モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

ベ平連と脱走米兵──声の「横領」を批判する

「もしスウェーデンに行けたら、奥さんはどうなる?」
 と訊くと、
「あとでワイフを呼ぶことにしている。ワイフは基地に勤務して八年になる。あと二年働けば、二千ドルの退職金が手に入る。二人でスウェーデンで暮らすつもりだ」
 と、すでに酩酊した力のない顔で、
「ほんとうは日本で暮らしたいんだ。オレ、ヤキトリが好きなんだ。屋台で飲みながらヤキトリを食う。あんなうまいものはない。オレがまだベトナムへ行く前、厚木基地の兵隊クラブの管理人をやっていた。その頃、ワイフと焼き鳥屋へよく行った。家の近くの店に」
 クメッツは涙声になった。
「オレ、日本へ住みたいんだ。ワイフと焼き鳥屋をやりたい。焼き鳥屋のマスターになるのが夢だったんだ」
 クメッツは先に布団を敷いて寝た。(『ベ平連と脱走米兵』p.20)

ベ平連と脱走米兵 (文春新書)

ベ平連と脱走米兵 (文春新書)


 クメッツとは、脱走米兵の名前。彼は軍を何度か脱走し、最後の脱走で懇意にしていた女性(ワイフ)の自宅に隠れ、一度を除いて一切外出することなく4年を過ごした*1。ベ平連に助けを求めたのはその後だ。それから、彼は、さまざまな人の助けを借りて、ソ連経由でスウェーデンへと亡命する。1968年4月。出発直前のクメッツが残した声明は次のようなものだった。

 このような声明を書く機会も喜びも、いままでになかったことなので、いざ書くとなると、とまどってしまいます。心の奥底に感じているこの深い感謝の気持を言葉で表わすことはとてもできそうにありません。
 今夜、この声明を書いていると、最初にあなた方のグループと連絡のとれた日のことが、またその後でおこったさまざまなことが蘇ってきます。
 沢山の日本人の家庭が、まるで旧知の友を迎えるように、暖かな理解と幸せに満ちた雰囲気で私をもてなしてくれました。
 あなた方の運動を知った当時の私ときたら、神経衰弱で、いかれきった大酒呑み、目もよく見えない状態でした。私と妻にとってこの四年間は試練の連続でした。しかし、又、同様の状況下におかれたら、私は一刻もためらわず同じことを繰り返すでしょう。ベトナム戦争にかぎらず、いたずらに愛するものの命を奪い、悲しみと苦しみを生み出すいかなる戦争に対しても、現在私が抱いている考えが正しいと信じるからです。
 三ヵ月が経ったいま、心身共に完全にもとに戻りました。目も恢復しました。もうちっともビクビクしませんし、大酒を呑む必要もなくなりました。
 多くのすばらしい友人や愛する妻と離れるときが近づきました。たとえこの身体は日本を離れても、私の心はあなた方一人ひとりと、そしてここにあるわが家にずっと一緒に残ることでしょう。別れて行くいま、私に言えることはこれだけです。
 みなさん、本当にありがとう。みなさんの一人ひとりと、堅く手を握り合えたら! という気持ちで一杯です。みなさんのことは決して忘れません。そして、できるだけ早く、帰ってくるつもりです。愛する妻を迎えに──。

 一九六八年四月十五日
  出発を前にして
       ジョセフ・L・クメッツ*2

 こうして、少なくとも、クメッツの人生が戦争によって奪われることはなかったし、ワイフと呼ばれた日本女性*3との関係が戦争によって引き裂かれることもなかった。その意味は、決して小さくはない。──まぁ、「できるだけ早く、帰ってくるつもりです。愛する妻を迎えに」と語った彼は、あっというまに(15分!)スウェーデン娘と結婚し、そしてあっという間に(2週間!)別れたそうで、その後「ワイフ」とクメッツが会った形跡もないらしく、二人の関係は別の形で終わってしまった。その後、クメッツの消息は定かではない。その人生を本人達が肯定できたのかどうかも知る由もない。しかし、それは僕らには関係のないことだ。最終的に、クメッツを含め、計十六人の脱走兵がスウェーデンへ渡った。その意味は、決して小さくはない。


 長い前置きは以上。この話を書きたくなったのは、小田実が亡くなった折に描かれた、次のような文章を読んだからだ。

 沖縄で暮らしながら私は私なりにベトナム戦争の傷跡を探った。沖縄はベトナム戦争の当事者に巻き込まれていた。内地人にも知的にはわかる。だが、恋人の米兵が戦争に巻き込まれていくという戦後の「日本人女性の戦争体験」というものは、内地側で語られたことがあるだろうか。あるのかもしれないが、私は知らない。私は内地がベ平連の反戦をしているとき、死に怯える米兵とロックを歌った紫の活動のほうが意義深いのではないかと思った。
……
 インターネットを始めたころ米老兵たちが私にオキナワの女のことや紫のことをよく聞いてきた。彼らに会えるか、ありがとうと言いたい、そう言っていた。彼らの心に残るなにかを思った。戦争なんかいまわしいものだ。だがそのなかで生きて行かなくてはならない人間は反戦活動をするのではなく、恋をしたりロックを歌う。私はその人間の生き方のほうに力を覚えるし、反戦というのが成立するならそうした人間の生活の叫びのなかに胚胎するものだろうと思った。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20070731/1185833228

 脱走とは、軍において重罪である。それはアメリカ社会を捨てることを意味する。その意味で、脱走した兵たちは、脱走できた兵たちでもある。ほとんど捨てる物がなかった者もいれば、それなりには苦渋の決断として脱走を決めた者もいる。脱走など思いもつかなかった者もいるだろう。他方で、アメリカ社会に残したものがあり、それを捨てることができないと思う者もいただろう。当たり前だが、当事者は多様だ。そういう文脈を想定しつつ、考えよう。
 こうしたことを踏まえるならば、finalvent氏が述べたことは、単にベ平連を貶めるに留まらない。彼が述べたことは、諦めて戦地に向かった米兵たちの声で、ベ平連との関わりの先に未来を得た別の米兵の声を塗りつぶすことである。同じ困難に直面した*4一方の当事者の声を用いて、他方の声を上書きした(しようとした)ということである。当事者の声を「横領する」とは、このような引用の仕方を言うのだろう。
 一つの状況の中で、ある者は脱走し、別のある者は諦めて戦地へ向かった。強いられた選択の外にいる人間が、その選択の間に序列をつけることなど、してよいことだとは思われない。するべきことは、その選択を強いる状況それ自体を問題にする、そのことであるはずだ。そして、それを問題にすべきことに気づくならば、「ベトナムに平和を」という声を挙げることを貶めることなどできないはずだ。


 finalvent氏が貶めたのは脱走米兵のことだけではない。諦めて戦地に向かった米兵の、銃口の先に、迫撃砲の先に*5、いた、ベトナムの人々のことである。諦めてベトナムへ行く米兵を慰めた人たちは、「ベトナム人を殺すな」といって送り出したのではなかろう。「死ぬな」と言って送り出したのだろう。そして、そこには、「ベトナム人を殺してでも」生きて帰って欲しい、という思いも含まれていたであろう(そして、生活の中に胚胎しうるものは、反戦ではなく、反戦に回収しきれない、こうした感情の方だろう)。その意義深さは、「ベトナムに平和を」と叫ぶことの意義を打ち消すような種類の意義深さなのか。
 ここで僕は、米兵たちを送り出した「オキナワの女」たちやロックバンドを貶めたいのではない。僕とて、目の前の大切な誰かを送り出すときに「生きて帰って欲しい」と思うときには、それは「他の誰を犠牲にしてでも」という意味を込めて、そう願うのだ。問題にしたいのは、そのことではない。むしろ、そのように願わなければならない状況そのものを呪いつつ、そのように願わなければならないのだ。「生きて帰って欲しい」と願う私が抱える矛盾を見つめるならば、それは「ベトナムに平和を」という声を挙げることと必ず結びつくはずだ。
 もう一つ、注意をしておく。このように述べたとしても、「オキナワの女」たちやロックバンドが、実際に、反戦の声を挙げたかどうか(状況を「呪った」かどうか)を基準にして選別したいのではない。そんなことを言わなくても、そんなことをちっとも考えたことさえないとしても(たとえば、「ベトコンのクソ野郎がとっとと降伏すればいいのに!」とか思っていたとしても)、そこで経験されたこと、(つかの間ではあれ)愛した人と引き裂かれるという経験は、悼むべきことなのだ。その人たちがどう言うか、どのように思うかとは無関係に、その状況と無関係に生きている私たちがなすべきことには、戦争そのものに「否」と言うことが含まれているだろう。──結局、何をどのように見ても、「〜のほうが意義深い」と言いうる要素などどこにもない。
 多様な当事者の声がある。ここに書ききれてない、僕が知りもしない声もあるだろう。これで全部だ、と言ってはならないし、まして、それらを序列化するなど、絶対にしてはならないはずだ。ただ、そこにある(ありうる)多様な悲劇を、根こそぎにしうる一点を目指さなければならない。そして、それは、何らかの形で反戦を掲げる、目指すことに収斂するはずである。


 最後にもう一つ、先の本から引用する。著者の、ベ平連の第二回目のデモ(1965年)でのエピソード。

 やはり隊列の後部についていた見知らぬ中年の夫婦が、道々、那須*6と私に話しかけてきた。
「昨年、一人娘を失くしましてね。突然病死して──生きていたら、きっとこのデモに参加するとおもって」
 と父親…がいうと、
「私たち、娘の代わりに歩いてるの」
 と母親…が続けた。
 娘さんは新宿高校に在学していて「社研」に入部、ベトナム戦争に関心の深い活発な高校生だったようだ。(pp.240-241)

 これは少なくとも、それは平和デモを歩く人の志の高さや、見識の高さを示すものではない。にも関わらず、というより、だからこそ、ここにはデモへと向かう人の動機の多様性や深みがよく現れている。ここにこの夫婦のエピソードを取り出したのは、ある種の代表例として出したのではない。これは一般化を意図した引用ではない。あるいは、この引用がデモを歩く人々の心情の代表例となりうるとすれば、「それぞれの心にあるものは、この夫婦の場合と同じくらい、意外なものでありうる」という程度の意味にしかならないだろう。
 ことは単純ではないのだ。デモを歩く人たちであれ、デモの場に来ることができずに遠くで思うしかない人であれ、反戦を思う人たち一人一人の心の中には、そのように思うに至った理由があるし、その理由を与えた生活や歴史がある*7。
 他方で、こうした人々を(含めて)非人間化する言説がある。別の人々の人間性を持ち上げるふるまいによって、デモを歩く人々の人間性を貶めようとする。素直に「気に食わない」とだけ、言えばいいものを、あるいは、反戦そのものを正面から批判すればいいものを、どこかの当事者の言葉を「横領」しつつ貶めるのだ。それは下品なふるまいだ。
 繰り返すが、finalvent氏が語ったことは、諦めて戦地へ行った米兵を特権化し(その言葉を横領し)、脱走米兵や、ベトナムの人々に加えて、平和デモを歩いた人々の声をも塗りつぶそうとしただけのことである。それはどれほど如才なさげに語られようとも、「平和運動なんぞに関わる人間、そんなことを口にする人間が目障りだ」という苛立ち以上のものではない*8。

*1:歯の痛みに耐えかねて夕闇に紛れて歯医者に行った以外は、一度も外出していないという。

*2:同書pp.41-43。

*3:できすぎのような話だが、被爆者の女性だったという。

*4:もちろん、背景は人によって異なるのであり、異なるからこそ、一方は諦め、他方は脱走・亡命するという違いが生まれるのであるが。

*5:そういや、面白半分に迫撃砲を「撃ってみよう」とした人が知事をやっているところがありましたな。小説家知事の豊かな想像力を示すエピソードだ。

*6:著者とその時同行していた友人。

*7:歴史修正主義者のそのふるまいでさえ、そのようなものであるのと同じように。

*8:しかし、僕はfinalvent氏の当該記事を下品で心無い記事だと思うけれど、しかし、おかげでベ平連や脱走米兵の話をもっと知りたいと思うようになった。今回紹介した本を一気に読んでしまえたのも、そのおかげである。だから、finalvent氏が、当該記事を「書かずにいればよかったのに」とは、僕には思えない。他者の声は、こんな風にして、なにごとかを広げていく。