コンテンツにスキップ

永岡光治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

永岡 光治(ながおか みつじ、1913年大正2年)6月13日[1][2] - 1994年平成6年)5月1日[1][2])は、昭和期の労働運動家、政治家参議院議員(3期)、大分県宇佐市長、宇佐市名誉市民[3]

経歴

[編集]

大分県[4]宇佐郡長洲町[3](現宇佐市[1][2]長洲[3])で生まれる。宇佐中学校(現大分県立宇佐高等学校)を経て[3]、1934年(昭和9年)中央大学第二予科を卒業[1][2][3]。さらに逓信官吏練習所第一部行政科を1936年(昭和11年)に卒業[1][2][3][4]。逓信属、同事務官となり[4]、東京中央電話局、逓信省郵務局に勤務した[3]

戦後、労働運動に参画し、全逓信従業員組合(のちの日本郵政公社労働組合)の結成と共に本省支部長に就任し、1947年(昭和22年)同中央本部書記長に就任[3][4]。1948年(昭和23年)レッドパージにより組織が弱体化したため、中心となって再建同盟を結成し、再建後の1949年(昭和24年)中央執行委員長に就任し5期在任した[1][2][3][4]。その他、全逓信労働組合政治連盟会長、日本ILO協会理事、同監事などを務めた[1][2][4]

1953年(昭和28年)4月の第3回参議院議員通常選挙全国区から左派社会党公認で出馬して当選[1][2][3][4][5]。1959年(昭和34年)6月の第5回通常選挙、1965年(昭和40年)7月の第7回通常選挙でも再選され[6]、参議院議員に連続3期在任した[1][2][3][4]。その間、日本社会党大分県支部連会長、同党国会対策副委員長、同参議院議員団長、同逓信出身議員団長、参議院内閣委員長、同逓信委員長などを務めた[1][3][4]

その後、1975年(昭和50年)宇佐市長に当選し[4]、3期在任し体調不良のため任期途中の1985年(昭和60年)10月に退任した[1][3]。この間、農業の基盤整備、生活関連施設の整備、企業誘致、宇佐文化会館の建設などに尽力した[3]。1983年(昭和53年)秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章[7][8]

1994年(平成6年)5月1日死去、80歳。死没日をもって正四位に叙される[9]

著作

[編集]
  • 『ヨーロッパの労働事情』官業労働研究所、1952年。
  • 『会議のあり方 : そのルールと手続』官業労働研究所、1959年。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』430頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『現代物故者事典 1994-1996』399頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『大分県歴史人物事典』364頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』373頁。
  5. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』543頁。
  6. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』547、550頁。
  7. ^ 永岡 光治」『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』https://kotobank.jp/word/%E6%B0%B8%E5%B2%A1%20%E5%85%89%E6%B2%BBコトバンクより2023年1月17日閲覧 
  8. ^ 『官報』号外第88号1頁 昭和53年11月4日号
  9. ^ 『官報』第1400号8-9頁 平成6年5月18日号

参考文献

[編集]
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。
  • 『現代物故者事典 1994-1996』日外アソシエーツ、1997年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
  • 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
議会
先代
藤田進
日本の旗 参議院内閣委員長 次代
中野文門
先代
久保等
日本の旗 参議院逓信委員長 次代
近藤信一
公職
先代
時枝守一
宇佐市旗大分県旧宇佐市長
1975年 - 1985年
次代
四井正昭