日曜雑感 左翼思想はいまや虚無のループだ
農と島のありんくりん
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移り変わる自然、移り変わる世情の中で、真実らしきものを探求する
日曜雑感 左翼思想はいまや虚無のループだ
昨日の記事はおさらいなので、議論がふるわなくて申し訳ありませんでした。
いま、いかなる脅威に沖縄が、いや日本全体がさらされているのか、それはなぜなのか、どのように具体的に現象しているのか、から押さえておこうと思っています。
また、いま大きくパラダイムシフトしている国際関係の中に、あえて沖縄島を投げ込んで見ていく必要もあると考えています。
それも一回こっきりではなく、何度も視点を変えながら見ていかねばなりません。
なぜならそれは、ここに集う皆さまにとっては「常識」であっても、日本人の、いや県民のどれだけが認識しているか危うい限りだからです。
おそらく県民において「脅威」を認識しているのは、コンマ何%のはずです。
さて、日本人がもっとも苦手とする考え方は「相対化」です。
かつて明治国家においては、外交や国際法が重んじられました。
なぜでしょうか。脆弱な国家基盤しか持たない明治国家にとって、ひとつ舵取りを間違えれば即亡国に直結したからです。
義和団事件における各国列強軍でもっとも国際法を遵守し、称賛されたのは柴五郎中佐率いる日本軍でした。
柴五郎 - Wikipedia
日露戦争においても、東郷は国際法法典を片手にして海戦をやったといわれるほどです。
それが昭和国家にはなし崩し的に「日本ファースト」に変異し、さらに敗戦を経て「日本オンリー」にまで退化していきます。
ある意味、日本人は体質的には徳川幕藩体制に戻ったのです。
沖縄問題ならば、延々と沖縄戦の惨禍の反芻と、米軍の「銃剣ブル」から一歩も出ず、感覚的な歴史の捉え方に終始し、「平和」さえ唱えていれば平和になると考えました。
それは「戦争を考えただけで戦争になる」、という言霊信仰を伴っていました。
したがって、現状認識において、本来多極的な国際社会との関わりで立ち位置を定めるべきを、本土政府とせいぜい米国の二者だけの視界に狭く限定してしまっています。
これは昨今の翁長氏の動向を見れば分かるでしょう。「オナガ・ワールド」にとってあるのは県内政局と本土政府、せいぜいが米国国務省ていどで、それ以外はきっぱりと「無」です。
だから、宮古海峡を中国空母艦隊が砲艦外交を演じようと、そんなものは「見えない」のです。
今回、辺野古や高江、あるいは反オスプレイにおける左翼の姿を眺めていると、彼らは解決はおろか認識レベルですら「自分たちの感じ方がすべて」だと気がつきます。
世界が曲がり角に差しかかり、どのような方向に行かねばならないか、どう現実を認識すべきなのかという時、左翼にとっては国内政局、あるいは沖縄県内だけが「世界の全て」なのです。
したがって必然的に、どちらに行くのかという視点がないために、「○○反対」「○○阻止」といった単純反射的対応しかとれず、永遠の堂々巡りとなっていきます。
このループを終わりにさせるためには、そこからいったん出て、外側から自分を眺めて客体視せねばなりません。
そうすれば自ずと解決点が見いだせるはずですが、それは彼ら左翼にとっては自分の居場所がない広漠とした砂漠らしいのです。
「移設阻止」しまえば、または「ヘリパッド粉砕」してしまえば、それは普天間固定であり、訓練場返還の頓挫につながり、「オスプレイ配置粉砕」してしまえば、いつ墜ちても不思議でないポンコツのCH46が再配備されるだけという、子供でも分かる理屈がわからないのです。
あるいは分からないふりをしているかもしれませんが、これが「県民の声だ」と報じられると暗澹とした気分にさせられます。
かつて戦後一時期において、左翼思想は変革の思想だと考えられていました。私も青年期強い影響を受けました。
しかし、今はただの退嬰的保守思想にすぎません。
こうして、左翼思想は建設性が欠落した虚無思想に変質していきます。
いまやっと、三浦瑠麗氏や神保謙氏のような俊敏な若手国際関係論学者たちによって「国際社会で日本の立ち位置を定めていく」作業がなされようとしています。
私もこのブログで、彼らの成果を反映させて書いて行きたいと思っています。
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