▼先日、静岡の亡父の弟が、最後だと覚悟して地元に帰省してきた。
コロナが流行ろうとしていた頃。 叔父が最後に一度、墓参りをしたい、地元に帰りたいと言ってきたらしく、そのついでに「従兄弟会」(わたしの従兄弟たち)をしようという話が出ていた。
わたしも姉もそういうのに興味ないのでどうでもよかった。
でも、コロナがどうなのかわからないので困っていた頃。
医者をしている従兄弟に「あんた、医者だから判断してよ」となすりつけ。
すると「何かあるといけないから中止」ということで中止。
あれ以来。
▼よその一族はよく知らないけど、うちの地元にいると「従兄弟会があるから」という話をよく聞いていた。 それは郡部の方が多く、農業などの互いの手伝いもあるので普段から仲良くしている、という意味合いもあるらしいとか。
わたしは完全に核家族なのでそういうのを知らない。
叔父とか叔母、生涯で数えるほどしか会ってない。 でも、行けば歓待してくれるので子供心には嬉しかった。
この静岡の叔父も数えるほどしか会ったことがない。
▼叔父は、父のすぐ下の弟で、時代的にもう戦後を考えていたかもしれない。 横浜国大に進み静岡で長いこと教員をしていたので地元にはほとんどいない。 叔父も核家族。
うちが東京に住んでた頃、父の運転でこの静岡の叔父のところに行った… らしい。 写真が残っている。
富士が白黒でも綺麗。 まだ何もない時代。
従姉妹の小さい「みなちゃん」がいた。
それから、大阪から姉と二人で静岡に遊びに行ったことが。 どういうくんだりでそうなったかは知らない。
その時は、一番下の叔父が静岡大を卒業して就職して結婚、子供が生まれたばかりだった。 叔父さん二人が姉とわたしを色々案内してくれた。
叔父の運転で富士の5合目まで行った。 風穴、氷穴が面白かった。
赤ん坊を抱えた叔母さんが、新幹線の駅前でピザを食べさせてくれネックレスを買ってくれた。 ピザを初めて食べた。
▼親戚というのは長く会わなくても、会えばすぐ話が弾むのは血が繋がっているからか、は知らない。
この叔父二人は見事に真っ赤っか。 日教組の赤。 会社の組合の赤。 どっちも赤旗を取っていた。
兄(わたしの父)はお国のために頑張ろうとして海軍兵学校にいったのにね… 時代か。
赤が嫌いでも叔父となればそれはそれ。
実家のリビングでワイワイ昔話に花が咲いて「叔父さん、赤旗取ってたでしょ。きゃーー」 と言ってしまったけど。 いつか下の叔父に「なんで赤旗?赤がいいと思ったの?」と聞いてみたい。
一番下の叔父は労組をやりすぎて会社に居られず、地元に帰ってきて連れ合いが幼稚園を初め繁盛。 叔父は何か起業してはぽしゃって…の繰り返し。
それでも、時々会えば年齢も「父と叔父」より「叔父と姪」が近いから話はできる。
▼静岡からやってきた叔父。 認知や脳の病気で誰かは識別できないし、歩行も難しい。
「わたしだよ、わかる?」 と言うと、 「わかる、わかる」 と、わたしや姉の名前を言う。 血筋という煩悩なのかも。
母のことはこの時、初めて言った。 みんなため息。 年代としてしょうがない…
叔父と一緒にその連れ合いの叔母、娘の「みなちゃん」が来た。 みなちゃんは、不思議な感じで姉と後で「なんだかなーーだね」と。 ここは息子が下にいるけど、何をしてるかわからない。 姉、弟、はてな?
父の妹も来た。 宮崎にいるのかと思っていたら、なんとうちの地元の老人ホームに入っていると。 宮崎が長いから居ればいいのに、やっぱり故郷なのかな。
病院長だった叔父が死んで、宮崎で一人暮らしをしていた。 息子が宮崎で開業してそばに住んでたらしいけど、叔母も従兄弟も何故かうちの地元に。
従兄弟は宮崎で生まれてるから熊本には縁がないだろうに。 母親と一緒にこっちにいる。 自分の病院を畳んで、こっちの病院に勤めているとか。
一番下の叔父とその息子も来た。 その子が運転してきた。
その息子は東京でアプリ会社を作るとか言ってたはず… あれ? 地元に戻ってきて母親の幼稚園を手伝ってるとか。 奥さんは、東京。別居。
▼総勢、6人。
叔父一家三人 叔母、一人。 叔父と従兄弟、二人。
みんな望郷の思いで地元に。
そして、静岡の叔父は最後のお別れに。
「じゃね、またね」 なんて再び会うことはないだろうと思いながら口にした。
これでもう会うことはないだろう。 葬式があっても行かない。 行けない。
母の方は、兄弟で生きてるのはいない。 異母、異父の兄弟八人の一番下の母なので、そんなもの。
従兄弟は疎遠、というか生きてるのかどうなのかも知らない。 存在も知らない。
父の方は父が一番上だからなんとかみんなながらえてる。 死んだのはうちの父だけ。
血が繋がっているのがどういうことなのかは一族次第。
そんな日だった。
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