今年度から科研費による研究プロジェクトを2つ抱えることになり、ブログを研究活動の広報用とその他とに分離する必要が出てきました。そのため当ブログを分割の上移転することといたします。
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]]>大学院生向けの論文指南の名著・酒井聡樹『これから論文を書く若者のために』(共立出版、 2002年)に、こんな一節がある。
ではなぜ(自費出版やHP上の論文は)研究成果として認められないのか。それは、 価値の無い論文が氾濫することを防ぐためである。誰でも好き勝手に論文を発表できるのならば、 中身のない論文や独りよがりの論文が世界中にあふれてしまう。これでは、価値のある論文を見つけ出すのが大変である。時間は有限、 貴重な時間を費やして、ゴミの山を調べる暇など無いのだ。
学術雑誌に掲載されていること。それは、その学術雑誌の編集部が、 その論文の価値を保証しているということであり、研究成果として認めているということである。 私たちは、編集部のお墨付きを信用して、限られた読書時間の一部をその論文を読むことにあてる。もちろん、 学術雑誌に掲載されている論文すべてが、本当に価値のあるものとは限らない。真の価値判断は、読者自身が行うべきものだ。 本審査の前の予備選考を学術雑誌の編集部に任せているといった方がよい。(pp.14-15。赤字の強調は筆者、 黒字の強調は原文による。)
「ゴミの山とは何だ! 大学はこんな偏見を学生に植え付けているのか!」と怒りに震えている自称「研究家」もいることであろう。しかし残念ながら、これが大方の研究者の認識なのである。酒井氏や私に怒っても仕方がない。
ここで立場を逆にして考えてみよう。たとえばあなたがルイ・ヴィトンのバッグや財布を買いたいとする。どこへ買いに行くだろうか。
ほとんどの人は1を選ぶであろう。正規店で売っているのはまず間違いなく本物であり、値は張ってもそれを上回る安心が得られるからである。
2を選んだ人は「ひょっとしたら掘り出し物を安く買えるかも知れない」と期待しているのだろうが、骨折り損のくたびれもうけに加えて、安物買いの銭失いになる可能性大である。どこにあるともわからない露店を探し回るのも時間の無駄だし、運良く見つかったとしても、店の素性もわからなければ、売っているものが本物かどうかも極めて怪しいのだから。恋人に「露店で見つけた掘り出し物だよ」と言ってヴィトンをプレゼントするのは、ほぼ間違いなくふられることになるのでやめた方がよい。
ではあなたが質のよい論文を探そうとすればどこを見ればよいだろうか。もうおわかりであろう。学術雑誌、または定評のある学術出版社から出版された専門書を見るのが、最も確実にして効率のよい方法だということを。自費出版本やHPに注目してくれ、信用してくれというのは、あたかも露店で売っているバッグの山から本物のヴィトンを探してくれと要求するようなものなのである。そんなことをしなくても、ヴィトンの正規店へ行けば確実かつ効率よく本物を買えるのだから、本物をほしがる人がそちらへ行くのは理の当然であろう。
ところで酒井氏も「学術雑誌に掲載されている論文すべてが、本当に価値のあるものとは限らない。 真の価値判断は、読者自身が行うべきものだ」と書いている。学術雑誌や専門書を見ても、ババをつかんでしまうことも稀にはある。すると勢いづいて「だから自費出版本もちゃんと見ろと言っているのだ」と言う慌て者が必ず出てくるが、残念ながらそういう理屈は成り立たない。たとえババをつかむごくわずかな危険性があっても、学術出版でよい論文を探す方が、自費出版本でよい論文を探すよりも時間を無駄にしないことには変わりないのだから。
専門家も常に正しいとは限らない。酒井氏は謙虚にそれを認めている(もちろん私も認めている)。しかしそれは 「素人が常に正しい」ことを意味するのではない。素人も常に正しいとは限らないし、しかも専門家より間違う確率は高い。「専門バカにもなれないのはただのバカだ」という数学者・小平邦彦の名セリフもある。これを忘れてしまうと、酒井氏のこの文の趣旨も我田引水に読み誤ってしまうことになるだろう。
]]>海外ツアーの添乗員にとって一番厄介な客は、西も東もわからない初めての客ではなく、ある程度海外旅行の経験がある客だという。なぜなら彼らはもうその国をわかったつもりになっているので、添乗員の言うことを聞かずに勝手な行動を取り、結果とんでもない事故を起こして大迷惑をもたらすからである。初めての客の方が、勝手がわからないだけにかえって素直に言うことを聞いてくれるのである。
たとえばこんな例がある。香港ツアーに参加した客の中に、香港が初めてではない数人のグループがいて、彼らは「自分たちはもう勝手がわかっている。今日はマカオに日帰りしてくるぞ」と言って、添乗員が止めるのも聞かずに勝手に出かけてしまった。ところが待てど暮らせど帰ってこない。翌日やっと連絡が入って言うには、「澳門(マカオ)」と間違えて、30時間かかる中国行き(恐らく福建省の「厦門(アモイ)」行きであろう)の船に乗ってしまい、中国のビザがないため上陸できず(当時は中国へ入国するには必ずビザが必要だった)強制送還される羽目になったとのことであった(『地球の歩き方 旅のトラブル&安全対策inアジア』1993年、pp146)。生兵法で大けがをする見本である。
中高年登山で事故が多いのも、なまじ若い頃に登山の経験があるだけに、山をわかったつもりになっているのに加えて、体力の衰えも考慮せずに無理をしがちだからという。
何をやるにしても、ある程度経験を積んでわかってくれば楽しくなる。しかしそこが落とし穴でもある。少しわかっただけなのに、すべて知り尽くしたつもりになってしまうと、そこは地獄の一丁目なのである。
学問も同じで、ある程度学ぶとだんだん楽しくなってくる。それは結構なことではあるが、人が知らないことを自分は学んでわかるようになったという優越感にはまってしまうと危ない。それは「自分だけがこんなすばらしい知識を得た。まだ知らない人にもどんどん教えてやらないと」という心理へと容易に転化してしまうのである。その結果興味がない人にまで無理やり「御進講」を聞かせようとしたり、我こそは一番の物知りだとばかりに振る舞おうとしたりして、結局人々にうっとうしがられることになる。するとますます「真理を知ろうともしない下司どもめ」と周囲を軽蔑し憎悪するようになり、さらにうっとうしがられ浮いてしまう……という悪循環に陥りかねない。
何を隠そう私自身も若い頃はそういうところがあった。だから今になってそのような人を見かけるたびに、何ともいたたまれない気持ちになる。過日も(といってももう1年以上過ぎてしまったが)ある席で、そうと思しき人に出くわしてしまったことがある。詳細を記すのは遠慮するが、ひたすら人の言葉尻をとらえては突っかかり、自分の方がよほどものを知っている、お前らは何もわかってない、と言わんばかりに、満座が白けきっているのも構わず口角泡を飛ばしまくっていた。この種の人は相手をすれば不毛なケンカになるのは必定だから、「はいはい、あんたが大将、大将」と(口には出さずに)受け流すに限るが、受け流したとて決して後味のいいものではない。
こういう時に思い出されるのは、仏教で言う「生悟り」という言葉である。少しばかり修行して、それで仏法を悟り得たかのように錯覚している状態のことである。仏門に入った初めの頃には誰もが通る道であり、その段階を乗り越えて、初めて本当の修行が始まるのだという。もし「生悟り」から抜け出せなければ、「せっかく悟り得た真理を誰も知ろうとしない」と、ますます傲慢になって世を恨むようになってしまうのだから、これでは何のために俗塵を逃れて出家したのかわからない。誠にもって恐ろしいものである。
学問を志して大学院に入れば、満を持して用意した発表を先輩や先生にさんざん叩きのめされるという経験を繰り返すことになる。学会発表でデビューを果たしても、虫の居所が悪い老大家に捕まってしまうと、大勢の聴衆の前で容赦なく叱りとばされる羽目になることもある。研究者となっても、論文を発表して大反響を呼ぶことなどそう滅多にあることではないから、いやが応でも「自分がどれほどのものか」ということを思い知らされるのである。そういう経験を積んでこなかった自称研究家は、「生悟り」から抜け出せなくなる危険性が数倍高いことを心した方が安全であろうと思う。「そういうお前もまだまだ生悟りだ」と顔をしかめている老大家の先生方もきっとおられることだろうから、本来なら他人のことなどとやかく言えた義理ではないけれども、あえて言い訳させていただけば、「生悟りかもしれない」という恐れを常に抱いているだけでも、根拠のない自信に満ちあふれているよりはいくらかましであろうと思う。
「偉大な先人の業績には敬意を払え」などと言うと、自称「研究家」はすぐに鼻白むが、それは「生悟り」に陥らないための世間知だと考えれば、とかく権威に反発しがちな人にも納得がいくのではないだろうか。何もすべて唯々諾々と従えというのではなく、自分だけが知り得た、悟り得たという思い上がりを戒めるということである。
]]>先のエントリー「そんなら、客でいたまえよ」は、自分でも公開をかなりためらった記事でもあり(過激すぎてお蔵入りにしたままの記事もいくつかある)、案の定いろいろな方からのコメントをいただいた。傾聴に値する意見ももちろんあったのだが、その一方で「ネット一言居士」に類するようなコメントもまたあった。何も反対意見だから「一言居士」と切り捨てるというわけではなく、「建設的な内容がない」「まじめに返事しても不毛なケンカになりかねない」という意味でこう呼んでいるだけである。
本来ならこの種のコメントは無視してすませたいところだが、「アルファブロガー大賞」にリンクされるという大変困った事態になってしまったので、放置しておくと勘違い君がさらに群がってくる恐れがある。そこで気が進まないながらも一応まじめに返事しておくことにしたい。
■幼稚な比喩
では手始めに、別のエントリー「水に芸術はわからない」についた「たむたむ」氏のコメントから。ちなみに彼の正体はネット上では札付きの困ったちゃん「ふま」で、まとめサイトまでできているので、詳しくはそちらを御覧いただきたい。
>科学による偽似科学攻撃は、警察が自分を擬態するガードマンをいじめるようなものでは?
あのですね、ガードマンが警察官を装って、警察そっくりの制服や制帽を身につけたら、軽犯罪法第1条15項に規定する官名詐称になるんですけど。
第1条 左の各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処する。
15.官公職、位階勲等、学位その他法令により定められた称号若しくは外国におけるこれらに準ずるものを詐称し、又は資格がないのにかかわらず、法令により定められた制服若しくは勲章、記章その他の標章若しくはこれらに似せて作つた物を用いた者
従って「警察を擬態するガードマン(こういう文脈で「擬態」という言葉は普通使わないと思うが)」がいたとしたら、警察官が彼に任意同行を求めたり逮捕したりするのは、いじめでも何でもなく、法に基づいた当然の職務である。それをしない方が職務怠慢で非難されることになるだろう。だからガードマンの制服は、一見して警察の制服とは違うとわかるように作られているのであって、それを「警察を擬態する」と言うのは無理がある。
たむたむ氏はまさか「科学による偽似(って何?たぶん「疑似」または「擬似」なのだろうけれど)科学攻撃」は正当な職権の行使だと言いたいわけではあるまい。幼稚な比喩のおかげで、何を言いたいのか訳がわからない文になってしまっている。
警察官でない者が警察のふりをしたら犯罪になることくらい、小学生でも知っていそうな常識だと思っていたのだが。せいぜい「ふま」君自身が逮捕されないことを祈ろう。
■もう見飽きた
では次に「山伏」氏のコメント。
>--------
il||li _| ̄|○ il||li
考古学や日本史では、
確かに、素人で変なの多いよね
ただ、学者の方がどうなのよって部分もある>三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡なんてでたらめを
教室の伝統なので京大系主流派は手放さない>大野晋が素人の論文を剽窃した日本語ドラビタ語説しかり
>梅原猛の法隆寺や聖徳太子への思いつきの言及もそう
>こういう脇の甘いことしているから
東北の遺跡捏造事件も看破できなかった>以前、ねぶたから坂上田村麻呂が追放された
このとき、学者の方から出るべき批評
はたして東北人はアイヌの末裔なのか
田村麻呂の軍勢の子孫かもしれないし
田村麻呂に加勢した地元勢力かもしれない
そんな発言はなく全くがっかりした>学者は卓越した学識を持ち
それを社会に還元してれば
自然と尊敬を受ける>素人の方は
こんな学会だから
この分野の学者をなめてるんじゃないかな
まず冒頭の「 il||li _| ̄|○ il||li」。これだけでまじめに返事する気がうせる。建設的な議論をするつもりなど最初からなく、単に罵倒して憂さ晴らしをするためだけに書き込んだことは、誰の目にも一目瞭然であろう。
「2ちゃんねるへお帰り下さい」。本来ならこれだけですませたいところだが、そうすると勘違い君がさらに群がってくる恐れがあるので、一応まじめにおつきあいすることにする。
さていろいろと「いい加減な学者」の例を挙げてくれているが、それらがすべて山伏氏の言うとおりだと仮定して話を進める。もちろん異論はあるだろう。それらはみな何の根拠も挙げていないのだから。しかしここでそれらにいちいち立ち入っていては話が混乱するだけなので、あえて検討はしないことにする。
それらの例を挙げれば「学者は素人より劣っている」ことの証明になると、山伏氏は思っているらしい。だが結論から言えば、この手の罵倒は
もう見飽きた。
この一言に尽きる。2ちゃんねるあたりでごまんと見かける陰口を今更並べたところで、「またイタイのが来たか」と憐憫の目をちらりと向けられて終わりである。しかも残念なことに、たとえ山伏氏の挙げた例が正しかったとしても、この議論は論理上二重に誤謬を犯していることになるのである。
多くの例を挙げて、そこから普遍的な結論を引き出す論証は帰納法と呼ばれる。しかし帰納による論証は、例を適切に選ばなければ詭弁になってしまうことに注意しなければならない。
一例を挙げると、
A イチローは三振をしたことがある。松井秀喜も三振をしたことがある。新庄も三振をしたことがある。
故に野球選手は誰でも三振はする。B イチローは三振をしたことがある。松井秀喜も三振をしたことがある。新庄も三振をしたことがある。
故に野球選手は野球が下手である。
どちらの論証も帰納法を用いている。イチローや松井や新庄のような名選手でも三振はする以上、普通の選手は彼らより野球が下手であろうという暗黙の了解がある限り、Aの論証は妥当であるといえる。
ところが同じ帰納法を用いていても、Bの論証には首をかしげる人がほとんどであろう。どこがおかしいのだろうか。
帰納法で用いる例は、典型的な例を集めなければ、妥当な結論を導くことができない。もっとわかりやすく言えば「推して知るべし」が成り立つと誰もが認めるような例を持ってこなければならないということである。
Aの場合は、「野球選手は誰でも三振はする」ことを論証したいのだから、「名選手でも三振をする」という例を持ってくれば、それを典型的な例として帰納することができる。ところがBの場合は、「野球選手は野球が下手である」ことを論証したいのだから、単に「名選手でも三振をする」例を持ってくるだけでは「推して知るべし」は成り立たない。普通に考えれば「素人はもっと三振をする」のだから。「野球選手は野球が下手」という結論を導くには、「素人以上に三振ばかりしている名選手」や「名選手以上に三振しない素人」の例を、典型例となるに足る十分な数だけ集めなければならないのであり、それは現実にはまず無理だと誰もが認めることであろう。
これを山伏氏の論証に当てはめてみると、まず「学者もいい加減なことを言う」という例だけをいくら並べても、「学者は素人より劣る」という証明にならないのはもうおわかりであろう。山伏氏が「いい加減」と認めた例に数倍する、多くの人が認める立派な業績が、古今東西の学者によって山と積み重ねられてきているのだから。
さらに山伏氏が「いい加減」と認めた学者たちについても、その全業績とまでは言わずとも、最低限主要な業績を十分な数だけ検討して、それらの大半が「いい加減」であると認められない限りは、「学者は素人より劣る」という結論を導く例としては使えない。梅原猛の晩年の歴史小説が仮にトンデモだったとしても、それ以前の哲学者としての仕事まで否定する根拠にはならないし、大野晋の日本語=タミル語説が仮にトンデモだったとしても、その他の仕事まで自動的にトンデモと決まる理由はない。
つまり山伏氏は典型的でない例だけで帰納する「早まった一般化」の誤謬を、学者全体に対してと、個別の学者一人一人の業績に対してと、両方にわたって犯しているのであり、それは在日コリアンの犯罪者の名前を並べて「朝鮮人は犯罪者」と言い立てる2ちゃんねらーの低劣な書き込みと全く同じレベルの、取るに足らない詭弁である。最初に「2ちゃんねるへ帰れ」と言った意味はここにもある。
……とここまでは山伏氏の文章も何とか意味が取れるのだが、その先の
>以前、ねぶたから坂上田村麻呂が追放された
このとき、学者の方から出るべき批評
はたして東北人はアイヌの末裔なのか
田村麻呂の軍勢の子孫かもしれないし
田村麻呂に加勢した地元勢力かもしれない
そんな発言はなく全くがっかりした
というくだりは、いったい何を言いたいのやらさっぱり要領を得ない。青森県人以外でこの文の意味がわかる人が果たしてどれくらいいるだろうか。学生のレポートなら容赦なく不可をつける、悪文の見本帳に収めてよい文だが、そこを何とか見当を付けてみるに、「ねぶたと田村麻呂は関係があると言ってくれない学者は悪い奴だ」と言いたいらしい。
これまた悪罵を投げつけて来る人のおきまりのパターンで、結局は自説(あるいは自分が支持する説)を認めてほしいというだけの話である。だがそれはちょうど
イチローは三振をしたことがある。松井秀喜も三振をしたことがある。新庄も三振をしたことがある。故に自分は野球が上手である。
と言っているに等しいということはもうおわかりであろう。そんな聞き飽きた御託に耳を貸す研究者はまずいないと言ってよい。
第一私は青森とは縁もゆかりもないし(ついでに言うと大野晋とも縁もゆかりもない)、ねぶたも田村麻呂も私の専門とはほとんど関係ないから、たいして関心もない。よってこの問題についてこれ以上かかわる気はない。文句があるならお門違いの私にではなく、「坂上田村麻呂を追放」した、あるいは「出るべき批評」とやらをしなかった当事者に言ってもらいたい。それも御託を並べるのではなく、きっちり根拠を挙げて論証することである。
ところで山伏氏の結論らしき最後のくだり
>学者は卓越した学識を持ち
それを社会に還元してれば
自然と尊敬を受ける
これは彼のコメント中唯一の、至極まっとうな話である。拳々服膺しなければならない。だから私も本文中にちゃんと
その代わり「客」を満足させられるだけのレベルの研究を提供できるよう、日々研鑽を積んでいるわけである。
と書いている。山伏氏が自分に都合の悪い記述は読まずに、脊髄反射で八つ当たりしているだけなのは、もう疑う余地はない。八つ当たりにこれ以上まじめにつき合うのは謹んで御免こうむる。
(誤解のないよう附言すると、「客を満足させる」とは、「リクエスト通りの答えを出す」という意味ではなく、「誰もが納得できるよう確かな根拠と論理に支えられた説を提供する」という意味である。山伏氏はどうやら「学問は必ずしも思い通りの答えを出してくれるとは限らない」という、単純にして冷酷な事実を忘れているらしい。)
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当ブログは長い間放置状態になっていましたが、本来業務に追われるうちに精神的な余裕がなくなっていて、再開のタイミングを計りかねているうちにどうにも気が向かなくなってしまったというのが正直なところです。
ところが卒論試問のために大量の卒論をひいひい言いながら読んでいるさなかに、知人の某アルファブロガーが、放置状態の記事をわざわざアルファブロガー大賞に推薦するという、有難迷惑ないことをしてくれたおかげで、このままフェイドアウトしてしまうのもままならない状態になってしまいました。
ということで数日のうちにコメント等の対処を再開したいと思いますので、今しばらくお待ち下さい。
なお私はアルファブロガーとやらには大して興味はありませんし、そんなものになったら余計に仕事に障りますので、投票はなるべくしないようにお願いします。ノミネートされただけでもう十分です。
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