コンテンツにスキップ

望月優子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
もちづき ゆうこ
望月 優子
望月 優子
『中日新聞』1960年6月19日付朝刊より
本名 鈴木 美枝子
すずき みえこ
生年月日 (1917-01-28) 1917年1月28日
没年月日 (1977-12-01) 1977年12月1日(60歳没)
出生地 日本の旗 日本 神奈川県横浜市
職業 女優
ジャンル 映画舞台
活動期間 1950年 - 1969年
配偶者 鈴木重雄(1942 - 1977年)
著名な家族 中村雅子(妹)
加藤嘉(義弟)
主な作品
映画
カルメン故郷に帰る
お茶漬の味
晩菊
受賞
ブルーリボン賞
主演女優賞
1957年』、『うなぎとり
助演女優賞
1954年晩菊
その他の賞
毎日映画コンクール
女優主演賞
1953年日本の悲劇
テンプレートを表示
鈴木 美枝子
すずき みえこ
生年月日 (1917-01-28) 1917年1月28日
出生地 神奈川県横浜市
没年月日 (1977-12-01) 1977年12月1日(60歳没)
出身校 東京市立忍岡高等女学校(現東京都立忍岡高等学校)中退
前職 女優
所属政党 日本社会党
称号 正五位
勲三等宝冠章
配偶者 鈴木重雄

選挙区 全国区
当選回数 1
在任期間 1971 - 1977
テンプレートを表示

望月 優子(もちづき ゆうこ、本名:鈴木 美枝子、旧姓:里見[1]1917年1月28日 - 1977年12月1日)は、日本女優映画監督政治家参議院議員(1期、日本社会党)。

来歴

[編集]

神奈川県横浜市出身。1930年、東京市立忍岡高等女学校(現東京都立忍岡高等学校)を中退。

望月美恵子の芸名でムーランルージュ新宿座などで初舞台を踏む。

1942年川端康成の媒酌で鈴木重雄と結婚。戦後は劇団民藝に参加。

1950年松竹と契約。1958年』での演技が評価されてブルーリボン主演女優賞受賞。三益愛子と並んで「母物映画女優」と呼ばれた。

1960年から1962年にかけて3本の映画を監督した。東映の教育映画である『海を渡る友情』(1960年)と『おなじ太陽の下で』(1962年)、そして全日本自由労働組合製作の『ここに生きる』(1962年)である[2]

1967年(昭和42年)4月に行われた東京都知事選挙では美濃部亮吉の推薦人に名を連ねた[3]

1971年(昭和46年)6月の第9回参議院議員通常選挙日本社会党公認で全国区から本名の鈴木美枝子で出馬し、初当選[4][5]

1977年(昭和52年)7月の第11回通常選挙では望月優子の名で出馬して落選した[4][6]

落選から約5か月後の1977年12月1日乳癌のため死去、60歳。死没日をもって勲三等宝冠章追贈、正五位に叙される[7]

人物

[編集]

主な作品

[編集]

映画(出演)

[編集]
カルメン故郷に帰る』(1951年)
本日休診』(1952年)

映画(監督)

[編集]
  • 『海を渡る友情』(1960年)
  • 『おなじ太陽の下で』(1962年)
  • 『ここに生きる』(1962年)

テレビドラマ

[編集]

著書

[編集]
  • 生きて愛して演技して 平凡社 1957 (人間の記録双書)
  • 生きて生きて生きて 集団形星 1969
  • 美しく生きたい 魂という袋 国土社 1971 (ホームライブラリー)
  • 母として女として 惜しみなき愛の記録 日本文芸社 1972

脚注

[編集]
  1. ^ 望月 優子」『新撰 芸能人物事典 明治~平成 / 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9B%E6%9C%88%20%E5%84%AA%E5%AD%90コトバンクより2023年5月12日閲覧 
  2. ^ 望月優子”. 日本映画における女性パイオニア. 2023年10月10日閲覧。
  3. ^ アサヒグラフ』1967年4月28日号、朝日新聞社
  4. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』336頁。
  5. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』551頁。
  6. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』554頁。
  7. ^ 『官報』第15274号15-16頁 昭和52年12月9日号

参考文献

[編集]
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。

外部リンク

[編集]