昨年11月に「水からの伝言」に言及しながら 「人文系の「ニセ科学」対策」について書いたところ、当ブログのアクセス数が一時100倍近くにまでふくれ上がる大反響?になってしまった。「水伝」への関心の高さのあらわれなのだろうが、果たして素直に喜んでいいのかどうか……と思っていたら、今度は朝日新聞文化欄(昨年12月11日付夕刊)の稲葉振一郎「ブログ解読」に、「水伝」とのからみで少しだけ紹介されてしまった。「水伝」はダシに使っただけなのに、このような扱いをされたことには正直困惑したが、幸い仕事に支障を来すほどの大騒ぎにはならずにすんだ。
それでも行きがかり上、「水伝」に科学としてではなく道徳的な「お話」としての価値はあるのかという問題については一言しておかなければなるまい。この問題についても既にあちこちで言われているので、今さらという感もあるが、先日書いた 「神話伝説やオカルトは事実でなくてもお話としての価値がある」ということについて「そうか、『水伝』もたとえ事実でなくても、いい言葉を使うことを勧めているし、お話としての価値はあるのだ」などと早合点されては困るので、一応書いておくことにする。
■芸術の価値は科学的現象でわかるか
「水伝」の作者江本勝氏自身も「これはファンタジーであり、ポエムである」と言っている。「科学ではないお話なのだから堅いこと言わなくてもいいじゃない」というわけだが、その「水伝」で主張しているのは、「言語や音楽などの芸術の価値を科学的な現象に還元できる」ということである。それが果たして「お話」としての価値を持ちうるのだろうか。
たとえばルーブル美術館にある「モナリザ」も、三文画家の描いた油絵も、化学の立場に立てば、どちらも
油と顔料の混合物が布の上に塗られ、油が酸化して硬化し、顔料が布に固着した物体
である。その一方が傑作とされ、もう一方が駄作とされる理由を説明するのに、 絵の具やキャンバスの化学的組成の違いを云々してみても、全くナンセンスであることは言うまでもない。
布に固着した油絵の具に過ぎない油絵も、人間の目を通して見れば、そこに単なる物体以上のものを見出すことができる。それは無限の微笑であったり、心の底からの叫びであったり、澄みきった湖であったりする。これは人間の精神の作用であって、化学や物理の法則で説明できるものではない。
しかし人文科学の一分野である心理学は、動物や人間を使って実験したり、カウンセリング治療の経験を積み重ねたりして、こうした精神の働きにもいろいろな法則を見出そうとする。また美学では古今の文献を渉猟することにより、人々が美をどのようにとらえていたか、どんなものを美と呼んだのか、美が文化にどんな影響を与えたのかを追究しようとする。人文科学はいわば「人の精神の働きを科学する学問」 なのであり、それは自然科学とは別の範疇で論じられるべきものである。
ところが「モナリザ」が傑作である理由を、あくまで絵の具やキャンバスという物体に求めようとするとどうなるだろうか。まず考えられるのが、絵の具の組み合わせや位置に法則性を見つけようとする試みである。しかしこれはうまくいかないであろう。たとえ「モナリザ」と同じ絵の具を使い、同じような構図と色づかいで模写したとしても、贋作はダヴィンチを簡単には超えられないし、反対に「モナリザ」を撮影した写真や、その写真を掲載した書物は、実物の「モナリザ」とは物体の組成が全く違うのに、実物同様に人々を感動させられるのである。
(名画をパーツに分けて、その位置関係をコンピューターで分析し、 そこに一定の法則を見出そうとする計量分析的手法も試みられているが、それでわかるのはたとえば 「美人画は北斎と広重と歌麿ではそれぞれ異なった一定のパターンがある」といったことであって、 「どんなパターンで描けば名作ができるのか」といったことがわかるわけではない。)
ところが実はもっと簡単な説明のしかたがある。
「名画からは名画特有の良い波動が出ています。 それは画家の清らかな心から乗り移ったものです。人はその波動と共振することによって感動し、心が清められるのです。 それに対して駄作からは悪い波動が出ているので、人は嫌悪感を抱くのです。 駄作しか描けないのは心が曲がっていて悪い波動が出ているからです。 この波動は従来の科学では見えない、未知のエネルギーなのです。」
この「波動」は「オーラ」に変えてもよい。これならどんな芸術の良し悪しも説明できそうに見えるであろう。「科学と精神活動を結合させた画期的な理論」だと飛びつく人もいるかもしれない。しかしこれには重大な落とし穴が潜んでいるのである。
上の説明では名画から良い波動が出るということはわかるが、では結局良い波動と悪い波動をどう見分ければよいのかとなると、これではさっぱりわからない。第一名画を残した画家がすべて「清らかな心」の持ち主とは限らないし(ヒトラーも絵は上手であったし、妻子を捨ててタヒチに出奔したゴーギャンの心の良し悪しははどう評価すればよいのか)、 立派な心の持ち主でも絵が下手な人はいくらでもいる。それに谷岡ヤスジの漫画は名画とは比較にならないひどい絵だが、それでも高く評価されているではないか。
そしてもう一つの落とし穴は、もし名画から良い波動が出て、それが見る人の心に共振するのならば、 「名画を見て感動しない人」は「悪い心の持ち主」ということになりはしないかという危惧である。ピカソやダリの絵が嫌いだという人は「心が曲がっている」のだろうか。岸田劉生の描いた麗子像を4コマ漫画のブスキャラクターに流用した漫画家はどうなるのか。江戸時代の春画に至っては、「正視に堪えない」という人と「情欲に満ちた女の表情はまさに芸術だ」という人とどちらが「心が清い」といえるのか。
たとえ名画といえども、万人が皆それをすばらしいと思うわけではない。嫌いな人もいて当然であるし、絵を理解しない人はそれにもまして多い。名画の名画たるゆえんを「波動」のような即物的な要素に還元しようとすれば、 誰もが同じようにそれに反応しなければおかしいという「価値観の押しつけ」になってしまうのである。小室哲哉がその絶頂期に「僕の歌をまだ聴こうとしない不思議な人がいる」などと豪語していたのを新聞で読んだ記憶があるが、その結果「不思議な人」がいなくなったかどうかは今さら言うまでもないだろう。この一言でアンチ小室になった人も相当いると私は見ている。「小室の歌を聴かなければ変人である」などと、当の小室に勝手に決めつけられては、「あんた何様?」と言いたくもなるであろう。芸術の好みという「内心の自由」にまでずかずか踏み込んでくるという点では、「名画波動説」もこれと同じなのである。
かくて「名画波動説」はいとも簡単に破綻してしまったわけだが、結局のところ「良い」と「悪い」、「心が清らか」と「心が曲っている」というように、 単純な二分法で芸術を説明できると思い込んでいることに問題があるといえる。 人間の精神や文化活動とは、白か黒かで割り切れるほど単純なものではない。 波動やオーラという概念を持ち込んでみたところで、芸術をまともに評価することはできないばかりか、芸術を冒涜することにさえなってしまうのである。
■「水伝」の限界
私が何を言いたいかはもうそろそろおわかりのことであろう。「水伝」もこの「名画波動説」と五十歩百歩なのであって、水を使えば波動の良し悪しがわかると言うのが少々目新しいだけのことである。しかし江本氏の主張によれば、絵画でも音楽でも文学でも、 水でわかるのは「良いか悪いか」だけである。それがすばらしいことなのだとしたら、芸術とは何と貧困なものなのであろうか。芸術家も研究者も評論家も全くなめられたものである。
芸術作品を評価するとは、単に良いか悪いかを決めることではない。 その作品を通じてどんなことが読み取れるのか、それが人々にどのような感動をもたらすのかを、持てる教養を総動員して言語化することである。たとえ水の働きがどんなにすばらしくても、水にそこまでやってくれることを求めるのは誰が見てもナンセンスであろう。
同じように言葉も単語だけ取り出して「良いか悪いか」を決めて事足れりとするのでは、まともに評価したことにはならない。 言葉はそれが発せられた文脈の中で初めて意味や価値を持つのであり、文脈を読み取らなければ何も始まらないのである。
たとえば「言語」という言葉はそれ自体はプラスでもマイナスでもなく、全く無価値である。しかし口下手な人や吃音癖のある人に向かって、悪意に満ちた表情や態度でこの言葉を投げつければ、人を傷つけることができる「悪い言葉」となる。「口下手な人や吃音癖のある人に向かって」「悪意に満ちた表情や態度」という「文脈」があって初めて「悪い」という価値が生じるのであって、「言語という言葉は差別語ではないのだからいいじゃないか」と開き直っても、それはクソガキの減らず口にすぎない。
これを踏まえた上で、江本氏の主張するように水が言語の良し悪しを見分けると仮定して、もし「言語」と書いたラベルを貼った水を凍らせたとしたら、さてどんな結果が出るのだろうか。考えられる可能性は次の二つである。
(1)何の文脈もない単語のレベルでなら「言語」は無価値なのだから、水は何の反応もしない。
(2)どんな文脈で使われたのかも水が判断してくれるので、もし悪意ある使い方をしていたのなら汚い結晶ができるし、 人をほめる文の中で使えば美しい結晶ができる。
江本氏の主張に従うなら、(2)はあり得ないであろう。なぜなら「ありがとう」なら常に美しい結晶ができるというのが「水伝」の売りなのであり、場合によって結晶が美しくなったり汚くなったりするのでは、「水伝」の売り自体が意味を成さなくなってしまうからである。
以上の思考実験から、水は文脈までは判断してくれないと考えざるを得ないのであって、 言語の価値判断装置としては極めてお粗末であるといえるであろう。だが「文学作品は美しい言葉を使うからすぐれた作品になるのだ。水が一つ一つの言葉の美しさを判断できるなら、作品という文脈全体の美しさも判断できるのではないか」という人もいるかもしれない。
そういう人には開高健『日本三文オペラ』を読んでいただきたい。戦後十年を経た大阪の、砲兵工廠跡地に夜ごと出撃する鉄屑さらい達を描いたこの小説の、これでもかと次々に繰り出される、汚穢にまみれた描写にはきっと胸が悪くなってくることであろう。しかしこの小説は「汚らしいから悪い小説」なのでは断じてない。どん底の世界に生きる人々の、掃きだめのような汚濁の中でうごめく凄まじいまでの生命力、そして彼らの一糸乱れぬ団結と温かい心のつながり。そこにはまぎれもない「美」がある。汚らしい言葉の数々に顔をしかめながらも、読み終わったら不思議な爽快感が残るのである。これこそがコップ一杯の「水」なんかには逆立ちしてもわかるわけのない、芸術の奥深さである。
■価値判断を「水」任せにする危うさ
「水」のメッセージに感動して「ありがとう」を言うようにしよう、というのは、それだけを見れば悪い話ではないようにも見える。日本の昔話には「正直者が善行をしていい目にあい、心のよこしまな者がそれをまねしてひどい目にあう」という勧善懲悪型の物語が多いし、テレビドラマの「水戸黄門」が「偉大なるマンネリ」と言われながらも高い人気を誇っていることからもわかるように、現代の日本人も勧善懲悪ものが好きであることには変わりがない。「水伝」が学校現場にまで広がったのも、勧善懲悪の要素を多分に含んでいることがその原因の一つに数えられよう。
しかし他人に対してする行動が善行かどうかは、その「文脈」全体を見なければ判断できないことである。たとえば「百万本のバラを贈る」という行為も、それだけでは善し悪しは判断できない。
死ぬ前にバラを一目見たいと願っている病床の少女に、その肉親なり恋人なりがなけなしの金をはたいて贈った。
というのであれば立派な行為だが、
ある女性につきまとい続けている男性が、その女性を振り向かせるために贈った。
のであれば、女性にとってはほとんどの場合単なる迷惑であろう。現代の日本なら確実にストーカー防止法違反でしょっ引かれることになる。だが女性がそのような一途さにほだされてしまうことも、万に一つくらいはないわけでもないのだから(そうでなければドラマ「101回目のプロポーズ」も生まれてこない)、 人間関係における善悪の判断とはことほど左様に難しいのであり、それこそが恋愛や友情の機微なのである。そしてこのような機微こそが芸術の源なのである。
浮気は悪いことというのが現代日本の社会通念である。それにもかかわらず、中河与一の『天の夕顔』が傑作とされ(個人的にも不倫を濡れ場なしでこれほど美しく描ききった小説はないと思う)、渡辺淳一の『失楽園』や『愛の流刑地』があれほど好評を博したのはいったいどうしてか。「水」に小一時間問い詰めたところで答えはわかるまい。「浮気は悪だから浮気を描いた文学も悪。お水さんに聞いたらきっと汚い結晶を見せてくれるよ」という人もいるだろうが、それなら恋愛文学が「堕落したブルジョアの文学」「時局に合わない軟弱文学」として容赦なく弾圧された、文革期の中国や戦時中の日本こそが、きっと彼らにとってのユートピアに違いない。
「水」が教えてくれる上っ面の「善悪」だけで芸術の価値を判断しようとすれば、芸術そのものを破壊することになりかねない。
だとすると、言葉や芸術の良し悪しが「水」でわかってしまうと早とちりするのは、やはり得なことではないだろう。どんな芸術作品に接しても、その「機微」に触れることなく、うわべだけで良し悪しを決めつけてしまい、薄っぺらい感動しか味わえなくなってしまうからである。まして人の言葉の片言隻句を取り出して、文脈を無視して「良し悪し」を決めつけようとするのでは、 人の言うことを曲解したり、いじめの口実に使ったりすることにもなりかねない。もしどこぞの宰相が憲法前文の上に乗せた水を凍らせて、「ちっとも美しくない」結晶を選び出して「ほら見ろ、憲法前文なんて悪い言葉でいっぱいだ。水も憲法を変えろとメッセージを送っているんだぞ」などと言い立てたら、「水伝」を信じる人はホイホイと同調するのだろうか。
(護憲派の人が同様の実験をして、「美しい」結晶だけ選んで「憲法前文はこんなにすばらしいのだ」 と主張したとしても同じことである。憲法の是非の判断を水に任せてしまうのが良くないのであって、 憲法改正に賛成することの是非を問題にしているのではない。もっとも法規の条文に芸術的価値など始めから求められていないのに、 美醜で憲法の是非を論じようとすること自体が既にナンセンスであるが。)
もう一度言う。江本氏の言う「水」は、芸術の価値を判断する装置としては、あまりにもお粗末である。人文科学の立場から見ても、このようなものに頼ったとて有益な発見など到底あり得ないし、「お話」としても三文小説以下の薄っぺらい駄作である。本気で「いい言葉」や「いい音楽」をわかるようになりたいのなら、もっとすぐれた作品を、 水任せではなく自分の心で味わってほしい。同じ「水からの伝言」というなら、『老子』の次の言葉の方が、よほど深いメッセージを含んでいると思うのだが。
上善若水。水善利萬物而不爭、處衆人之所惡、故幾于道。
上善は水の若(ごと)し。水は善く万物を利して争わず、 衆人の悪(にく)む所に居る、故に道に幾(ちか)し。
――最上の善とは水のようなものだ。水は万物に恵みをもたらしながら名利を争うこともなく、人々の嫌がる低湿地に集まっている。 だから水は「道(万物の根源)」に近い存在なのだ。
(これはあくまで「哲学」「処世訓」としてのたとえ話である。自然科学上の水の諸現象に結びつけるべき話ではない。野暮は承知で念のため。)
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