壮士ひとたび去って復た還らずー秋瑾の生涯―
秋瑾は一八七五年に廈門で生まれた。
若い時から、彼女の美貌は近所でも評判だった。詩才もあり、そして武道も強かった。ただ、小さい頃より纏足していたため、武道を続けるには妨げとなり、もっぱらあまり運足を必要としない剣術のみを自分の得意分野とした。
秋瑾はこの封建的な慣習の纏足を心から嫌っていて、成人してからも、皮靴を穿き、矯正しようとしたが、一度変形した足はなかなか治りきることはなかった。こういった社会慣習に縛り付けられた中国の女性の解放と女性の地位向上は、秋瑾の生涯にわたって取り組むべき課題となった。
二十二歳のころ王延鉤と結婚。沅徳(男)と燦芝(女)の二人の子供ができる。
夫との家庭生活はうまくいかなかった。封建制の中で、夫は賄賂を渡して官位を買い、北京で勤務となった。秋瑾は、阿片戦争以降、世界列強諸国の食い物になりつつある自国の姿をみるにつけ、この国を変えなければならないという思いは次第に強くなった。
一方、ひたすら立身出世を夢見、政府におもねる夫の姿を見るにつけ、その不甲斐なさにがまんができなくなり、耐えられないと思うようになっていた。二人の間には、お互いを理解できない深い溝が広がっていった。
1894年に甲午戦争(日清戦争)が勃発し、日本と清国が朝鮮における覇権をめぐって戦争を始め、近代戦を得意とした小国であった日本が勝利した。
秋瑾は自分の国よりいち早く近代化した日本に興味を持ち、どこか日本語を教えてくれる人はいないか、探し回った。人づてで、北京大学堂(現在の北京大学)の近くで、北京大学堂の教授夫人であった服部繫子という女性が日本語教室を開いていることを突き止め、訪ねていき、学ぶことを許された。
夫は妻が日本語を学ぶことに反対した。秋瑾はその反対を意にも介せず、子供の世話は阿姨にまかせ、日本語の学習を始めた。服部夫人から日本語を学ぶかたわら、日本の女性もまた、長い間、女性差別と封建体制に泣かされてきた歴史を知る。福沢諭吉が明治維新て、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があるとした主張を学んだ時には我が意を得たりと、拍手喝さいをおくったほどであった。女性の社会的地位の開放と経済的自立の推進こそが大事であることに確信をいだくようになった。
秋瑾は、日本へ行きさえすれば、あらゆる新鮮なもの、強烈なもの、未来的なものが待ち受けているに違いないと思うようになった。中国よりもいちはやく近代化した日本を見れば、今後この中国がどうあるべきかが学べるような気がしたのである。
秋瑾と夫の王は、今北京に住んでいる。
「秋瑾、いいかげんにしろ」
夫の王が、怒気鋭く言い放った。
「あら、私が日本へ行きたいという願いを受け入れてくれたのかしら?」
「俺たちの間には、二人も子供がいるんだぞ。この大事な時期に、日本に留学したいだと。そんな無理がとおるわけがないだろう」
「私がいなくとも、阿姨が子供を見ているし、あなたのお母さんに来てもらえば良いわ。私がここにいなければならないという理由にはならないはずよ」
「そうは言っても、子供には母親が必要だ。おまえは子供たち、沅徳と燦芝の母親なんだぞ」
「そうね。でも、今は子供たちのためより、この国のために、私にできることがあるはずよ。あなただって知っているように義和団事件のあと、この国は外国から屈辱的な扱いをうけてきたわ。この国はなにか変わらなくちゃいけないのよ。日本へ行けば、それが見つかるかもしれない。ここにいては、私のやるべき事がみつからないわ」
「無理言うな。お前がどんなに頑張っても、一人で世の中は変えられん」
「そうね、官位さえもお金で買えるくらいですもの。でも、あなたは漢民族としてのプライドはないの。満州族の政府から官位をもらって喜ぶ姿なんて最低よ。でも、あなたはそれで、いいのでしょう。私は嫌だわ。私ひとりでも戦うし、きっと自分の道を見つけて見せる」
次の日、秋瑾は書き置きを残して、王の家から消えていた。書き置きには、離婚し、私のことはお忘れください。一人で日本へ行きます。子供のことお願いします。とだけ記してあった。留学費用は、秋瑾自身が蓄えたお金と、身の回りの物を整理して捻出した。
秋瑾は日本へ渡った、その頃、日露戦争が始まろうとしていた。日本は開戦ムードに一色だった。
秋瑾の一番驚いたことは、国威高揚であった。国民が日本という国に誇りをもち、政府と国が一体となって戦争にいる姿は、自国の中国では、一度も見たことがない。なぜなら、それまで中国の歴史は、王朝そのものが国家を成し、中国を一国のまとまった意識としてとらえることに慣れていなかったからだ。
国として、たやすくまとまれる日本に対して羨ましさもあったが、反面、反論や反対する者が大きな流れの中で押しつぶされてしまうのでは、という一抹の不安も感じた。その危惧は、彼女の死後から十九年後、満州出兵という形で現れる。
日本に来た中国からの留学生は、皆、弘文学院で学び始めることになっていた。柔道で有名な嘉納治五郎が中国留学生のために開いた私塾である。
秋瑾が日本に来る二年前に、魯迅は既に日本で勉強していて、この年の秋、弘文学院を卒業し、仙台医学専門学校へ移っていっている。秋瑾は弘文学院の速成師範班に編入するとともに、中国留学生会館の経営する日語補修所で日本語を学んだ。
秋瑾が友人に勧められて、陳天華の詩を読んだのは、留学してから一カ月も経ってからのことだった。『警世鐘』と題する陳天華の詩は、次のような書きだしから始まった。
「あいや、あいや!来た、来た!何が来た?
洋人が来た、洋人が来た!困った、困った、誰もがみんな困ったことだ!
老いも若きも、男も女も、貴人も賎しい人も、金持ちも貧乏人も、役人も知識人も、
商人も職人も、全ての人が今から以後、みんな洋人の檻の中の牛・羊や、
鍋の中の魚・肉と同じ。
殺そうが煮ようが意のままで、こちらは半歩も動けない。
ああ!我々みんなの死ぬ日が来たのだ。」
ここには、無道(天下に儒教道徳が行われない国)の外国が有道(儒教道徳が行われている国)の中国へ来て、近代文明や兵器で、中国の文化や国をめちゃくちゃにし、外国の思うように中国人民を圧殺しかねないという陳天華の国を憂いる気持ちが率直に表れている。
この陳天華の憂国の叫びは、秋瑾の心にも響いた。こういった人たちと、談論し、決議し、中国の今後の在り方を学ぶ必要がある。それでこそ、自分の道を見つけることができるという確信に変わっていった。
幸いにも、秋瑾は、横浜にある三合会に入っていた。そこで、陳天華に合い、さらに友人の宋教仁を紹介してもらう。その二人から、黄興や孫文の演説の内容を伝え聞くことができた。特に、宋教仁はなんとしても清朝を倒し、人民による議会制民主主義を達成しなければ、この国に未来はないことを力説したことが、深く印象に残った。
後に、宋教仁は、辛亥革命後に孫文と南京臨時政府を設立するが、孫文と一線を画して議会政治を実現しようと努力する。しかし、それを阻もうとする袁世凱が刺客を送り、宋教仁を暗殺させ、後に袁世凱自身の都合のよい政府が作られていくことになる。
浙江同郷会の週1回の会合にも必ず出席し、蔡元培のほか、章炳麟などと知りあうことができた。彼らから、二歳年上の徐錫麟を紹介されたとき、それは運命的な出会いであった。そのやせ細った体から、国を思う熱情がほとばしり、聞く者の心をうった。
徐錫麟は秋瑾に日本で何を学び、何をすべきか、切々と訴えた。中国を変えるには、武力によって清朝を倒すしかないこと、そのためには、いずれ本国で武器を集め、人を集め育成し総決起をはかるしかない。その時期がくるまでには、日本で何を学ぶかといったはっきりした目的意識を持つ必要がある。
女性解放を目指すなら、教育や看護を学ぶ必要がある。また、武力革命をめざすには、射撃や爆薬の製造の仕方も知る必要がある。その一言一言が秋瑾が日本で何をなすべきかの道程を示していた。
秋瑾は徐錫麟の理想に夢中になった。しかし、徐錫麟と秋瑾の関係は、短期間に終わった。徐錫麟が同じ年に上海へ戻り、光復会に入ったからである。徐錫麟とは手紙で連絡を取り合い始め、上海からの手紙を待ちわびる日が続いた。
弘文学院から下田歌子の創立した実践女学校(実践女学校付属清国師範工芸速成科)、現在の実践女子大学、に入学し、女子教育に必要な、教育・工芸・看護学を学んだ。そのかたわら、徐錫麟が指図したとおり、神楽坂の武術会に通って射撃の練習をし、同じ三合会の仲間である林植生から、爆弾の作り方まで習得した。
また、刀剣に興味を持ち、特に短刀を愛した。「女は辱じて自殺を成し、男は甘んじて順民と作る」と詠んでいるように、恥を避けるための自殺用だったとも言われている。
憂国の詩人の陳天華は死に場所をもとめていた。もともと、陳天華の所属する華興会は、1904年秋の西太后の誕生日に集まった高官を爆弾で吹っ飛ばし、それを機に一斉蜂起するという計画を立てていた。いわゆる長沙起義である。
しかし密告者が出るなどして事前に露見し、清国政府に追われて、陳天華も日本に亡命せざるをえなかった。彼にとって、日本へ来るくらいなら、本当は本国で死を選びたかった。
しかも、日本へは来てみたが、彼にとって住みよい場所ではなかった。日本語もおぼつかなく、あばた顔に劣等感があり、寡黙なため、友人も少なかった。
陳天華が、みずから北京へ行き、「要求救亡意見書」を突き付け、清国みずから改革をするよう要求する事を計画していたころ、日本政府が中国人留学生の取り締まりを強化するという通達を出した。
もともと留学生の数は、それほど多くなかった。1901年では280人くらいだったのである。ところが、1905年で約8,000人、1906年には18,860人と激増した。その背景には、清国自身が科挙を廃止し、留学生を日本へ送り出し、新型官僚を養成しようとしたことである。
ところが、この留学生たちが、革命派と結び付き、革命思想家に変貌していくケースが多くなった。このままだと、墓穴をほりかねないと、留学生の取り締まりを強化を日本政府に要請したのである。
清国留学生に対する取締規定には、他校が「性行不良」学生として一旦退学させた者に、入学許可をだすことを禁止する条項がある。この文言に留学生が反発した。
このままでは革命派の学生は、性行不良と扱われ、学業が継続できないと反発し、授業のボイコットが始まった。それに対し、日本の新聞は、そんな中国留学生を「放縦卑劣」と批判した。
12月8日、陳天華は大森の冷たい海に一人で入水、自殺した。大森は遠浅の海岸であった。その海に入水したということは、覚悟の自殺であったろう。
陳天華は「嗚呼我同胞」で始まる「絶命書」を残している。必要なのは自らの救国であって、革命のために他国の援助を期待するべきではない。功名心のひとかけらもあるべきではない。留学生の皆さんは今後も学業に励んでほしい。それを忘れないでもらいたいために入水するとある。
その内容は革命の純粋性を失っている孫文への批判であり、他の革命家たちの思想と一線を画していた憂国の書でもあった。
秋瑾ら同志は、陳天華の死を悼み、葬儀に参列した。
7月、広東派の興中会、浙江派の光復会、湖南派の華興会が合併して中国同盟会が成立する。秋瑾は同盟会にも、光復会にも入会し、その活動はさらに忙しくなった。
その頃、同じ、浙江省出身の胡道南と女性解放について激論を交わしている。
女性蔑視であった男性の胡道南は言う。女性は革命者とはなれないし、中国では女性の解放は早すぎるという差別発言に対して、秋瑾は舌鋒鋭く反論した。
中国では、女性を男性の所有物と化し、纏足を施し自由に歩くことを制限し、子供を家長の所有物とし、彼女らが個人の人格をもち、自由な意志を持っていることを認めない社会ではないか。社会を変えるためにも女性を解放するのが先でしょう。女性を教育、経済、政治、道徳の各方面から解放しようとするなら、まず第一に女性の人格を認めるべきだと秋瑾に強く反駁され、議論にまけた胡道南は仲間の面前で恥をかいたことになり、その後、何かにつけ、秋瑾に恨みを持つようになった。
翌年1905年1月、清国留学生に対する取締規定に関する抗議集会が中国留学生会館で開かれた。この集会には浙江同郷会の一人として魯迅も参加している。
議論が一通り、噴出したあと、秋瑾は壇上にいた。集まった中国人留学生を見まわしながら、叫んだ。
「皆さん、ご存じのように、我が国は他国との戦争に負け、領土は侵略されています。それなのに私達の政府は、いまだ封建的な体質のまま変わっていません。。このままでは、陳天華が彼の詩で述べたように私達の国の将来は危ういのです。今、この国を変えなければ、今、あなた方が立ち上がらなければ、この国は変わらないのです。では、私達はどうすべきか?さあ、みんなさん今こそ国へ帰りましょう。帰って私達の国を変えるために努力し、一緒に戦おうではありませんか」
秋瑾の考え方に賛同したのは、半数にもみたなかった。官費留学生は、本国に帰れば家族兄弟があり、一時の感情で反動分子になっると、迷惑をは一族に及ぶことを恐れた。
聴衆の反応に、秋瑾は失望し、激しい怒りがこみあげてきた。
「どうして、私の叫びがあなた方の心に響かないのですか。いつまでも他国で学んでいる場合ではないでしょう。私達の国は、今貴方がたを必要としているんです。今、帰ってこの国を変えなければ、いつ帰るんです。革命が終わってしまってからですか?あなたたちにとって、革命は他人事なのですか。私の言うことが理解できない者は、臆病者です。臆病者はみんな死んでしまいないさい。祖国に帰ってから、もしも満人政府に投降して、友を売り栄達を求め、漢人を弾圧する者がいたら、私のこの一刀が許さない!」
裏切る人間は、絶対に許さない。すごい気迫であった。愛用していた帯からはずすと、短刀をテーブルの上に投げつけた。
秋瑾の心は張り裂けんばかりだった。日本が明治維新という時期を経て、封建社会から決別し近代化へ進んだように、いまこそ中国を変えなければ、本当の革命なんかいつまで待っていてもやってきはしない。何を躊躇しているのだ、立ち上がるのは今しかないのだ。
それでも、秋瑾の呼びかけに賛同した、二千人ちかくの留学生が、帰国の途につく決心をする。
秋瑾は、二千人の留学生とともに、日本での勉学を投げ捨て中国へ帰国することを決意した。徐錫麟も秋瑾が中国へ戻ることに賛同し、お互いに連絡を密にとりあうことを約束した。
日本から紹興にもどった秋瑾は、湖州の女学校で一時期働き、看護学や日本語を教えた。
その後、徐錫麟から、光復会の最高指導者である陶成章から資金が出て、陸軍将校のの養成学校「大通師範学堂」を設立するとの連絡があった。その学校で、働いてくれないかと要望に、秋瑾はすぐにとびついた。
大通師範学堂に移り、そこで主任(校長)として働き始めた。その一方で、革命軍のなかでは、徐錫麟は革命軍である光復会浙江省の首領であり、秋瑾は副首領という立場となった。各地に首領がおり、一斉蜂起の折には、各地で革命軍が一斉に反乱を起こす計画をしていた。反乱を起こした際には、徐錫麟は次のような告示をだしている。「満人にして降伏せざる者は殺せ、わが軍に犯行する者は殺せ、機に乗じて奪略する者は殺せ、謡言して事を生じ治安を妨害する者は殺せ、漢奸となりたる者は殺せ」
「大通師範学堂」は、表面上は陸軍将校の養成学校という隠れ蓑をかぶっていたため、革命軍の拠点であることも、さらに一斉蜂起の際の武器倉庫となる予定であったことも、学生には知らせることはなかった。
一斉蜂起の日が近づいていた。1907年5月26日が一斉蜂起の日として約束していたが、様々な事情のため、突然、6月10日に変更され、そのことが秋瑾にとって不幸な連鎖へとつながった。
徐錫麟は、このころ巡警処会辧兼理学堂事務として働き、高官暗殺の機会をねらっていた。大金を払い、官位を買ったあとで、事務官として警察学校に仕事の口を得たのである。要人を暗殺しようと思えば、どうしても身分を偽って潜入するし、機会をうかがうしかない。
彼は、いわゆる警察の事務方の仕事と安徽巡警学堂(安徽警察学校)の事務も兼任していた。紹興に来て一年しか経たないが、職場では、その真面目な仕事ぶりに誰からも信頼され、誰ひとりとして彼を革命軍の幹部と思う者はいなかった。
当日、運命の5月26日。安徽巡警学堂の修業証書授与式にて安徽省の恩長官(巡撫)や、その他官僚が参列し講和をすることになっていた。徐錫麟は、ひそかに恩長官暗殺を計画した。長靴のところに拳銃を隠し持ち、大官が参列するのを待った。式典が始まる前に、徐錫麟は練兵場において、学生たちに演説した。
「今、我が国は弱体化し、外国と覇権を争うことができないほど近代化に遅れている。こんなときこそだからこそ、諸君は常に結団して祖国を救わなけばならない。今こそ、武器を手に立ちあがるべきだ」
彼の声は、悲壮をきわめ、練兵場に響き渡った。しかし、演説が終わっても、何を言わんとしているのか、学生たちには理解できなかった。すくなくとも、事件が起きるまでは。
警察地方長官および、他の官僚約五十余名が到着し、徐錫麟は、長官一行を先導し、式場に向かう。長官と官僚は、第三の式場に入った。
階上から、軍服姿の徐錫麟は号令をかけた。官員の学生は一列縦隊をつくり、長官に敬礼をし、次に、その列と並列に立つ、普通の学生の一列縦隊が敬礼をしようとしたときに、徐錫麟の動作は素早かった。長官に敬礼をしようと見せかけて、長靴に隠したピストル二挺を取り出し、両手に一挺づつ握り、恩巡撫(長官)を目がけて数発、撃った。長官は肩、腰、脇に数発の弾丸を受けて、倒れた。
徐錫麟の仲間二人も銃を手に突進し、長官の一行に乱射し始めたため、式場は阿鼻叫喚の大地獄となった。その場にいた官員は、殺され、傷つき、あるいは命からがら遁走した。長官を守ろうとした部下も一名は重傷を負い、もう一名は倒れた。数名の部下が、かろうじて撃たれた長官を肩に背負い、籠のなかに担ぎ入れ、籠を背負って官署内に担ぎこむが、午後に二時には長官は、死亡した。
この時、練兵場にいた、教員や学生のほとんどは逃げ去っていたが、僅かに二十数人残っていた。徐錫麟は刀を抜いて大声で一喝した。
「長官は死んだ。一緒に進撃して国を裏切った奴らをやっつけよう。私は革命軍のものだ。みんな、革命軍に従え」
学生は驚き、どうしたらよいかわからずに戦慄して立っていた。徐錫麟と二人の仲間は、左手に刀を握り、右手に拳銃を握り、学生を横目ににらみ、号令をかけた。
「気をつけーッ」「左向け左」「駆け足―」
号令が響く。
一名の学生だけ、どうしたらよいのか困惑して躊躇しているのをみて、徐錫麟は近寄りざま、刀で切り下ろし、一撃で殺した。それを見ていた、残りの学生は恐怖のあまり、命令に従順に従うようになった。
徐錫麟と二人の仲間、学生たちは武器庫に押し寄せ、刀と拳銃を手に、大声で叫んだ。
「ただいまより、この武器庫を占拠する」
武器庫を守っていた責任者は、恐怖のあまり抵抗もせずに逃走した。武器庫に入ると新旧式の大砲があったので、大砲を引き出し、急ぎ学生に大砲を撃たせようとしたが、信管が見当たらず、発射できないことがわかった。
その間に、政府軍兵士は武器庫を遠回りに包囲し終わっていた。徐錫麟と二人は武器庫の正門を守り、銃で応戦し、政府軍兵士六人を射殺した。戦闘は四時間にも及んだが、仲間の二人は、政府軍の兵士の数の多さに、ひるみ、ついに弾薬も少なくなってきたため、武器庫から逃走した。
徐錫麟は一旦、退くと見せて、隣家の庭にジャンプして、逃げ込んだ。それとは知らずに兵士たちが、武器庫に侵入してみたが、中はガレキのみで、人の姿がみえない。
周囲がくまなく探索された。兵士三人は、隣家に入り込み、そこに隠れていた徐錫麟を見つけた。徐錫麟はほとんど抵抗せずに逮捕された。官員学生も十数人か逮捕され、普通の学生二十数人もやはり逮捕され、訓練所に引き立てられた。
督練所にて、布政使(行政長官)、按察使(県警察長官)などが徐錫麟を厳しく審問した。
「革命軍という身分を隠し、この学校で働き、長官を待ち伏せて殺すなど、割にあわないと思うが、どうしてしてしたのか?」
「個人的な怨みで、長官を殺害したわけではない。彼を殺したのはそれなりの大義がある。まず、孫文と共に革命を起こすには武器が必要だった。そのため、武器弾薬を長江一帯に密輸しようとしたが、長官が長江一帯の警備を強め、武器密輸を阻止したことが暗殺の最大の理由だ。なぜなら、武器なしには革命を起こすことなどできはしない。先ずは長官である恩銘を暗殺して、更に各地方長官である、端方、錫良、鉄良、徐世昌等をも暗殺しようとしていたのだ。この警学堂(安徽警察学校)の職員、学生はこの事件と全く関係ない。すべて私の一存でやったことだ。願わくは、満人の政府が倒れ、漢人のための新しい革命政府ができてほしいものだ。生きているうちに、この目で見ることができないのは残念だがな」
徐錫麟の話は続く。
「戦国時代に、荊軻は秦王を暗殺するために、領土割譲の証である地図と樊於期の首を王のもとに持参した。私は長官を暗殺するため、官位を金で買い、警察学校の事務官として暗殺の機会をうかがっていたのさ。事務官が地図で、樊於期の首にあたるのが、学校の修業証書授与式だったわけだ。結局、荊軻は秦王を暗殺に失敗し、秦王の暗殺を企てた燕の国は秦に滅ぼされた。私は、暗殺を成功させることができた。荊軻は全身を剣でズタズタに切り刻まれ、絶命してからも切り刻まれたという。暗殺者として、そうなるのは覚悟の上だ、どうとでもするがよい」
そういって、徐錫麟は荊軻が出発前に生きてもどらない決意を込めた詩を吟じた。
「風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず」
布政使が立ち上がって、叫んだ。
「恩長官を秦の始皇帝と同じとし、自分を荊軻にたとえるとは、なんてふてぶてしい奴だ。恩長官は、自分の職務に忠実であろうとしたしただけだ。それを荊軻にたとえて、自分の行為を正当化しようとするなど、許せん。恩長官の親衛隊に手渡し、八つ裂きにしてやる」
部屋を飛び出すと、親衛隊の方へ足早に歩き去った。
布政使から、供述の内容を聞き、恩銘の親衛隊である兵士たちの義憤は、おさまらない。長官を殺され、仲間を殺され、さらに暗殺を正当化する徐に怒り心頭に達していた。審問が終わると同時に、彼らを取り囲み徐錫麟の引き渡しを要求。按察使が裁判が必要だとの意見にも、耳を貸さず、徐錫麟を引き連れ、東轅門の側に連行していった。
徐錫麟は縛られたまま、長い板の上に寝かされた。親衛隊の兵士の中に、徐錫麟の知っている顔がいた。同じ職場で働いていた友人の陳だった。徐錫麟は彼の顔をじっと見た。陳には、徐錫麟が殺してくれと叫んでいる声にならない、心の声が彼の眼を通して聞こえた。
「俺は、革命家として死んでいく、死んでいくことに未練はない。ただ、お前が俺を少しでも同情するなら、苦しむことなく死にたい。すぐ殺してくれ」
陳は迷った。徐は頭が良く、仕事も早く、陳の仕事も助けてくれた。事件がおこるまで、徐を朋友だと信じていたのである。徐が今回の事件を引き起こしたのも、何か正当な理由があるのだろう。陳は彼の命を奪い、苦しみから助けてやろうと決意した。
「この野郎、なぜ長官を殺しやがった」
ナイフを引き抜くと、上段に振りかぶり徐錫麟の腹部をめがけて、刺そうとした。まわりから手が伸び、陳を止めたために、ナイフの手元が狂った。ナイフの切っ先は陰のうを破り、血がそ頚部から流れ、軍服のズボンを染め、板の上から滴り落ちた。
徐錫麟の眼が陳に注がれ、静かに瞼を閉じて、感謝を表した。
まわりの親衛隊は、陳が義憤からナイフで殺そうとしたと疑わない。
「おっと、陳よ。この野郎をまだ、簡単に死なせるわけには、いかないんだよ。なにしろ、俺たちの長官を殺し、仲間を殺し、傷つけた野郎だ。ジワジワ死んでもらわなければ、俺たちの復讐心がおさまらない。さて、どうやって死んでもらおうか。何が望みだ?凌遅という皮膚の肉を切り刻んでいく刑はどうだろう。あるいは皮だけを剥ぐ剥皮もある。断手という手を切り、げっ足という足切りもある。あつ眼という眼をえぐる刑もある。凄惨なところでは、腹割き、腸を引きずりだす刑もあるんだが」
駆け付けた長官の遺族の一人が、叫んだ。
「この憎いやつを、散々苦しませて殺してくれ。俺たちの大事な親族を殺した悪人だ」
「苦しませて死なせるなら、生体解剖はどうだ」
「なるほど、それは名案だ。それにしよう。大工道具でもなんでも良いから鋭利な道具を持ってこい」
生体解剖するための、道具をそろえている間に、傷ついた陰のうから、かなりの量を失血し、体温が下がっていった。唇が紫色に変わり、寒さのため体が小刻みに震える。親衛隊が、頭蓋骨の皮を剥ぎ、頭蓋を切開し、腹部を裂くころには、徐錫麟はほとんど痛みを感ずることはないまま、体温が下がり、眠るように死んでいった。
「こいつ、くたばりやがった。これが、憎っくき徐の心臓だ。焼いてくってやろうぜ」
死体から心臓をとりだすと、親衛隊の何人かは、台所へくりだし、酒を飲み、焼い食べた。残った人は、頭蓋が切開され頭の皮が垂れ下がったままの頭部を切りとり、棒の先に刺して、梟首とした。
後日、この話を聞いた秘密結社・華興会の総理であった黄興が徐錫麟を悼む詩をよせた。
百尺(ひゃくせき)の樓に登り,大好の河山を看る。
天若(も)し情有らば,應(まさ)に識(しら)しむべし
四方に猛士を 思ふを;
一抔(いつぽう)の土を留め,以て日月と光(かがや)きを爭ふ。
人誰(たれ)か死なざる,獨(ひと)り千古に先生を 讓らん。
<訳:高楼に上り、麗しい山河を見る。天に情けがあるならば、各地に革命の志士の思いを伝えよ。小さな墓に残せし、彼の覚悟は日月と輝きを争う。人は誰も死すべき運命にあるが、生きて成せし功績は、とこしえに徐錫麟を飾る。>
魯迅は1918年に「狂人日記」を「新青年」に発表している。この徐錫麟による事件が1907年なので、創作するうえで、なんらかの影響をうけた可能性がある。日記にはこういった記述がある。
「村に一人の大悪人があって寄ってたかって打ち殺してしまったが、中には彼の心臓をえぐり出し、油煎りにして食べた者がある。そうすると肝が太くなると言う話だ。」
反論もあるかもしれないが、私には徐錫麟の事件をさしているとしか思えない。
武器庫から逃亡した徐錫麟の仲間二人は、一名は抵抗し銃殺され、もう一名は逮捕された。しかし、この時点では、徐錫麟の死と秋瑾との関係を結ぶ線を、当局はつかんでいなかった。しかし、その情報の包囲網は刻々と秋瑾に迫っていた。浙江省紹興にある徐錫麟の家族が逮捕され、その家が捜索され手紙類が押収された。日本留学中にた女性解放の議論で秋瑾に恥をかかされ、恨みを持っていた胡道南に政府が探索がたどりつくまで、それほどの時間を必要としなかった。
胡道南と紹興の大地主、章介眉は保身のため、秋瑾と太通学堂が革命軍の一斉蜂起の拠点であることを政府に密告した。
秋瑾は太通学堂にいる。既に徐錫麟が恩銘を暗殺し、殺されたニュースは秋瑾のもとにも届いていた。恋人である徐錫麟が殺されたことで、秋瑾は終日、悲嘆にくれた。しかし、彼女には彼がやり残した太通学堂がある。しかし、胡道南の密告で、政府の軍隊はすぐそこまで迫っていた。
徐が殺されて10日経った頃、平陽党の支部主任である王金発が、突然、太通学堂にやってきて、徐錫麟の最後の様子を伝えた。
「秋瑾同志、徐が殺され、彼の弟や、仲間が逮捕されたらしい。徐の仲間は口が堅くとも、拷問には耐えられない奴もいるかもしれない。やがては、必ず政府の兵士は太通学堂にもやってこよう。いや、この学校にも、既に政府のスパイが紛れ込んでいるかもしれない。新しい隠れ家を用意するので、大至急移ってくれないか」
「王同志、私は死ぬ覚悟はできている。心配してくれてありがとう。ここにはまだ学生がいる。彼らを見すてては去ることができない。捕まったら、私も徐のように革命に殉じて死ぬ」
王金発は説得をあきらめ、去って行った。
7月14日、秋瑾は相変わらず、太通学堂にいる。
蔣継雲が秋瑾にしつこくまとわりつく。
「秋瑾同志、革命にはどうしても武器が必要だ。今の武器じゃ不十分だ。俺に金を用意してくれれば、武器を購入するツテがある」
「今はダメだ。10月になったらそのめどがつくから、その時は頼むかもしれない」
秋瑾は蔣を信頼するには、まだ時期尚早と考えていた。彼は光復会の会員ではあったが、秋瑾の心の中で、彼を信頼するには何かが、ひっかかっていた。彼は虚名をうらやみすぎる。
「10月じゃあ遅すぎらぁ・・・・」
蔣の言葉が終わらないうちに、19歳の程毅が息をあえぎながら、部屋に入ってくる。
「秋瑾、大変だ。学校のまわりを政府軍が囲んでいる」
「わかりました。私は覚悟ができています。学生は避難させなさい。」
徐錫麟の場合とちがって、秋瑾は学生を手段とすることはなかった。
秋瑾が堂の入口近くまで来たときには、政府軍の精鋭部隊の兵士300名が素早く学校へ侵入し、取り囲むのが見えた。秋瑾は、重要書類の入ったカバンを取り上げると、懐から拳銃をとりだし、抵抗しようとした。
「秋瑾、すでに取り囲まれてしまった。いまさら抵抗しても間に合わない」
蔣はそういって、秋瑾から拳銃をとりあげようとした。
「蔣、私は死ぬことなんて恐れてはいない。その手を離せ」
拳銃をつかんで邪魔な蔣を投げとばした瞬間、兵士が数人が二人を取り囲み、近距離で銃口を向け、秋瑾と蔣は逮捕された。1907年(明治40年)7月13日の午後のことだった。
学校にいた、銭応仁は逃げようとして兵士に撃たれ軽傷。程毅は、後日、一味とみなされ、激しい拷問を受け死亡。死体の皮膚には、鱗状のむごたらしい拷問痕があったという。
臥龍山の女子監獄にある取り調べ室。県長官の李鐘獄と部下の李宗獄が取り調べにあたっている。李宗獄が読み上げる。
「押収した武器は、六連発ピストル一丁、モーゼル九四丁、13連発後込め銃一丁、弾丸6200、前込め銃一丁、馬五頭、ロバ一頭、日記、決起に関すると思われる文書」
秋瑾、無言。
「さて、この学校は何のために建てたのだ。」
「将校を育成するためです。」
「嘘いえ、革命家を育て決起するためだろう。決起を呼びかけた張本人は誰だ?」
「どこに、お前たちの首領がいて、連絡方法はどうつけるんだ、ここにそいつらの名前と連絡方法を書け!」
秋瑾、無言のまま、紙に「秋風秋雨愁殺人」と書く。
李鐘獄が首をかしげる。
「なんだ、これは。どういう意味だ」
李宗獄が思案顔でつぶやく。
「秋風秋雨愁殺人・・・・・」
秋瑾の顔に、ふてぶてしい笑みがひろがるが、無言。
李鐘獄は、そばにいた取調官に「革命軍の名前、所在を聞き出せ。絶対、拷問で衰弱死させてはならぬ」と耳打ちすると、秋瑾の顔をちらっと見て部屋をでていく。
取調官の拷問が始まる。隣の部屋にいる李宗獄の耳に、くぐもった苦痛の叫び声が響く。
残忍な取調官が用意した火煉瓦、火鎖などの拷問具を前にしても、ひるまなかった。
「私は死を恐れない。殺したければ殺せ」
秋瑾はそう叫び、目を閉じ、歯を食いしばって、拷問に耐え、苦痛で苦悶する声以外は、遂に仲間の一人の名前も吐かなかった。痛みのために、汗まみれになり、苦痛を耐えるため歯が折れても拷問に屈しない秋瑾に、取調官が根をあげた。これ以上続けると、衰弱死する危険性があるため、拷問をやめざるをえなかった。取調官から李鐘獄に報告が届く。
「長官、どうしても口をわりません。すでに本人は死を覚悟しているように思います」
「そうか。死刑もやむをえまい」
李宗獄が反論する。
「長官、しかしながら、秋瑾は一人も殺しておりません。確かに政府転覆の計画をたて、武器を隠し持っておりましたが、死刑は重すぎるのではないでしょうか?それに、死刑を行うには、裁判を経て、按察使(県警察長官)から巡撫、巡撫から中央官庁の許可が必要です。さらに死罪には皇帝の認可が必要です」
「わかっておるよ。しかし、お前も知っているように、革命軍は広洲、安慶欽洲、鎮南関で不穏な動きがある。ここ紹興でさえ、恩巡撫殺害事件、そして、ここ太通学堂だ。裁判や上からの許可をとっている間に、仲間が取り返しにくるかもしれん。このまま、秋瑾を生かしておけば、革命軍はいずれ巻き返してくるに違いない。これは重要な案件ではない。恩巡撫殺害事件でも親衛隊が徐錫麟をリンチして殺すという例外的な措置があった。すぐさま死刑を執行せよ。そうすれば、見せしめとなり、革命軍も当分の間はおとなしくなるだろう」
「はい!」
李宗獄、敬礼して部屋を去る
翌日の早朝、李宗獄が拷問で痛めつけられた秋瑾のそばにいる。腕や足の皮膚は、やけどのひきつれで、水ぶくれができ、醜く腫れあがっていた。固まった血が皮膚に、タールのようにこびりつき、皮膚の表面を覆っている。
「秋瑾、夜明け前、四時にお前は死刑を宣告され、執行される」
「そう、やっと革命のために死ねるのね。ただ、一つずうと気にかかっていたことがあったんだけど、今になって、やっとわかったことがあるわ。私は門の前で撃たれて死ぬはずだった。しかし、蔣が私を邪魔した。なぜ、私が拳銃を抜くのを止めたのか、蔣はあなたがたの手先だったのね。どうりで、政府軍が学校を取り囲むのが早いはずだわ。もう少し早く彼の正体を気づくべきだったわ。蔣に会ったら伝えて、私は絶対にお前を許さないと」
李宗獄は黙ってうなずく。
「しかし、何故、女性であるお前が革命ごときに血道をあげるのだ。家庭でおとなしくしていれば、命まで取られることがなかったろうに」
「そうね、あなたも他の人と同じで、国という意識がないのね。もし、国という意識があれば、国を愛するということもできたでしょうに。あなたが私の立場だったら、国が危機にあるとき、何をなさねばならないかが、わかるでしょうけど・・・。中国は私が一番愛している国なのです。たとえ、今は支配者が漢民族ではなくとも、私達の国なのよ。外国から圧力がかかっているのに、封建体質のままの清王朝じゃあこの国を守れそうもない。新しい政府が必要なの。もっと強い王朝ではなく、中国人民が心の底からこの国を守りたいと望むような政府が必要なの。清朝が中国を統治してから三百年、漢人を圧迫し屠殺し、民衆を苦しめ、他の国と戦争しては負け、国土を失ってきている。今や満州までロシアに取られようとしている。外に対しては土地を譲り借金をかせぎ、内に対しては国民を侮辱し罪なき者を虐殺し、憎んでも余りある君主独裁制を続けようとしているではないか!こんな満人の政府なんか、誰が守りたいものですか。むしろ倒すべきです」
李の顔が、困惑にゆがんだ。
「いつか、人々が心から望むような国がきっとできる。この中国が、本当に変わる姿を見ることができないのは残念だけど、その礎となる革命に命を捧げることができて、私は本望よ。あなたがたは、今の政府は変わらないように思っているかもしれないが、新しい政府はいずれやってくる。新政府ができれば、いずれ、私達革命家のほうが正しかったとわかる日がきっとくるわ。私を殺しても、第二、第三の革命を実行する秋瑾がきっと現れるはず」
李瑞年が現れ、死刑執行の時間が来たことを伝える。
「それだけか、他に言い残すことはないか」
秋瑾は毅然として言い放った。
「死刑の前に、これだけは聞き届けてほしい。一つは、家人、親戚、親しい友人に手紙を書かせてほしい。二つ目は、処刑の際は衣服をはぎとらぬこと。三つめは.私の首をさらしものにしないこと」
李瑞年のどうしますかと顔を李宗獄に向けた、李宗獄が答える。
「二つ目の衣服をはぎ取らないことと、三つ目の首をさらしものにしない願いは聞き届けよう。残念ながら、一つ目の家族、親戚、親しい友人に手紙を書く件は、許可できない。おまえたちは、よく暗号を使って意志を伝えることがある。その暗号がおまえの仲間に伝わっては困る」
「わかった。私はすでに死ぬ用意はできている」
毅然と向き直った。
午前3時に山陰県監獄から曳き出された彼女は、県衙門で即刻、罪状が読みあげられ死刑の宣告を受けた。その場で贋造した供述書に力ずくで拇印を押させられた。判決のあと直ちに、秋瑾は足に鎖枷をつけられ、腕は背後に縛り上げられて刑場に向かった。
極度の疲労でよろめく死刑囚秋瑾を支えようとした護送兵に、彼女は一喝した。
「自分で歩く!手出し無用」
古軒亭口の前まで連れて来られると、秋瑾は後ろ手に縛られたまま、その場にひざまずかされた。彼女は覚悟がきまっているかのように、静かに眼を閉じた。彼女の顔は、はるか遠くを夢見ているようだった。夫のもとに預けた二人の子供に思いをはせていたのか、あるいは、やがてくる革命の時代の足音を聞いていたのかもしれない。
死刑執行人の刀が一閃すると、秋瑾の首は胴体から離れた。赤い血潮が切り口から、ほとばしり、首が切り離れても、胴体は生あるもののようにピクピク動き続けた。まるで、秋瑾が読んだ詩、そのまま、胸の熱き血潮が飛び散り、碧色の大波となって革命の波に変わっていくようにも思えた。一腔の熱血、勤めて珍重せん、灑去らば、猶能く碧濤と化す」。〈「この胸の熱き血潮を大切にしよう。(なぜなら、それが)飛び散ったならば、碧色の大波となるからだ」。
秋瑾、三十三歳の生涯を終える。
処刑が済み、兵士がその場を去ってから、友人たちは遺体のそばに近寄れなかった。遺体を取り戻そうとすれば、秋瑾の仲間とみなされ拷問が待っているかもしれない。数日たって、警備もゆるみ、夜間にやっと遺体を回収することができた。
「秋瑾!」
慟哭と、深い悲しみが人々を支配した。同志の一人が叫んだ。秋瑾に太通学堂で避難を呼びかけた王金発もそこにいた。
「秋瑾、俺は絶対やつらを許さない。お前の仇はきっととってやるぞ」
あふれる涙の中、人々の怒りが、静かに広がっていった。
胴体と首を針と糸でつなぎあわせ、納棺した。棺は西湖のほとりまで運ばれ、そこに埋葬されるはずだったが、政府側の追及が厳しく、場所を転々としながら、一革命家の死は、西湖のほとりについに安住の地を得たのは辛亥革命後だった。
秋瑾が斬首されたあとも、李宗獄は、秋風秋雨愁殺人、秋風秋雨愁殺人と繰り返し独り言を言っている。
「秋風秋雨愁殺人と秋瑾が書いた理由はなんだったのだろう。清朝は秋風が吹いている、つまり終末だから、やたら人を殺さなければならなくなるのだともとれる。それとも、支配者たちが人民によって倒される日は遠くないという意味ともとれないこともない。秋風によって足元が寒くなった支配者たちの殺される不安を歌っているとも言えるかもしれない」
さらに、李宗獄が思いつくままつぶやく。
「たしか、日本に留学中に入水自殺した陳天華の『猛回頭』冒頭の詩は、大地は沈淪して幾百秋……だったと思うが、この秋風は、この詩の大地の上を過ぎ去る何百もの秋と関係があるのだろうか。そうか、これは秋瑾の死ぬための決意を表したものだと取るべきなのだろう。これに陳天華の詩を連ねると、秋雨、秋風が吹いて、とうとう私の命も殺されようとしている。大地には何度も秋が来てはすぎさり、狼煙(革命)があがるたびに血が流れる。このことを思い出すたびに心は痛む、いったいどんな人がどんな恥をそそごうとしているのか」
李宗獄の顔が陰鬱にくもる。
「祖国が滅亡の一途をたどっているのに、政治(王朝)は何もできないで、自分たちの利権のことしか考えない。ただ、反政府運動を弾圧するだけである。この国は、一つの国であったことがあったろうか。中国四千年の歴史の間、常に新しい王朝が古い王朝を凌駕してきただけではなかったか。一つの国として、まとまったことなどなかったかもしれない。秋瑾は一つの国と言っていた。この国を支配している清朝も、他国に攻められ、すでに末期的兆候を示している。革命によって造られる新しい国の姿は、彼女の言ったように、一つにまとまった国でなければならない。そう考えると、私は清朝の役人として、職務は完璧に遂行することができたが、同時に、国を本当に思う大事な人を殺してしまったのだろうか」
李の心に、後悔の念が次第に込み上がって来て、耐えようにも耐えられなくなった。翌日、李宗獄は、自責の念に耐えきれず、首をくくり自殺してしまう。
後日、ろくな裁判も開かずに処刑したことが新聞により、報道され避難されるようになった。そして、当局が想像もしないほど大きな反響をひろげた。ちゃんとした供述もなければ、裁判もない。蜂起を計画したといっても未遂であり、彼女は一人として傷つけていない。民衆の怒りに火がつき、もう、だれも革命の波を抑えられなかった。
秋瑾を密告した胡道南は、光復会の最高指導者、陶成章によって暗殺命令がだされ、紹興で彼は裏切り者として殺された。辛亥革命以後、秋瑾を太通学堂から避難させようとした王金発は出世して、紹興に都督として赴任した。秋瑾を密告した紹興の大地主、章介眉を逮捕するが、ある事情のため釈放される。その後、章介眉は袁世凱総督の秘書となり、逆に王金発を殺した。
秋瑾が処刑された一年後には、西太后、光緒帝とも死に、溥儀が宣統帝として即位する。
しかし、清朝の最後の日のカウントダウンはすぐそこまで来ていた。処刑から4年後の1911年には秋瑾が指導し引っ張ってきた仲間たちが決起し、孫文を先頭にして辛亥革命を起こし遂に清王朝を完全に崩壊させて、清朝の時代は終止符を打たれたのである。
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- 壮士ひとたび去って復た還らずー秋瑾の生涯―(2011.08.23)
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