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さわれない音をみる (3)
わが右目を無きものにした時、われは未だ九つの童であった。
疫病ばやりの時節だった上に、凶作つづきと大水が重なり、巷は修羅場のごとき相を帯びていたはずだ。されど育ち盛りの童であったわれには、ただいつも腹が空いていたという憶えしかない。
いかなる訳で片目を無くす運びとなったのか、詳らかにすることはわれにも出来ぬ。隠し事をしているわけではない。如何にしても思い出すことが出来ぬのだ。さほど重たき事を思い出せぬとは、と怪しむ者も多々あろう。されど人の憶えというものには、重たき事だからこそ忘れるという妙な嫌いがあるのではないか………。
過ぎ去りし日々を思い返すとき、われには決して窺うことの出来ぬ、大いなる虚が幾つかある。上に語りし時節もその一つなのだ。今日のこの日に至るまで、われはその虚を敢えて見定めようとしたことがなかった。されど、ことし厄年の爺となりしわれは、わが命果てぬうちに、わが子らと孫らのため、なんとしてでもそれを解き明かさねばならぬ 何故にかそう思われてならぬのだ……。
掛かりとなるかもしれぬ出来事の憶えが一つある。それは八つになるかならぬかという時分のことだ……。
斯かる出来事のやや少し前、二つ違いの妹が何処からか子犬を一匹ひろってきた。白と黒の斑で、右目の周りが隈取られたようになっており、山犬にでもやられたのか、尻尾が根元から無かった。土間の片隅に敷いた藁くずがそいつのねぐらであった。
ある日われは近所に住む三つ四つ年嵩の与太者と大喧嘩をした。細かな経緯は憶えやらぬが、したたか撲たれて帰ってきた。二間だけの家には誰も居らなかった。襖絵師であった父様はふだん奥の間で仕事をしていた。母様はたいがい囲炉裏のそばで煎じ事や繕い物をしていた。されどそのとき、家はもぬけの空だった。囲炉裏では焼けぼっくいが燻っていた……。
喧嘩に負けてむしゃくしゃしていたわれは、何か仕返しがしたくて呪いかけることを思い立った。やり方を知っていた訳ではあらず、ただただ気の赴くままに、囲炉裏ばたに落ちていた襤褸を難儀して裂いて、それに炭のかけらで与太者の名を書くと、亡くなれ、亡くなれ、と小声で唱えながら固く丸め、燻っている火の上にそおっと置いたのだ。
垢か脂が染みついていた襤褸は、ちろちろとよく燃え付いて炎を上げた……。
それが灰になるまで見蕩れていると、いくぶん気が晴れたような感じがした。荒くれた昂りとでも申そうか、どことなく強くなったかのごとき心持ちであった。
その時ようやく気が付いたのだ 先ほどわれが入ってきた折には顔を上げたぶちが、ねぐらの中でぐったりしていることを……。
ぶちは半刻も経たぬうちに往んでしまった……。
その時分には母様と妹が帰ってきていたが、われは何も詳らかにしなかった。
妹と二人、ぶちの亡骸を桂川まで流しに行った……。
やってはならぬ事をしたのだ、もはや決してやるまい、とそのときは思った。されど三日たっても七日たっても罰ひとつ当たらぬことが知れると、いま一度ためしてみたくて堪らなくなってきた。己が強くなったかのごとき、あのときの心持ちを思い返しては、密かに暗い昂りを覚えたものであった。
それから半月ほど後だったろうか……父様に言い付けられて嵐山まで顔料を取りに行ったときのことだ。
古からの渡り絵師たる者、仕事に用いる顔料は自ら集め、調えるのが常であるが、そのときはちょうど大家の仕事が重なって絵の具が足らなくなり、やむなく知合いの絵師から渡来物を譲ってもらわねばならなかった。仕事から手が離せぬ父様に代わり、われが書付けを携えてその絵師の許まで赴くことになった……。
家から嵐山までは一里半あった。その帰路のことだ。緩やかなれどもずうっと登り道だから童の脚には些かきつい。われは道半ばのところで河原に降りて少し休むことにした。
道具箱を括り付けた背負子を降ろしてそばに寝っ転がると、ゆっくりと筋雲が流れていく澄みきった秋空が開けた。されど、左様に爽やかな景色とは裏腹に、わが心にはふと、まるで穏やかならぬ憶えが蘇ってきたのだ。その身代りとしてわれがぶちを殺める羽目になってしまった、例の与太者との大喧嘩である。
仰向いて見上げた空を流れゆく雲……。あのときも、撲ち倒され胸の上に膝乗りされた姿で同じ景色を目にしていたのであった。息が詰まりそうだったあの時の苦しびと恐れが思い出されるとともに、赤黒き怒りがむらむらと胸の奥から沸き上がってきた………。
……われはいま大いなる虚の縁に佇んでいる。これより先を見定めんがために、三十余年の昔を模して、ここ室生川の堤に寝そべることに致そう……。
空の青さと胸中にある色はあまりにも隔たっていた。われは蝗のごとく跳び起きると、傍らの背負子を眺めるともなく眺めた……。
括り付けられた道具箱がわれを誘った。われは徐に箱を外した……。
箱の蓋を開けてみると、高さ二寸五分ほどの磁壺が幾つも並んでいた。われは一つ一つ開けては顔料の色味を確かめていった……。
あの時は名など知らなかったが、真赭の朱色に惹きつけられた。それはわが胸中の色と響き合った……。
取り憑かれたかのごときわれは顔料を少しょう片手の平に取り、河辺に行ってそれを川の水で溶いた……。
そうしてわれは指先を朱に浸し、父様が所望する顔料を書き付けた布切れの上に何か書いたのだ……。されど、それが何だったのか……思い出すことが出来ぬ。あまり努めて思い出そうとすると、だんだん息が詰まりそうになる………
されば、斯様に致そう……。われに一つ残った左の目をつむり……息を整え、気を鎮め……あのとき用いた左の中指を、堤の地面に軽くあてがい………
……手首に自ずから力が走ってきた……ゆるりゆるりと動き出した……指先が土の上を擦る……
……手の動きが心の目に映る……それは、われが半ば恐れていた与太者の名にあらず……その似顔であった………。
腕の動きがはたと止まった。
眼を開けるのが恐ろしい。されど何が描かれているのか、もはや自明だ。
否、むしろいま心眼にありありと見えているあのときの絵のほうが、よほど恐ろしいと申すべきであろう。朱の濃淡で象られたその顔は、例の与太者の正に生き写しだったのだ。
闇に油火が灯されたかのごとく、あのあと己が何をやったか不意に思い出した。似顔を書いた布切れを四つ折りにし、足下の地面に据え置くと、傍らの丸石を持ち上げて、その上から幾度も幾度も突きならしたのだ。
石に潰され土に汚れ、布切れは襤褸の残骸と化した。心満たされたわれは、その上に丸石を載せて踵を返し、背負子の置いてあった堤に戻った……。
それから七日とせぬうちに、例の与太者は蝮に咬まれて往んだ………。
絵師の長子ともあろう者が絵師にならず、建具師となりし訳がようやくにして分かった。われはこれまで己に絵心がなかったからだと独り決めにしていたが、実はまるで逆様だったのだ。われはあまりにも絵心があり過ぎた……。
見定めは未だ済んではおらぬ。われがいよいよ九つの折、右目を無くした経緯を解き明かす潮なのだ。
これより、わが生涯で最も大いなる虚を、窺わなければならぬ………。
* ここに抄出したのは古語で記された原書の現代語訳である。なお文中にある桂川は、明らかに京都市南西部の有名な桂川であり、室生川は、おそらく奈良県宇陀郡を流れる宇陀川の支流を指しているものと思われる。
2008. 11. 30 続