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「公教育の再編と子どもの福祉」シリーズ本合評会に向けて、次は私が書いた2巻の方への三つの問いに答えていきたいと思います。こちらの方の三つの問いとは、森さんが設定してくださった以下の通りです(森さんのエントリにリンクしておきます)。ちなみに、どの問いに対しても最初の1段落で応えてはいますが、その後、背景的なマニアックな話を書き込んでいます。

-2巻〈研究編〉の執筆者のみなさんへ
①今回の本に寄稿した文章で取り組んだのは、どのような課題ですか?
②その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?
③こうした課題に取り組むことには、どのような意義がありますか?

①今回の本に寄稿した文章で取り組んだのは、どのような課題ですか?

居場所事業という一つのフィールドについて、理念的に「教育」「福祉」とそこに収まらない機能を、分節して捉えるということです。その際、「教育」は学校の(テスト)勉強、「福祉」はソーシャルワークという形で具体的なものを設定しました。

裏テーマとしては、二つありまして、
一つ目は、1巻で書いた「「無為の論理」再考」を学術的なフォーマットで考え直す、ということです。もう一つは、南出吉祥さんの「「居場所づくり」の多様な展開とその特質」という論文で試みられた、南出さんが現場を見て、本を読んで帰納的に、抽象的なレベルで捉えるというやり方を、私なりに別の角度から出そうということでした。


②その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?

居場所事業には「教育」「福祉」に直接的に結びつく手前として重要な自尊感情(パノラマの石井正宏さんの言葉でいう「信頼貯金」)を育むような機能があります。自尊感情は学校の勉強に取り組んだり、支援を受けるにあたって必要なものであり、直接的な教育(学校の勉強)や福祉(ソーシャルワーク)にまでたどり着かなくても、それだけで意味があるものです。実際の事業を計画するにあたっては、そのことだけを基盤において、学校の補習(≒学習支援)、社会教育分野で重視されてきた遊びという意味での教育、ソーシャルワークなど好きな方向にカスタマイズすればよいという道筋を示しました。

1巻の「「無為の論理」再考」では、教育と福祉の両方のなかで行われる「無為の論理」的なコミュニケーションの取り方(≒ケア)があることを承知しながら、あえてそれらとは別次元の「一息つく」ということを「無為の論理」として分離して剔出しました。これは実は極めて理念的なレベルでの操作で、教育・福祉がともに変化、つまり一定の時間が必要とされるものに対して、「一息つく」は「一息」に象徴されるような瞬間を対蹠的に捉えています。ただし、1巻は現場の方にも伝わる平易な言葉で書くという編者の共通方針を作ったので、こういう構造的なことが見えてなくても、「目的に向かっていくだけじゃなくて、休むことも大事だよね」というメッセージが伝わればよいので、分かりやすい実践的な観察(言い切り)という言葉を要所に挟んで、そういう構造は見えにくいような書き方をしています。

これに対してこの論文は、ケアについて詳細に論じてはいませんが、教育と福祉を具体的な学校の勉強、ソーシャルワークという形でいったん固定することで、教育とは?福祉とは?教育福祉とは?という、実務的にはそんなところからスタートしたら終わらないよというテーマを、いったん外に置いておきました。この概念操作の方法は、別に難しいものではありませんが、私が自分で考えたもので、1巻に収録した座談会のラストで澤田さんと森さんが語られている「教育から見た福祉」と「福祉から見た福祉」とかの発想とは立場が違う点でもあります。


③こうした課題に取り組むことには、どのような意義がありますか?

実務的には、居場所事業の複合的な機能を分節したので、教育予算を取りに行くときは「教育」的機能を強調した書き方、福祉予算を取りに行くときには「福祉」的機能を強調した書き方をすれば、いいですよね、という至極当然のことを確認しました。実際にはどの現場もいろんな面を持っているんだから、その全部を伝える必要はなく、予算出しやすいようにデフォルメして書きましょう、ということです。

研究史上の流れはいろいろ書いてありますが、この論文は南出論文を展開させるという目的があり、それは「居場所」の考察を深めることに続く道だと考えています。ただし、私は南出論文に対してオルタナティブなものを提出したというよりは、基本的に別角度から光を当てたものを提出することで、補完的な関係にあると考えています。ただし、南出さんは個に注目すると、社会問題としての性質が見えにくくなるという点を懸念していましたが(これは2巻5章の山田哲也さんの論文のなかにも同じ発想はあり、わりと一般的な見解です)、これに対し、私は居場所におけるゲートキーパー的な発見機能を重視しています。平たく言えば、そこはそんなに気にしなくていいよ、ということです。

アメリカ出自のソーシャルワークはもともと個に軸があり、それはコミュニティ・ソーシャルワークでも同じことですが、1960年代から70年代に日本でこれを摂取するときには、個が後景に退く形になりました。これは日本的な団体交渉と、個を束ねたコレクティブ・バーゲニングとの違いにも似ています。ある特定の共通のテーマの社会問題に集約させるということは、同時にその中でのマイクロアグレッションを生じさせる土壌にもなり得るので、それこそジレンマを抱えやすいと私は思っています(昔の社会運動のなかで今から見るとジェンダー差別としか言えないものがあったり、枚挙に暇がないはずです)。社会問題としての集約性(離散性)と個への注目を対蹠的に捉えること自体に、日本における文脈上の必然性と、課題も含まれているかもしれませんが、同時に今回、私は「教育」や「福祉」が始まる前の地点に注目したことで、同じように社会問題に対しても、その問題を認識するスタートラインという位置づけは出来ていると考えています。

こうしたポジショニングによって、「教育」とは?「福祉」とは?「教育福祉」とは?という問いをペンディングさせています。もちろん、森さんの第1巻1章の「「多様な教育機会」と教育/福祉――ジレンマのなかで、ジレンマと向き合う実践の論理」のような試みは重要であり、我々も森さんのこの論文の元になる報告に対しては、報告する前と後で別々に検討する機会を作って議論してきました。しかし、いつもこの作業をしていると前に進んでいかないので、それはそれとして繰り返し行うとしても、別のアプローチの仕方もあるだろうということです。

RED研では、19年の春を一つの起点として、「話題提供」として実践報告、というより、現場で悩んでいることを言語化し、その「モヤモヤ」がどのように分節して、理解できるか、ということが多くなってきました。ただ、これは森さんの方針として、おそらく実践家に対するアカデミシャンがやるべき仕事という位置づけをされたと思うんですが、一年に一回くらいは、全体として我々が何を考えているかの現時点を発信する必要があるということで、シンポジウム(21年1月)、教育学会のラウンドテーブル(23年8月、24年8月)を積み重ねています(森さんの個人としての仕事としては社会政策学会での報告等、さらにあります。その上で19年12月の20回研究会は山田哲也さんと私のこれに対するコメント回でした)。教育学会のラウンドテーブルはそれまでにも2回やっているんですが、1回目は子どもの貧困、2回目は居場所カフェというテーマが個別的で、そこは趣が変わっています。

抽象レベルでいうと、現場で起こっている実践をベタに分析していくエスノメソドロジーと、森さんや澤田さんが全体をとらえるときに参照枠としているルーマンの議論を使って考えるという間のどこかに位置する試みであると二人の話を聞いているときには、私は考えていましたが、耳学問なので、違うかもしれません。
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