特務機関、憲兵、特高警察、人を信じない人間たち。常に警戒を怠らず、どんな人間も監視の目で見るくせがついている。

「公安の刑事ですかね」
「おそらく----」
「そいつらに目をつけられたのは、まずいな」
「といって、横須賀の現場に残って、警察の聴取を受けるわけにはいかなかった」

Wは何も言わず、腕を組んだ。しばらく沈黙が支配する。Fは考えていた。尾行に気付いて都電に乗った。終点で尾行者のふたりを確定した。それが先日の刑事だったことは意外だったが、とにかく尾行をまいたのは間違いない。しかし、新宿まで連れてきてしまったのは失敗だったと思う。ただし、尾行をまいた地点とWの家は離れている。

「彼らの出現と李承晩の来日は、関係しているかもしれない」と、Fは口にした。
「どうして?」
「彼らは、私と重なる動きをしているように思う。横須賀にしろ、今日の米国大使館周辺の調査にしろ」
 
二度の邂逅は、偶然だとは思えなかった。同じ目的で動いた結果、同じ場所でいきあったのではないか。米軍基地の連続爆破を調べていて、次の水曜は横須賀基地だと予測した。その結果、爆発現場のすぐ近くにいた。
 
米軍基地の連続爆破犯、横須賀の米兵の大量殺傷犯は、次に李承晩来日に関係する何かを狙っている。そう考えて、Fと同じように近辺を調べていたのではないか。彼らが警備部に所属しているとしたら、警備の下調べだったのかもしれない。

「昔の知りあいに、その刑事のことを訊いてみよう」と、Wが言った。「それから、昔の知りあいからの情報だが、CIA東京支局がソ連および北朝鮮の諜報組織、工作員たちの狩り出しを始めたらしい。以前から目を付けていたが、泳がしていた何人かを拉致して尋問しているという。拷問もありだとか。最近は、自白剤を使うようですけどね」

「横須賀の爆破を、ソ連か北朝鮮の犯行と断定したか」
「たぶん」
「それで、こちらには情報がこなくなったのか」
「ソ連側からの?」
「ああ、組織の防衛に手いっぱいなのかもしれない」
「だとしたら、Fさん、孤立無援じゃないですか」
「きみたちが支援してくれている」
「我々の手伝いなんて、たかが知れてる。実戦には参加できないし」
「もちろんだ。そんなことは頼んじゃいない」
 Fは、きっぱりと断言した。

■1953年1月3日 モスクワ

クレムリンの一室で、フルシチョフはベリヤと向かい合っていた。ベリヤが議長を長く務めていたNKVDは、ソ連国内の刑事警察、秘密警察、国境警備警察、諜報機関などを統轄し、人々に怖れられていた。議長職から離れた今も、ベリヤはモスクワのNKVDを私兵のように使える権力を維持していた。
 
ベリヤはNKVDを使って政府要人たちを詳細に調べあげ、いつでも逮捕できるだけの情報をつかんでいると言われている。実際、ベリヤは多くの人間を告発し処刑してきたし、政敵を粛正してきた。そのため、人々はベリヤを怖れ、蛇蝎のごとく嫌った。
 
フルシチョフは最高幹部会議の終了後にベリヤに呼び止められた時、背中に冷水を浴びせられた気がした。ベリヤは「同志フルシチョフ、少々お話できますか?」と声をかけてきたのだが、その慇懃さに戦慄した。ベリヤは尋問している相手を冷静に絞め殺せる男だった。

「三日前、アメリカ海軍の主要な基地がある日本の横須賀で爆発があり、五十人近くのアメリカ兵が死傷しました。情報は入っていますか?」と、ベリヤは部屋に入り椅子に腰を下ろしてから言った。
「いいや」と、フルシチョフは嘘をついた。

「そうですか? その爆発はテロだとアメリカ軍は認定しました。我が国か北朝鮮の仕業だと断定しています。このニュースがアメリカ本国で流され、多くの国民が『共産主義者に報復を』と叫んでいるそうです。赤狩りで洗脳されたアメリカ国民は、『コミュニスト・イズ・ギャング』と思ってますからね」
「休戦が遠のくことになるな」と、フルシチョフはため息をついた。

「この爆破工作がテロだとすると、NKVDのあずかり知らぬところで行われたことになります」
「きみらの工作ではないのかな?」
「違います。北朝鮮の工作員の仕事だとしても、我々の組織に事前に情報が入ります。ということは、彼らでもない」
「何が言いたいのかな? 同志ベリヤ」
「同志フルシチョフ、本当にご存知ない?」
「知らないな」

「あなたは、個人的な工作員を日本に送りましたね」
「何のことかな?」
「昔、あなたが処刑直前に救った日本人たちがいた。その後、一名を除いて帰国したが、残った一名はモスクワ大学日本語学科の教師におさまり帰化した。しかし、実態はあなたの個人的な諜報員ですね」
「彼は、我が国に残りたいというので、日本語教師の仕事に推薦しただけだよ。諜報員だなんて、とんでもない」

「その男は、昨年末から行方不明です。出国した可能性がある」
「まさか、彼が爆破工作をしたとでも言うのかね」
「その可能性もあります」
「なぜ、そんなことをする」
「国連軍の後方基地への攻撃です」
「数十人のアメリカ兵を無力化しても、戦局には影響しないだろう」
「だが、休戦へ向かっていた気持ちを変えられます。アイゼンハワーは朝鮮戦争の終結を公約にして大統領になった。しかし、報復だとなれば、戦争の終わりが見えなくなる」

「私がそんなことを望んでいると思うかね?」
「私の調べでは、あなたは早期休戦派だ。モロトフと同じように」
「相変わらず、調べは行き届いているらしいな。しかし、きみはずっと大元帥に忠実で、彼については調べていないらしい」

ベリヤは絶句した。フルシチョフの言葉は、ベリヤにとっては予想外だったのか。ベリヤにとって、スターリンは聖域なのだろうか。推測で口にした言葉が的を射たのか。そのことの方が、フルシチョフにとっては驚きだった。

フルシチョフにとってはスターリンの動向や考えを知ることの方が、政治局員たちの弱みを握るよりは遙かに重要だった。そのためにスターリンの周囲に独自の情報網を張り巡らせている。しかし、ベリヤはスターリンについては、まったく調べていないのだ。スターリンの忠実な部下として生き残り、今は有力な後継者候補である。
 
スターリンを粛正することは、べリアの想定にはない。だとすれば、身辺を調べて弱みを握る必要もない。逆に、身辺を探らせているのがスターリンに知られると、ベリヤ自身の身が危なくなる。ベリヤは、スターリンに完全に飼い馴らされているのだ。スターリンに背くことを考えたこともない----。フルシチョフは、ベリヤの弱みを握った気がした。

「それでは----」と、ベリヤがつぶやいた。
「大元帥の意向を受けた人間が、動いているんじゃないか?」と、フルシチョフは声をひそめて囁いた。
「----ヴォールク」と、しばらくしてベリヤが口にする。

ベリヤがフルシチョフを正面から見つめた。いつもは人の視線を逸らす男だった。目を合わせると、自分の感情を読みとられるとでも思っているのだろう。ベリヤの目に不安が浮かんでいた。

「ヴォールクは、大元帥の直属だ。きみは、正体をつかんでいるのではないのか」
「ヴォールクが動いている?」
「そうだと思う」
「大元帥の意向を受けて----」
「だろうな」

「横須賀の爆破テロを受けて、CIA東京支局は北朝鮮工作員二名と、我々の諜報員一名を拿捕した。以前から目をつけられていたのだろう。多くのアメリカ兵が死んで、彼らは本気になったということか----」と、ベリヤは独り言のように言った。
「それで、こちらの組織はダメージを受けたのか?」
「拿捕された男は、それほどの情報は持っていない。しばらく組織として動かなければ、大きなダメージはないはずです」

しかし、その男にフルシチョフは重要な役目を与えていた。Fとの連絡役である。そのことをベリヤは知らない。
「きみも、ヴォールクの動きは、今、知ったのか」

ベリヤが鋭い視線を向けてくる。スターリンからは何も聞いていなかったし、ベリヤの組織を使うこともしなかった。つまり、スターリンはNKVDを信用していない。あるいは、ベリヤを疑っている。それは、ベリヤの首にロープが掛けられたことを意味する。スターリンの猜疑心からは、誰も逃れられない。

「大元帥は、諜報工作機関としてのNKVDを信用していない。だから、自身でヴォールクを送ったのだ。つまり、きみは大元帥に信用されていないことになる。疑われている。大元帥に一度疑いを持たれたらどうなるか、きみが一番知っている----」
 
フルシチョフはそう念押ししながら、ベリヤとの関係が逆転したことを感じていた。ベリヤに疑心を抱かせねばならない。ベリヤを追い詰めれば、彼は間違いなく逆襲に出る。窮鼠猫を噛むかもしれない。噛まれる猫は、スターリンだ。

「モロトフがスターリンの粛正リストに載ったらしい。あれほど大元帥と共に戦ってきた忠実なモロトフ、ドイツや日本、連合国ときわどい外交を展開し、我が国に貢献してきたモロトフさえ、一度疑われれば切り捨てられる。きみの場合は、どうかな?」
 
フルシチョフはモロトフを味方にし、ヴォールクの目的を阻止し、その工作の失敗の責任を問う形でスターリンの後継者と目されているベリヤを弾劾し、ベリヤと組むマレンコフも葬り去るつもりでいた。しかし、もしかしたら別の方法があるかもしれない。

ベリヤは、暗い目でじっとフルシチョフを見つめていた。

 

2024年10月12日 (土)

■スターリンの暗殺者「第三章 李承晩」08

■1953年1月3日 東京・霞ヶ関

「山村さん、横須賀の件、神奈川から何か情報が入りましたか?」と、新城が訊いてきた。
山村は、机の上の資料から目を上げた。相変わらず、新城のがさつな物言いが気に障った。じっと新城を見上げてから、視線を資料に戻した。

「教えてくださいよ」と、新城が粘る。
「神奈川からは、何も言ってこんよ」
「あんなに協力したのに?」
「縄張り意識が強いからな」
「公安で、そんなこと言ってられないでしょ」
「向こうの担当は、公安じゃない。一課だ」
「日本人女性が死んでるから?」
「米兵の死傷者の情報は出ないだろうな」
「犠牲者が多すぎます」

犠牲者という言い方に山村はひっかかったが、何も言わなかった。少なくとも、彼らはみな兵士だった。それに、彼らにとって今は戦争中だ。こちらは休暇中だから攻撃はなしね、とはいかない。やはり、米兵には同情心が湧かなかった。

「やはり、北朝鮮の破壊工作ですかね。内調とか公安調査庁は、何か情報を持ってますかね」
「わしはわしのルートで情報を探る。おまえも自分のルートを作るんだな」と、山村は突っぱねた。
「まあ、自分なりのルートはありますけどね」と、負け惜しみのように新城が言った。

その時、係長に呼ばれ、山村は新城とふたりで係長の前に立った。
「何ですか?」
「警備部の松本課長からだ。明後日、大韓民国の李承晩大統領が来日する。特別警備をふたりに頼みたいというのだ。特別警備といっても、私服で群衆の中から見張ってくれということだ。李承晩ラインを設定して、竹島を占拠し、日本の船が近づくと銃撃する。漁船は拿捕され、死者も出ている。李承晩の評判は、非常に悪い。群衆の中に、石でも投げる奴がいないとは限らん」
「それを取り締まれと?」
「それもある」
「他にも?」

「北朝鮮の工作員組織の動きが怪しい。李承晩襲撃もあるかもしれないということだ」
「襲撃させといたら、どうですか」
「おまえも李承晩嫌いのひとりか」
「好きじゃないですね」
「それでも、我が国で何かあるとまずいんだ。警備は、万全でなければならん」
「万全の警備なんて無理ですよ。襲う方が捨て身になれば、防ぎようがない」

係長は首を傾げ、唇を突き出した。不同意の仕草なのだろうか。山村は頭を下げて自分の席に戻る。新城が追ってきた。
「係長に、あまり反抗的じゃない方が----」
「あんな素人みたいな奴に公安は無理だ」
「山村さんは特高警察からの叩き上げ、というわけですか」
 
新城の皮肉っぽい言い方に、山村は思わず拳に力を入れた。それが新城に伝わったのだろう、少し身を引く動きをした。
「暴力は、特高警察の十八番ですか」
「いちいち気に障る野郎だな。現場の下見にいくぞ」
「どこですか?」
「アメリカ合衆国大使館」

■1953年1月3日 東京・赤坂

占領は終わり日本は独立したが、このあたりの光景は変わらないな、とFは思った。新しく建てられたビルも多いが、空襲で半分崩れたビルがまだところどころに残っている。戦前からのビルや民家もある。テレビ塔が二本見えている。NHKと日本テレビのものだ。
 
占領期と変わらないと思ったのは、米軍ハウスが目立っているからだ。明らかに、そこだけ米国だった。柵の向こうは、まだ米国エリアだ。ゲートには日本人のガードが立っている。アメリカ合衆国大使館も近い。マッカーサーはアメリカ大使館内の公邸で居住し、執務室のある第一生命ビルまで通った。やはり、このあたりには米国の匂いがした。
 
Fは、狙撃と爆破の両方の可能性を考えていた。帝政ロシアのテロリストじゃあるまいし、まさか爆弾を投げつけるようなまねはしないだろうと思ったが、その可能性も排除はしなかった。そのような視点で周辺をチェックすると、攻撃ポイントになる場所がいくつかあった。
 
Fが得た情報では、〈ヴォールク〉は神風特攻隊のような攻撃をするタイプではないはずだった。逃亡方法を考えた上での攻撃。自らの身を犠牲にしてまで使命を果たすとは考えないだろう。だとすると、離れた場所からの狙撃、爆発の時には離れた場所にいられる時限爆弾、そのどちらかだろうと予測した。
 
時限爆弾を用いるとすれば、どこに仕掛けるかだ。李承晩の動きが予測できない以上、確実なのは会談場所のテーブルの下、彼が乗る自動車、そんなところである。だとすると、爆発物を使用する可能性は低くなる。やはり狙撃か、とFは思いながら、周辺のビルを見渡した。
 
狙うとしたら大使館内の国連軍総司令官の公邸へ入る時だろうが、車の中にいる李承晩を狙わなければならない。あるいは、ここではなく、宿舎のホテルに入る時を狙うかもしれない。ホテルの前で車を降り、ロビーに向かって歩く数秒の間に狙撃する可能性も考えねばならない。この後、帝国ホテルへまわってみよう、とFは思った。
 
自分ならどう狙うか、とFは考える。やはり狙撃だ。車の後部座席にいる李承晩を狙うとすると、リアウインド越しの狙撃になる。狙撃位置は低い場所を選ぶだろう。長く標的を捉えることができた方がよいとすれば、目的地に向かって走る車の後部が長く視認できる場所が考えられる。
 
とすれば、あそこか、とFは振り向いた。アメリカ大使館の門に向かって百メートルほど道が直線になっている部分があり、手前の四つ角の一角にアパートが建っている。その二階の西端の部屋の窓がFの注意を引いた。
 
Fは、そのアパートに向かって歩いた。アパートの入り口は、東に向いていた。観音開きの玄関ドアは木製の枠に磨り硝子が張られていて、「春風荘」という文字が透明になっていた。両手でドアを押して入ると、中央の二メートルほどの土間の両側に部屋が並んでいた。
 
部屋の前には、細々とした生活用品が置いてある。七輪、下駄箱、箒、金盥などである。三輪車が置いてある部屋には子供がいるのだろう。玄関の左手に二階に上がる階段があり、土足で上がれるようになっていた。Fは階段を上った。二階の中央の廊下にも一階と同じように様々なものが置いてある。それらをよけながらFは進んだ。一番奥の左の部屋が目的の場所だった。
 
部屋の前に立ってノックをする。住人が出てきたら適当な作り話をするつもりだったが、反応はなかった。表札も出ていない。Fは廊下を戻り、隣の部屋をノックした。ドアが開き、中年の女が顔を出した。

「すいません。お隣は渡辺さんのお部屋じゃないですか。四十過ぎの男性で、顎髭を生やしている----」
「いいえ、二十代の女の方ですよ。明日まで帰省してますよ」
「えっ、そうですか。ここは赤坂一丁目ですよね」
「違います。ここは三丁目。一丁目はアメリカ大使館のある方ですよ」
「あっ、そうですか。間違えたか」
 
Fは女に礼を言って、あわてて引き返す風を装ってアパートを出た。吉田茂と李承晩が会うのは三日後だ。李承晩は、おそらく後部座席に座る。フロントガラス越しに後部座席の李承晩を狙撃するとしたら、運転席と助手席の人物が邪魔になる。やはり、リアウインド越しに後部座席を狙うだろう。あの部屋から後部座席は狙えるが、それはアメリカ大使館に向かっている時だけだ。
 
会談後の車の後部座席をリアウインド越しに狙うとしたら、赤坂から日比谷までのルートの直線コースのどこかの可能性もある。しかし、大使館からホテルまでのルートは判明していないし、その日に変更される可能性もある。大使館にいくのに、絶対に通るとしたらこの道だ。帰りの車のリアウインドを狙える場所を探してみよう、と思いながらFは再び通りを歩き始めた。

                                                                                                  ★

「どうしたんです」と、新城が言った。
「大きな声を出すな」と、山村が小声でたしなめる。
 新城は、山村の視線の先を見た。二十メートルほど向こうのアパートから出てきた男に目を留め、振り返って新城は山村の顔を見た。

「あの男----」
「あいつだ。横須賀の----」
「つかまえますか?」
「いや、後を尾ける」と、山村は言った。
 
とっさの判断だった。あの男がなぜいなくなったのか。事件と関わりになるのが嫌だったのかとも思ったが、あの時の男の落ち着いた雰囲気が気になっていた。普通、あれほどの爆発に巻き込まれたら、気が動転してしかるべきだ。しかし、あの男は冷静だったし、自分の傷についても正確な判断をした。

警察の聴取に協力するように言いおいて、男をひとりにしたのが失敗だった。所轄の警察がきた時には、男はいなくなっていた。彼らは特に気にしなかったが、山村は不審な気持ちを抱いたままだった。男は爆発と何か関係しているのではないか、そんな気がした。
 
その男が二十メートル先にいた。頭の傷を隠すためか、グレーのソフト帽を被っている。グレーのオーバーコートも男を人波の中に溶け込ませていた。普通の勤め人に見える。だが、何となく危険な匂いを感じるのは、特高時代から培った山村のカンに響くものがあるからだ。
 
男はブラブラと歩いているように見えたが、視線は油断なく周囲を観察していた。何かの目的を持ってブラブラしているのだ。まっすぐ米国大使館の方へ歩き、その前を過ぎて大使館沿いに歩いていく。立ち止まり、あるビルの二階を見上げた。数秒して、再び歩き始めた。山村と新城はその後を尾けた。

「新城、広い道へ出たら、おまえは反対側の歩道に移り、斜め後ろから尾行しろ。わしが合図したら、尾行位置を交替する。わかったな」

山村は新城に指示をし、男を見失わないように歩いた。男は大使館からジェファーソン・ハイツと呼ばれる米国ハウスの前を通り、見附から四谷方面に向かった。靖国通りに出たところで、男は都電の駅に立った。新宿角筈行きの都電がやってくると、男が乗り込んだ。
 
新城がその後から乗り込むのが見えた。山村は、急ぎ足で次の駅に向かった。次の駅では乗り換え客が多い。降りる人間も多いし、乗り込む人間も多く、乗降に時間がかかるので、山村は間に合うと踏んだのだ。
 
案の定、山村は間に合った。最後に乗車し、男が吊革を掴んでいるのを確認した。数人おいて、新城が男に背中を向けて吊革を掴んでいる。山村は乗降口近くに立った。新城が前の乗降口の方に移動した。男は山村の顔を憶えている可能性がある。横須賀では、新城の方が男との接触は少なかった。

終点まで男は降りなかった。角筈に着き、男は他の客が降りるのを待っている。車内に人が少なくなると、男に気付かれる危険があった。山村は電車を降りた。前の乗降口から新城も降りて、人混みの中に立った。誰もいなくなった都電に男だけが残っていた。
 
ようやく、男が降りてきた。新宿駅の方へ向かう。山村は新城に合図をして、新城が男の後ろに付き、山村が斜め後方に付いた。新宿駅が近くなり、人混みが増えてきた。人波の中で男を見失いそうになる。面が割れていて近づけないのが、山村にははがゆかった。
 
夕方である。帰宅の客が増える頃だ。駅から人が吐き出される。小田急線や京王線に乗り換えるのだろう。人が駅前にあふれた瞬間、男が方向を変え、飲み屋が無数に隣接する路地に向かった。山村と新城は追ったが、何本もの路地が入り組んだ通称「ションベン横丁」は、かつての闇市の名残りを残し迷路のようだった。正月に浮かれた酔客たちでいっぱいの路地のどこにも男の姿はなかった。

2024年10月 5日 (土)

■スターリンの暗殺者「第三章 李承晩」07

■1953年1月2日 東京・新宿

「横須賀の件は、〈ヴォールク〉の仕業と見て間違いないだろう」と、三人の男たちの顔を見てFは言った。

新宿のWの家で、四人の男たちが顔を合わせていた。Fは爆発の時に切った額の傷に包帯を巻いている。目立つ姿だが、外に出る時にはソフト帽を目深に被っている。この季節、外套とソフト帽姿の男たちが大勢歩いているので、Fもその群れに紛れ込めた。

「爆発直前にトイレに入った日本人らしき男が、爆弾を仕掛けたのは確実なのですか」と、Tが訊く。
「ああ、男はトイレに入り、そこでトラップを仕掛けた。おそらく、窓から出たのだ」
「明確に、米兵を狙った爆破だな」と、Uが言う。
「米国本土では、北朝鮮のテロに報復を、という世論が湧き起こっているらしい」と、Wが続ける。
「米軍は、まだ何も発表していないですね」と、Tが答えた。

「今回の爆発は、日本の国内で起こった。日本の警察が捜査することになるはずだ」と、Fが言う。
「しかし、米軍は独自に調査するだろうし、情報は共有しないだろうな」と、Uがシニカルな口調で言った。
「結局、〈ヴォールク〉の狙いは米兵の殺傷だったわけか。これだけの人数を殺傷すると、米国内の世論が報復一色になる。戦争を長引かせる火種のひとつにはなるな」と、Wが言った。

「火種のひとつ?」と、Tが訊く。
「ああ、いくつか連続した北朝鮮のテロが続くことが必要だろう。単発では、世論が一時的に盛り上がるだけだ」
「なるほどね」と、Tはうなずいた。「ところで、いろいろデータを集めて分析してみたんです」
「どんなデータだ」と、Uが確認する。

満州時代と同じだ、とFはまた思った。自分が口出ししなくても、Tがデータ分析の結果を出し、Uが様々な観点から突っ込み、最終的なまとめはWが下す。時にはFが補足することもあったが、Wの結論をFが承認する。しかし、今は剽軽な役を引き受けていたKはいない。

「韓国の動き、米軍の動き、それに今後の日本、韓国、米国に関連する行事予定など、時事的なデータが中心ですね」
「それで?」と、UはTを促す。
「日米韓にとっては、昨年は激動の一年でした。一月に李承晩ラインが宣言され、二月と五月には巨済島で捕虜虐殺事件と暴動があり、李大統領が七月に再選され、米国では十一月にアイゼンハワーが大統領に当選し、十二月には訪韓し視察に訪れた。日本では、二月に第一次日韓正式会談が行われた。日本は講和条約が発効して、その後は戦前のエスタブリッシュメントが復活してきています。四月末には最後の公職追放解除があり、岸信介など六千人ほどが復帰。七月には戦前の治安維持法の復活と言われた破防法が成立。児玉誉士夫が愛国反共抜刀隊を計画するし、四月に海上警備隊設置。警察予備隊には旧軍の高級将校が二百名以上採用されるし、旧海軍将校の親睦団体『水交会』が結成される。左翼のテロの対象とされる団体や組織がやたらに増えてきたわけですよ」

「しかし、日本の組織が目標にされる可能性は低いと思うが」と、Uが指摘した。
「そうなんです。とすると、米軍基地、米兵に続く標的は、やはり直近で来日する李承晩になります」
「李承晩は、五日に米軍の軍用機で横田基地に着く。帝国ホテルを宿舎にして、六日にクラーク国連軍総司令官の公邸に入り、吉田茂と会談する。七日に再び横田基地から韓国の米軍基地に飛ぶ。狙うとしたら、クラークの公邸のあるアメリカ大使館に入る時か出てくる時だろう。ただし、周辺を含めて相当な警備体制が敷かれるはずだ」と、Wが言った。
「明日、公邸のある赤坂周辺を調べてみる」とFは言い、「私だけでいい。ひとりの方が目立たない」と付け加えた。

今は、WもUもTも一般人だ。調査を手伝ってもらったり、情報を集めてもらったり、頼りにはしているが、今回の使命は自分ひとりでやらなければならない、とFは改めて思う。

「ソ連側からの情報はないのか?」と、Uが訊く。
「今のところはない。〈ヴォールク〉は、やはり単独で動いているようだ。北朝鮮工作員組織は、〈ヴォールク〉の要望に従って調査したり、集めた情報を渡したりしているだけらしい」
「次の標的の情報も漏らさないというわけか」と、Uはうなずいた。
「そう言えば、爆発の後に助けられた警視庁の刑事というのは、大丈夫ですか?」と、Wが心配そうに口にした。
「私が消えたので、不審に思っているはずだ。爆破事件と結びつけているかもしれない。顔を憶えられたのはまずかった」
Fは、警視庁の刑事と名乗った年輩の男の鋭い視線を思い浮かべた。

■1953年1月2日 東京・田原町

花井光子は、平和荘の玄関前でうずくまっていた。元旦だけは休んだが、二日目から店を開けた。大通りに面した、ひとりでやっている小料理屋だった。午後から仕込みを始め、いつもは夕方から開けるのだが、正月なので三時からのれんを出した。

元旦は家族と過ごしたものの早くも外で飲みたくなった男たちが、店を開けると同時に何人もやってきて、いつもの開店時間の五時には満席になった。満席といってもカウンターに七人、小上がりに四人座ればいっぱいになる小さな店だ。
 
それでも、その店は光子の城だった。戦後も八年目に入り、光子の生活も落ち着いた。振り返れば、十代半ばの頃に太平洋戦争が始まり、昭和二十年三月の東京大空襲で下町に住んでいた光子の一家は火の中を逃げ惑った。
 
翌朝、ひとりになった光子は家族を探し歩いたが、わかったのは光子だけが生き残ったという事実だった。軍隊に入った兄は、秘密任務に就いたとかで、生きているのか死んだのか、まったくの音信不通になっていた。
 
それから半年足らずで戦争は終わったが、どうやって生きていったらいいのか途方に暮れていた光子は、「特別女子従業員募集、衣食住及高給支給、前借ニモ応ズ、地方ヨリノ応募者ニハ旅費ヲ支給ス」という新聞広告を見て、銀座にあった「特殊慰安施設協会」を訪ねた。公的な機関だと聞いたからである。
 
しかし、そこで説明されたのは、占領軍兵士の性の相手をする仕事だった。体を売る。そのことに対する抵抗感は、飢えの恐怖の前に崩れた。光子は処女ではなかった。二十歳を迎えた頃、出征する幼なじみの青年と一夜を過ごした。その半年後、幼なじみの青年は靖国神社に祀られた。光子には、操を守るべき相手もいなくなった。
 
自棄になっていたのは確かだった。生きるすべもなく、生きるあてもない。生きたいとも思わなかったが、野垂れ死には嫌だった。しかし、生きていくためには、食べねばならない。飢えるか、体を売るか。光子は娼婦となり、翌年にRAAこと特殊慰安施設が廃止になった後は、パンパンと侮蔑的に呼ばれる夜の女になり、爪に火をともすようにして金を貯めた。
 
仲間の洋子に「足を洗って呑み屋を出さないか」と誘われたのは、昭和二十三年の暮れだった。岸信介などA級戦犯容疑で捕まっていた十九人が釈放されたニュースが流れていた頃だ。翌年、新橋のガード下の片隅に小さな呑み屋を出し、葉子とふたりで懸命に働いた。その葉子が胸をやられ養生する間もなく死んでしまったのは、昭和二十五年の秋のことだ。世の中は朝鮮戦争の特需で好景気になっていた。
 
洋子は、すべてを光子に残してくれた。光子は新橋の店を整理し、二年前に今の店の権利を買い取り、ひとりで働いてきた。三十前の女が小さいとはいえ自分の店を持っていることに、「パトロンがいるのか?」とか「どうやって金を貯めた?」などと不躾に訊いてくる常連客はいたが、光子は適当にごまかしていた。
 
色っぽい女将と評判になり、光子の前身が噂になっているのは知っている。客の中には光子目当てに通ってくる男たちも多くいた。自分の色香が客を引き寄せるのなら、それはそれでいいと思っている。前身が知られても、恥じるつもりはない。戦争中から戦後、女が誰にも頼らず、助けもなく、ひとりで生きてきたのだ。
 
しかし、正月になると、たったひとりで生きてきたことを思い知らされ、気持ちが沈む。元旦は最悪だった。客たちは、みんな家族と共に過ごしている。くれば必ず光子を口説く客も、元旦だけは家族と一緒にいるのだろう。去年は元旦から店を開けてみたが、誰もこなかった。だから、今年は元旦だけは部屋で過ごした。
 
二日目の今日、家庭の酒に飽きた男たちは早々と店を満席にしたが、帰っていくのも早かった。みな、家族と夜を過ごすために帰っていった。八時を過ぎた時、光子はのれんをしまい、カウンターに座ってひとり酒を始めた。気持ちが沈んで飲む酒は、悪酔いする。手酌で、どれだけ飲んだかわからない。気が付くと、十時半を過ぎていた。
 店仕舞いをし、電気を消し、鍵を閉めて、フラフラしながら歩いた。和服の裾が足に絡んで、何度も転げそうになった。アパートまでは十分ほどだったが、どれほどの時間がかかったのかはわからない。気が付くと、アパートの玄関前でうずくまっていた。扉を開け、階段を昇れば自分の部屋だ。しかし、一度、座り込んでしまった体は、なかなか持ち上がらなかった。

「大丈夫か?」
頭上から低い男の声が降りてきた。首をひねって、見上げる。背中越しに、心配そうに覗き込んでいる男の顔があった。見上げているせいか、ひどく背が高い。痩せた男だった。顔も細面で、頬骨が目立つ。厚みのある唇が、冷酷そうに見えるのを救っている。俳優の木村功に似ていた。

「ええ、少し飲み過ぎたみたい」と、光子は言った。
自分の返事の中に、自然と媚びがにじみ出るのがわかった。娼婦として暮らし、呑み屋を開いた後も酔客たちの気を惹いて生きてきた。男の扱いは慣れている。男たちを相手に、七年の歳月を過ごしてきた。しかし、そんな自分が光子は嫌だった。
 
男が手を差し出した。その手を自然に握ることができた。華奢な外見に似合わず、意外にも男は力強く光子を引き上げた。勢い余って、光子は男の胸に抱き付く形になった。男が光子を受け止める。引き締まった体だった。筋肉質で、しなやかさを感じた。光子は男の背に一瞬手をまわしたが、密着した体を引きはがすように男の胸を両手で押した。
 
男が光子の背中に右手をまわし、光子の左手を自分の首にかけ、横に抱きかかえるようにした。一瞬、男の手が着物の八ツ口から入り、光子の肌に触れた。ハッとしたような反応を示し、男の手が慌てて光子の帯に降りる。その反応が、光子にはうれしかった。〈初心なんだ〉と思った。

「一階奥に入った人でしょう」と、光子は言った。
「そうだ」
「一度、見かけたわ。私は二階にいる花井光子。よろしく」
「挨拶はいい。二階まで連れていく」

光子は、娼婦の足を洗ってから男とは関係を持ったことがない。もう四年になる。何人の男と寝たのか、数えきれないし、顔も憶えていないが、商売とはいえ、それだけの男と寝ると、女の体は熟れて快楽を感じるようになる。男なしの四年間、光子は体が疼くと自ら慰めていた。

先ほど、男の手が八ツ口から脇に滑り込んだ時、光子の体に火が点いたのだろうか。光子は目の前の男を強く求めている自分に気付いた。男の筋肉質な体に抱かれる形になったのも、光子の体を火照らせた。

光子は首をまわし、両手を男の首の後ろで組んだ。そのまま男に口づけをする。男は驚いて身を離そうとしたが、光子は両手に力を込めて男に抱き付いた。唇を合わせ、舌を探った。男の体から何かが溶けていくように、緊張感が抜けていく。不自然な力が消えた。

「あなたの部屋へ」と、唇を放し光子は囁いた。
男は黙ってうなずいた。その目が冷たく光っているように感じた。

 

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