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このエントリは、新しい労働運動の可能性:教職員の声を集める、の続きです。

武田緑さんたちが始めた教職員の声を集め、それを政策形成に活かしていこうという試みのどこが新しいのかということを今日は考察して行こうと思うのですが、まだ応援していない方はあと二日ですから、ぜひSchool Voice Projectをお願いします!。こういうのは少しでも参加することに意味がありますよ!書いているうちに達成してしまった(笑)。

武田さんは、新著『読んで旅をする、世界の教育』を読んでいただくと、分かるのですが、彼女が大事にしたいと思っている教育に示唆を与える海外の事例を、実際、ツアーを組んで訪ねて行ったり、様々なメディアで紹介したりしてきました。また、私が初めて出会ったエデュコレでは、国内の様々な教育活動をしている団体が一堂に会する場を作ってきました。彼女には彼女の理想があって、その道を一歩一歩探しながら、歩いています。そして、ここが私が彼女を含め他の人たちと決定的に違う点なんですが、私はそういう理想を持ち合わせていないで、せいぜいが学生たちが元気で幸せにやってくれれば言うことない、と思っているくらいです。だけど、理想が高ければ高いほど、そこに到達できない苦しさも伴います。この本を読むと(正直に言うと、読んだ話なのか、聞いた話なのか、記憶が曖昧ですが)、武田さんがオルタナティブな教育を紹介しながら、実は学校というものを大事に考えていることが分かります。大事に考えているがゆえに、学校をもっとよくできる、そのために出来ることがこの活動なんだと思います。

この運動が従来の労働組合運動と異なることは前回のエントリでも書きましたが、この産業の労働組合は言うまでもなくまず日教組が出てくるわけですね。そして、この日教組は日本の労働組合の中では、やや異色な存在でした。それは労働者の組合でもあるんですが、何よりも教職という専門職の職能団体という性格を持っていたからです。私は別に日教組研究に関わっていたからそういうわけではなく、何人かの組合の友人から実感として聞いたことが私の中では大きいですね。曰く、連合になって総評と一緒になったとき、教育のことまでやろうとしていたので、驚いたというのです。総評では日教組は中核組合の一つですから、当たり前ですが、民間製造業出身の方からすると、教育問題は労働問題とは別なんですね。その日教組の特色の一つが教研集会を開催し続けて来たことです。

教師による教育研究というのは、私はおそらく明治30年くらいまで遡れると思っているのですが、普通は1930年代の教育科学運動くらいがその淵源と考えられています。ざっくりいうと、1920年代の新教育運動は世界的には第一次世界大戦期を契機とするデモクラシーの高まり、国内的には大正デモクラシーの影響を受けていると考えています。この後、第二次世界大戦をはさむことで、政府(保守政党と文部省)と教育現場(日教組)を上と下とみなす構図が出来上がって、下からということがとても重要になってきます。とはいえ、たとえば、生活綴り方(そして、そこを源にする日本の学校で習う作文)はそれを書く人の実感を大事にするものだったはずなのに、実際は大人が好きな表現の型が決まっていて、それに則ることで上(大人)から評価されるという捻じれたことが起こるわけです。読書感想文なんかでそういうことを味わった経験がある人は少なくないんじゃないでしょうか。まあ、でも、それは一応、今はカッコに置いておきましょう。

教師というのはどこまでいっても、生徒・学生に対しては、最終的に権力を持っています。それが何で担保されるかというと、成績をつける権利が与えられているということです。個人的な話をすると、この権力をどこまで使わないで済ませるかということにこだわりがあるんですが、一般的にね、権力を持つと、やっぱりそれは楽なんですよね。ついつい、それに頼って済ませたくなる。でもね、それはもっとも頭を使わない方法であって、およそ何かを学ぶ場である学校とはもっとも遠い位置にある。だから、本当に民主的にやるというのは難しいんです。

日教組だけでなく、労働組合というのは、下からの声だけでまとまりきらないとき、多数決という闘争で白黒をつけるんです。そして、それを不可避として考えて来た。そういう意味では一人一票ではなく選挙権(株式)を売買できる株式会社も同じです。争いの原理がシステムの中枢にある。その現実的、妥協的解決策として多数決があります。だから、多数派工作というものもあるわけです。スクールボイスプロジェクトは、組織ではないので、この意味での多数決はない。もちろん、これからたくさんの声が集まる中で、どうやってそれを整理するのかで、優先順位はついてしまうわけですが、原理的にはそこを対立を重視していない。それは新しい社会運動的であろうと思います。

学校での生徒が息苦しい世界は、きっと職場としてもまた息苦しい。その閉塞感をなんとかしたい、そういう思いから、このスクールボイスプロジェクトは始まっています。それは社会運動としての労働運動の原点だったはずなんですよね。どんな運動やあるいは事業と言い換えてもいいけれども、組織がgoing concern(という永続体)である限り、慣性で続けている活動は増えるばかりです。そうなると、原点はどうしても見失われる。

このプロジェクトが始まる前に、私は日教組とやらないのか?ということを最初、聞いてみましたが、そうではない形で始めたいという答えが緑さんから返ってきました。でも、それは敵対するというわけではなく、別の形で始まるということです。組合において数は力です。今の日教組に純粋なカンパだけで、組織の力に頼らずに1000万円を集めるだけの力があるのだろうか。もちろん、敵対する必要はないんだけれども、これだけの力のある運動をどう受け止めて、それを自分たちの運動への刺激とすることはおそらくこれから問われることになるでしょう。
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