伊達氏

日本の氏族
伊達家から転送)

伊達氏(だてし/いだてし)は、武家華族を出した日本氏族鎌倉時代朝宗陸奥国伊達郡を与えられて伊達と称したのに始まる[4]。陸奥の有力豪族となり、戦国時代には戦国大名と化し、政宗の代に陸奥の南半分を征服したが、豊臣秀吉の天下統一で領国を削減された[4]江戸時代には宗家が仙台藩藩主家、政宗の庶長子・秀宗の家系が宇和島藩藩主家となり、明治維新後には侯爵に叙された宇和島伊達家を筆頭に7家が華族に列した(侯爵家1家、伯爵家1家、子爵家1家、男爵家4家)[5]

伊達氏
家紋
仙台笹せんだいざさ

宇和島笹うわじまざさ
本姓 藤原北家山蔭流中村氏
家祖 伊達朝宗
種別 武家
華族侯爵) - 宇和島
華族(伯爵) - 宗家
華族(子爵) - 吉田
華族(男爵) - 宗敦系
華族(男爵) - 宗倫系
華族(男爵) - 亘理
華族(男爵) - 当別
出身地 常陸国伊佐郡
主な根拠地
著名な人物 伊達政宗
伊達宗城
伊達順之助
支流、分家 田手氏
桑折氏
飯坂氏
大條氏
小梁川氏
秋田伊達家[1]
紀州伊達家[2]
陸奥家華族伯爵家)[3]
凡例 / Category:日本の氏族

「伊達」の読み

編集

氏の由来である陸奥国伊達郡の「伊達」という地名は、もともと「いたて」「いたち」と呼ばれており、暦応2年[6]1339年)の文書には「いたてのかもんのすけ為景」、慶長18年(1613年)に支倉常長ローマ教皇に渡した伊達政宗の書簡や、ローマ市議会が常長に与えたローマ市公民権証書には「IDATE」とあり[7]、伊達氏自らはこの呼び方に従って「いだて」と称していたようである。

一方で、山科教言の日記『教言卿記』の応永13年(1406年8月4日条には「タテ」、万里小路時房の日記『建内記文安4年(1447年3月26日条には「タッテ」という表記が見える。このように15世紀から畿内で「だて」という読み方が広まったが、江戸時代を通じて「いだて」と「だて」は混用され[8]、「いだて」の読み方は明治維新前ぐらいの頃まで使われ続けたという[9]

「だて」という読み方がされるようになったのは「いまだ→まだ」「いだく→だく」「いでは→では」「いばら→ばら」のような「脱い」音変化であると言われる[9]

歴史

編集

出自

編集

魚名藤原山蔭の子孫と称した[10]。初代・常陸入道念西(朝宗)が常陸介となり、常陸国真壁郡伊佐荘中村に住み、伊佐氏または中村氏を称した[11][12]文治5年(1189年)、朝宗は、4人の息子達と共に奥州合戦に従い、石那坂の戦いで戦功を挙げた[11][13]。念西は、この功により伊達郡地頭職を与えられ、同年暮れから建久元年(1190年)の間に伊達郡に入り、伊達を名乗った[14][11]

ただし、伊達氏の出自が藤原北家であるというのはあくまで自称に過ぎないとする説もある。例えば太田亮は「山蔭の裔とする事については、何等確実徴証あるなく、且つ世数長きに失す」と指摘し「桓武平氏常陸大掾平維幹(平繁盛の子)の子為賢の末」説を挙げている。さらに下毛野氏とする説も提唱されている。また、常陸入道念西と伊達朝宗は別人であるという説もあり、新井白石元禄15年(1702年)成立の『藩翰譜』で『伊達正統世次考』の示す系図を疑っており、常陸入道念西は朝宗の子・宗村であるとしている。

鎌倉時代から室町時代

編集

朝宗の長男・伊佐為宗常陸国伊佐の本領を継ぎ、朝宗の二男・宗村は伊達郡の所領を継ぎ、同郡桑折郷高子岡に居住した[11]。宗村は、のちに但馬国殖野に移り、雲但伊達氏の祖となった[11]。伊達郡の地は、宗村の子・伊達義広が継いだ[11]

鎌倉時代においては陸奥国下野国常陸国の他にも出雲国・但馬国・伊勢国・駿河国・備中国上野国出羽国越後国などでも地頭職を得ており、各地に庶流家が生まれた。建治元年(1275年)『造六条八幡新宮用途支配事』[15]によれば伊達入道は鎌倉に起居していたことがわかる。

南北朝時代伊達行朝の代には、義良親王を奉じて奥州鎮定のために下向した北畠顕家に属し、行朝は結城宗広らとともに式評定衆となった。北条氏残党の中先代の乱では、連動して蜂起した北条方の与党を討った。建武2年(1335年)に顕家が足利尊氏討伐のために上京すると行朝も従い、足利方と戦う。興国年間には南朝方(後醍醐天皇方)として同族の伊佐氏中村経長[16]らとともに常陸国伊佐郡伊佐城により、北朝方(足利方)の高師冬らと戦う。南朝方は破れて伊佐城は落城、行朝と経長は城から脱出した[17]

なお、正中の変元弘の乱では、傍系(但馬伊達氏および出雲伊達氏)の伊達遊雅(三位房、祐雅法師)が連座されて処罰されている。但馬伊達氏、出雲伊達氏や駿河伊達氏は足利方であったことがこの時代の各史料に見て取れる。

しかし伊達宗遠の代には北朝方に降伏。宗遠は出羽国長井郡を攻め、領主である長井氏を滅ぼして領有した。宗遠の子・政宗の時代に鎌倉公方足利満兼が領土の割譲を求めると、満兼や会津の蘆名満盛(蘆名詮盛の子)と争った。政宗は応永9年(1402年)までに3度にわたり鎌倉府に反旗を翻している(伊達政宗の乱)。

初め奥羽鎌倉府の管轄ではあったが、のちに斯波氏が奥州・羽州探題を世襲するようになると、伊達氏はさらに形式上その配下となる。また幕府と鎌倉府の対立が次第に深まると伊達氏は幕府に接近して京都扶持衆となり、応永20年(1413年)の応永の乱では鎌倉を牽制し(伊達松犬丸の乱)、永享10年(1438年)の永享の乱では幕府より鎌倉公方の討伐命令を下されるなど、南北朝時代に南朝方であった伊達氏は幕府との接近によって、その地位と勢力を高めていった。

文明15年(1483年)には伊達成宗上洛し、将軍・足利義政日野富子らに砂金太刀などを献じた。献上物の数は当時としては随一のものであったと伝わる[18]

伊達家では宗村、義広、政依の3代にわたって次男が相続した時期があったため、元服時に長男が次郎を襲名するようになり、やがて総次郎と藤次郎を交互に用いた。伊達家中では総次郎や藤次郎とは呼ばず、単に次郎と呼ばれた[19]

戦国時代

編集

幕府は陸奥には奥州探題職を置き、守護は置かない方針であったが伊達稙宗は陸奥守護を望み補任された。勢いを得た稙宗は主筋にあたり奥州探題を世襲する名門の大崎氏の内紛に介入して次男の義宣を大崎氏の養子に送り込み、さらに羽州探題最上氏も勢力圏に組みこんだ。稙宗は天文5年(1536年)に分国法塵芥集を制定するなどして家中統制の強化に努めた。

しかし稙宗の専制を快く思わない家臣団の一部は、稙宗の子・伊達実元越後守護・上杉氏に入嗣させる計画に反対する嫡男・伊達晴宗を擁立して稙宗の追放を図った。こうして稙宗・晴宗父子の間で天文の乱が勃発した。この争乱は姻戚関係を結んだ奥羽の諸大名を巻き込む大乱へと発展した。乱は晴宗方の勝利に終わったが、長期の内戦により伊達家は疲弊し、勢力下に収めていた諸大名の独立を許すことになった。

晴宗は居城を米沢城に移して態勢の立て直しにとりかかり、幕府に奥州探題への補任を求めた。すでに天文15年(1546年)に大崎義直が探題に補任されていたが、晴宗は陸奥守護職と奥州探題職は同一のものであり、稙宗が守護職を得た時点で伊達氏が探題職に補任される権利を得ていると主張した。

安土桃山時代

編集
 
伊達政宗

天正12年(1584年)に当主になった17代・伊達政宗は強硬な領土拡張政策を進め、天正17年(1589年)に会津の蘆名義広摺上原の戦いで破り、蘆名氏を滅ぼしたことにより会津十余郡を占領下におき、陸奥国の南半分に加えて新発田重家と共闘した金上氏から奪った越後国東蒲原[20]をも支配するに至った(114万石)[4][21]。同年蘆名の居城だった黒川城へ移った[21]

しかしこれは関白豊臣秀吉が発した惣無事令に背く武力行使であったため、天正18年(1590年)に政宗が秀吉が服属した後の奥州仕置により会津・岩瀬・安積などを没収され(東蒲原は豊臣直轄・蒲生を経て上杉(津川城主は藤田信吉)領となる)、安達郡のうち二本松と塩松、伊達氏旧領の信夫伊達刈田柴田伊具亘理名取宮城黒川などの諸郡と志田郡のうち内松山、桃生郡のうち内深谷、出羽国置賜郡が与えられ、宇多郡も併領した(72万石)。居城も米沢城に戻った[21]。1591年(天正19年)には羽柴姓を与えられた[21]

さらに、同年に起きた葛西大崎一揆を政宗が煽動していたことが露見したため、翌天正19年(1591年)の一揆鎮圧後に国替を命じられ、伊達・信夫・二本松・田村・塩松・刈田などを没収され、本領のうち黒川・宮城・名取・柴田・伊具・亘理・宇多・松山・深谷などに葛西・大崎を加えて58万石余が改めて与えられ、直後に近江国蒲生郡にも5000石の領地を与えられる[21]。同年岩出山城(現:宮城県大崎市岩出山)へ移る[21]。その後、政宗は朝鮮出兵に従軍した[22]

江戸時代

編集

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで政宗は徳川方に与し、徳川家康よりその恩賞として甘糟景継の白石城がある刈田郡2万石を加増されて60万石となった[23]。1603年(慶長8年)に仙台城に居城を移した[24]。1606年(慶長11年)に常陸国龍ヶ崎および信太筑波河内三郡のうち1万石を加増された[24]。1613年に政宗は支倉常長ローマに派遣した[25]。1634年(寛永11年)に近江国蒲生野洲両郡内において5000石の加増があり、これにより62万石となった。以降、仙台伊達家は明治元年の28万石への減封までこの表高で続いた[26]

江戸時代を通じて国持大名の家格を維持し、内高は100万石を超えていたといわれる[25]。伊達宗家の当主は家督相続時左近衛権少将に任ぜられ、極位極官従四位上左近衛権中将に昇った。外様大名の中では別格の扱いを受け、将軍家から降嫁がある数少ない家のひとつとされ、松平の姓を与えられて松平陸奥守を称した[27]

政宗の庶長子である秀宗は仙台藩とは別に1614年(慶長19年)に伊予国宇和島藩10万石を与えられた[28]。また1657年(明暦3年)には藩主宗利が弟の宗純に三万石を分与し[28]伊予吉田藩が立藩している[29]。両家とも明治の廃藩置県まで存続した[30]。維新後それぞれ華族侯爵家と子爵家に列した(→伊達侯爵家、→伊達子爵家へ)。

綱宗が蟄居させられて伊達綱村が相続した後の万治3年(1660年)に伊達宗勝(伊達政宗十男)に一関藩3万石,田村宗良(2代仙台藩主伊達忠宗三男)に岩沼藩3万石が分与された。直後の寛文年間に「伊達騒動」と呼ばれるお家騒動が起き、仙台藩政を執っていた宗勝が流罪となったが、仙台藩の所領は安堵され[31]、一関藩領は還封され、後に伊達一門の田村家がここに移封されている[32]。江戸中期以降の仙台藩は財政欠乏に苦しみ続けた[33]

幕末・維新期の仙台藩主伊達慶邦慶応4年・明治元年(1868年)の戊辰戦争奥羽越列藩同盟の名目上の盟主となり、事実上の盟主の会津藩に与する形で政府軍に抗したため、12月7日に城地収公となったが、12月12日に息子宗基に改めて仙台藩28万石が与えられることで家名再興を許された[34]。仙台伊達家は、維新後華族伯爵家に列した(→伊達伯爵家へ)。

明治以降

編集

明治以降、伊達氏からは侯爵1家、伯爵1家、子爵1家、男爵4家の合計7家の華族家が出た。

伊達侯爵家

編集
 
伊達宗城

最後の宇和島藩主伊達宗徳は、明治2年(1869年)の版籍奉還で宇和島藩知事に転じるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[35]

版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で5242石[36][37][注釈 1][38]

明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は16万5267円81銭3厘(華族受給者中41位)[39]。明治14年時の宗徳の住居は東京市本所区本所小泉町にあった。当時の家令は西園寺公成[40]

宗徳の養父に当たる前当主伊達宗城は、王政復古後、新政府で議定、外国事務総督、外国官知事などに就任し、政府発足当初よりその外交責任者を務めて活躍し、1869年(明治2年)には民部卿兼大蔵卿(翌1870年の民蔵分離後は大蔵卿専任)、1871年には欽差全権大臣に任じられて清国へ送られ、日清修好条規の締結に当たった人物である[41]

明治17年(1884年)7月7日の華族令施行により華族が五爵制になると、旧中藩知事[注釈 2]として宗徳に伯爵位が与えられ[43]、さらに明治24年(1891年)4月23日には宗城の維新の功により侯爵に陞爵した[43]

宗徳が明治38年11月に死去した後、長男伊達宗陳が侯爵位を継承。彼は式部官宮中顧問官を歴任した[44]。宗陳夫人納子(のりこ)は、有馬頼咸七女[45]

宗陳が大正12年2月に死去した後、爵位を継いだ養子の伊達宗彰侯爵(伊達紀範三男)は大蔵省官僚となり、税務署長や斎藤実内閣内閣総理大臣秘書官などを歴任した[44]。その後日本不動産銀行常務取締役や清水建設相談役を務めた[46]。宗彰の夫人美智子は松平慶民子爵長女[46]。昭和前期の宇和島伊達侯爵家の邸宅は東京市芝区白金三光町にあった[44]

なお宇和島伊達侯爵家からは、伊達宗倫が明治25年(1892年)に分家し男爵位を授かっている[47][48](→#伊達男爵家(宗倫)へ)。

伊達伯爵家

編集

最後の仙台藩主伊達宗基は、明治2年(1869年)の版籍奉還で仙台藩知事に転じるとともに華族に列した。しかし宗基は幼少であったため、明治3年に宇和島家の伊達宗城の次男で、宗家の慶邦の養子に入った伊達宗敦が、代わりに仙台藩知事に就任し(伊達宗家の家督は宗基のまま)、廃藩置県まで務めた[49][50]。仙台藩は士族の帰農や北海道移住などで34万石減封の対応を行いながら廃藩置県を迎えた[51]

版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で6774石[36][37][注釈 1][38]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は13万4341円54銭4厘(華族受給者中52位)[37]。明治14年時の宗基の住居は東京市芝区愛宕下町にあった。当時の家令は野村守城[52]

明治17年(1884年)7月7日の華族令施行により華族が五爵制になると、旧中藩知事[注釈 3]として宗基に伯爵位が与えられた[43]。宗基の夫人都子(くにこ)は、松浦詮伯爵(明治天皇又従兄弟)の三女[53]

宗基が男子なく大正6年1月に死去すると、弟の邦宗が養子として伯爵位を継承した。邦宗の夫人巨梅(こうめ)は留守基治長女[53]

邦宗が大正12年5月に死去した後、邦宗の長男興宗が伯爵位を継承。興宗の夫人鞠子(まりこ)は小笠原長幹伯爵の四女[53]。興宗の代の昭和前期に伊達伯爵家の邸宅は東京市品川区大井林町にあった[54]

興宗は、昭和天皇即位大礼の叙爵・陞爵に狙いを定め、旧臣や旧領民も巻き込んで侯爵陞爵請願運動を行っている。戊辰の役で慶邦が一時方向を誤るが如き齟齬を生じたが、慶邦勤王の志は祖先累代と異なるところなく、慶邦父子は直に恭順謹慎して罪を謝したとして、それに免じ減封前の62万石に相応する侯爵位をと請願した[注釈 4]ものの、不許可となっている[55]

不許可の理由については、伊達伯爵家は一次大戦後に大規模な美術品売却を行ったり、経済的破綻が目立っていたので、その印象の悪さが影響した可能性も指摘されているが[56]、そもそも昭和初期の時代は、華族制度が厳しく批判された大正デモクラシーの時代を経て、本人の勲功を理由とする請願以外は宮内省が忌避するようになっていた時代であり、家柄・家格・先祖を理由にして請願を行っても通る可能性がほとんどなかった[57]。それでもこのような運動を行った背景には分家の宇和島伊達家が侯爵家なのに伊達本家がそれより下位なことへの不満があったと見られる[56]

興宗の長男は貞宗。貞宗の夫人利子は小野寺象作四女[53]。その長男は泰宗(昭和34年2月9日生)。

なお仙台伊達伯爵家からは、前述の宗敦が明治22年(1889年)に分家して男爵位を授かっている[47][48](→#伊達男爵家(宗敦))。

伊達子爵家

編集

伊予吉田藩の最後の藩主宗敬は、明治2年(1869年)の版籍奉還で吉田藩知事に転じるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[35]

版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で1473石[36][37][注釈 1][38]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は5万625円(華族受給者中124位)[58]。宗敬が明治9年に没した後、家督を継いだ鶴若(宗定)の明治14年時の住居は東京市京橋区木挽町にあった。当時の家令は水谷勝貞[59]

明治17年(1884年)7月7日の華族令施行により華族が五爵制になると、翌8日に旧小藩知事[注釈 5]として宗定が子爵に叙された[60][61]。宗定の夫人清子は松平武聡次女[62]

宗定が昭和12年に隠居した後、長男伊達宗起が爵位を継承[62]。宗起夫人の朗子は、渡邊済三女[62]。宗起の代の昭和前期に伊達子爵家の邸宅は東京市渋谷区千駄ヶ谷にあった[63]

宗起が昭和15年8月に死去した後、宗起の弟定宗が養子として昭和16年6月に爵位を継承[62]

伊達男爵家(宗敦)

編集
 
伊達順之助

同家は伊達宗城の次男伊達宗敦を祖とする。宗敦は慶応4年3月に仙台藩主の伊達慶邦の養子となったが、戊辰戦争で慶邦ともども政府軍に抗した罪により蟄居が命ぜられる。翌年赦免され、慶邦の幼少の息子の宗基に代わって仙台藩知事となり、廃藩置県まで務めた[49][50]

廃藩置県後も宗敦は仙台伊達家の戸籍に入っていたが、明治17年に至って分家して別戸を編製し、終身華族に叙されたのを経て、明治22年5月11日に永世華族として男爵位を与えられた。その後宗敦は貴族院の男爵議員に当選して務めた[49][47]

明治44年1月に宗敦が死去した後、その長男伊達宗経が男爵位を継承。宗経夫人益子は、佐野常樹の三女。昭和11年7月に宗経が死去した後は、その長男宗直が男爵位を継承した[49]。宗直夫人の正枝は、田村隈次長女で清浦恒通(第23代内閣総理大臣清浦奎吾子爵の六男)の養女[62]。宗直の代の昭和前期に男爵家の邸宅は仙台市南小泉字鍛冶屋敷にあった[64]

宗敦の六男である伊達順之助は、立教中学在学中に拳銃で不良を射殺したことで華族礼遇停止処分を受け、その後大陸浪人として満州に渡って馬賊の頭目になり、大正5年頃には蒙古独立運動家パブジャップ将軍が率いる蒙古独立軍に参加。同14年には張作霖軍で少将となり中国に帰化。満州事変の際には日本軍の別働隊として華北国境で戦い「鬼将軍」の異名をとった。昭和13年には「満州国軍大将」を自称して中国人部隊の山東自治連軍総司令として天津に入城したが、同軍は昭和15年に日本軍により解体され、その後青島で海軍顧問の職を得ていたが、戦後に中国軍に逮捕され昭和23年に上海で銃殺刑に処された。その劇的な生涯は話題になり、檀一雄の『夕日と拳銃』の主人公のモデルとなった[65]

伊達男爵家(宗倫)

編集

同家は伊達宗城の七男(八男とも)伊達宗倫(経丸)を祖とする。明治25年5月に宗城は、宗城の養子の伊達宗徳侯爵に下賜された第15国立銀行株券をすべて宗倫に譲渡することで華族の体面を維持できるだけの財産を用意するので、宗倫を分家のうえ華族に列してほしいと宮内大臣土方久元に請願した[48]。この請願は許可され、明治25年5月30日に宗倫は華族の男爵に叙せられた[48]

宗倫は直後の10月11日に死去し、宗城の十男伊達宗曜が養子として男爵位を継承[66]。宗曜は貴族院の男爵議員に当選して務めた[66]。宗曜の夫人富貴子は伊達宗孝九女[66]

大正11年7月に宗曜が死去した後、その長男の伊達宗光が男爵位を継承。宗光が昭和3年11月に隠居した後、宗光の長男伊達宗克が男爵位を継承。彼は陸軍歩兵少佐だった。彼の代の昭和前期に伊達男爵家の邸宅は東京市赤坂区青山南町にあった[67]。宗克の先妻の生子は一条実輝公爵の五女[66]。後妻の田鶴子は元田敏夫長女[66]

伊達男爵家(亘理)

編集

同家は旧仙台藩において2万3180石余を知行していた一門家臣だった家であり、「亘理伊達家」と呼ばれていた。幕末維新期の当主伊達邦成は、戊辰戦争後に仙台藩から所領を没収されたため、旧臣を引き連れて北海道へ移住し、伊達村の開拓にあたった[68]

北海道開拓に従事した功績から、北海道庁長官永山武四郎が、邦成について、当別の伊達邦直と合わせて授爵あるよう政府に請願。宮内省の審議の結果、勲功が認められ、明治25年10月15日付けで華族の男爵に叙せられた[69]

邦成が明治37年に死去した後、長男のが男爵位を継承し、基が昭和3年1月に死去した後は、その長男伊達成勲が男爵位を継承しているが、成勲も昭和7年3月に死去し、加藤泰秋子爵の六男廉夫がその養子として男爵位を継承している[70]。廉夫の代の昭和前期に男爵家の邸宅は北海道有珠郡伊達町字梅本にあった[71]

伊達男爵家(当別)

編集

同家は旧仙台藩において1万4000石余を知行していた一門家臣だった家であり、「岩出山伊達家」と呼ばれていた。幕末維新期の当主伊達邦直は、戊辰戦争後に仙台藩に所領を没収されたため、旧臣らとともに北海道石狩郡当別町へ移住して開拓にあたった[68]

北海道開拓に従事した功績から、北海道庁長官永山武四郎が、邦直について、亘理の伊達邦成と合わせて授爵あるよう政府に請願したが、実現する前に邦直は明治24年1月に死去。邦直の孫にあたる正人が当別伊達家を相続し、明治25年10月15日付けで祖父の北海道開拓の功により華族の男爵に叙せられた[68]。成長後には当別町長を務めた[72]。昭和前期にも男爵家の邸宅は北海道の当別町にあった[73]

その他の伊達家

編集
 
伊達みきお

お笑いコンビ・サンドウィッチマン伊達みきおと、声優伊達さゆりは伊達氏の支族大條氏の末裔である。大條家は仙台藩時代には亘理郡坂元城主として4000石の所領を有しており、明治時代に当時の大條家第17代・道徳(伊達宗亮:みきおの高祖父)が伊達に復姓していた。みきおらはこの大條伊達家の分家の家の出である[74]。なお、さゆりはみきおの姪に当たる。[75]

伊達氏族

編集

宗家歴代当主

編集

(仙台藩主→伯爵

  1. 伊達朝宗(念西公)
  2. 伊達宗村(念山公)
  3. 伊達義広(覚仏公)
  4. 伊達政依(願西公)
  5. 伊達宗綱(真西公)
  6. 伊達基宗(誠志公)
  7. 伊達行宗(念海公)(初名:行朝)
  8. 伊達宗遠(定叟公)
  9. 伊達政宗(儀山公)
  10. 伊達氏宗(受天公)
  11. 伊達持宗(天海公)
  12. 伊達成宗(瓊岩公)
  13. 伊達尚宗(香山公)
  14. 伊達稙宗(直山公)
  15. 伊達晴宗(保山公)
  16. 伊達輝宗(性山公)
  17. 伊達政宗(貞山公) 最初の仙台藩主
  18. 伊達忠宗(義山公)
  19. 伊達綱宗(雄山公)
  20. 伊達綱村(肯山公)
  21. 伊達吉村(獅山公)
  22. 伊達宗村(忠山公)
  23. 伊達重村(徹山公)
  24. 伊達斉村(桂山公)
  25. 伊達周宗(紹山公)
  26. 伊達斉宗(英山公)
  27. 伊達斉義(正山公)
  28. 伊達斉邦(龍山公)
  29. 伊達慶邦(楽山公)
  30. 伊達宗基(伯爵)最後の仙台藩主、初代藩知事。明治3年に家督は宗基のまま宗敦が2代藩知事に就任。
  31. 伊達邦宗(伯爵)
  32. 伊達興宗(伯爵)
  33. 伊達貞宗
  34. 伊達泰宗

伊達氏庶流家

編集
陸奥国内
陸奥国外

派生氏族

編集

通字

編集

初代・朝宗以降、ほとんどの歴代当主が「」(むね)の通字を使用する。ただし、江戸時代に伊達綱村仙台藩第4代藩主)が父・綱宗と同名になるのを避け、第2代・宗村に由来する「」(むら)の字を使用してから、第8代藩主・斉村までの間「村」が通字となった。

室町時代の歴代当主は足利氏(初め鎌倉公方家、のち足利将軍家)から、江戸時代の歴代仙台藩主は徳川将軍家から、それぞれ偏諱を拝領しており、例えば、仙台藩第6代藩主・伊達宗村は、第2代当主・宗村と同名であるが、「宗」は将軍・徳川吉宗から偏諱として拝領したもので、それに通字の「村」を合わせたものである。

江戸時代後期には、第9代藩主・周宗、第10代藩主・斉宗の兄弟が「宗」の字を使用したが、その後は仙台藩主が短期間で次々と交代する一方で、将軍徳川家斉の治世が長期化したこともあって、偏諱の「斉」字に合わせて通名を使用することで同名となることを避けるため、通字を使用しない時期が続いていたが、明治維新期の宗基邦宗兄弟以降は再び「宗」が通字となり現在に至っている。

略系図

編集
太字は当主、実線は実子、点線は養子。

宗家(仙台藩主家→伯爵家)

編集
藤原山蔭
 
 
 
(4代略)
実宗
 
 
 
(2代略)
光隆
 
 
 
伊達朝宗1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伊佐為宗宗村2中村資綱為家
駿河伊達氏
田手実綱寺本為保
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
時綱
出雲伊達氏但馬伊達氏
義広3
 
 
 
政依4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗綱5桑折親長白石宗弘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
基宗6瀬上行綱
 
 
 
行宗7
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗遠8行資
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
政宗9大条宗行
大條氏[76]
伊佐岡行員
 
 
 
氏宗10
 
 
 
持宗11
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
懸田義宗成宗12小梁川盛宗留守郡宗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尚宗13葛西宗清[近江伊達氏]
出羽守
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稙宗14留守景宗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
晴宗15大崎義宣桑折宗貞梁川宗清村田宗殖極楽院宗榮実元亘理綱宗亘理元宗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩城親隆輝宗16水沢伊達家
留守政景
石川昭光杉目直宗秋田伊達家
国分盛重
亘理伊達家
成実
重宗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩谷堂伊達家政宗17政道(小次郎)涌谷伊達家
伊達定宗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宇和島伊達家
秀宗
忠宗18宗清岩出山伊達家
宗泰
宗綱宗信[村田伊達家]
宗高
宗実一関伊達家
宗勝
亘理宗根五郎八姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光宗田村宗良登米伊達家
宗倫
綱宗19宗規宮床伊達家
宗房
飯坂宗章宗興
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
綱村20川崎伊達家
村和
宗贇村直村景[77]吉村千之助千勝右近
 
 
 
吉村21
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
[伊達右京家]
村風
宗村22田村村隆村良
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重村23堀田正敦土井利徳村倫土井利置村幸田村村資宗充
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉村24田村宗顕宗充伊達斉義
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
周宗25斉宗田村邦行斉邦
 
 
 
 
 
斉宗26伊達茂村
 
 
 
斉義27
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉邦28慶邦
 
 
 
慶邦29
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗基30邦宗茂村[仙台伊達家分家]
宗敦[78]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
邦宗31宗経順之助(張宗援)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
興宗32宗英東園基文宗美宗直宗義政之張宗貴
 
 
 
 
 
貞宗33宗博
 
 
 
泰宗34

分家(宇和島藩主家→侯爵家、吉田藩主家→子爵家)

編集
1 = 宇和島当主、①= 吉田当主。
[仙台伊達家]
政宗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
[宇和島伊達家]
秀宗1
忠宗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗実宗時宗利2桑折宗臣宗職宗則[吉田伊達家]
宗純
綱宗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗贇3村豊宗保宗贇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗相村年4田村村顕桑折宗恒村豊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
村候5島内徳風青木一貫村澄上杉義枝久徳成朝恒川久定玉造成要村信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山口直清村寿6松田常辰村賢
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直勝松根候智宗紀7蒔田定邦宗翰村高村芳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直信伊達宗城伊達宗孝宗城8宗徳松平〈深溝〉忠淳宗翰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伊達宗敬宗徳9真田幸民宗敦奥平昌邁瀧脇信広牧野忠良蒔田広城[宇和島伊達家分家]
宗倫
宗曜宗孝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗陳10本多康虎[宇和島伊達家分家]
紀隆
土居剛吉郎丹羽長徳一柳直徳二荒芳徳宗曜宗敬片倉建吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗彰11宗彰宗光宗克宗定
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗禮12宗忠宗克宗起定宗
 
 
 
 
 
 
 
宗信13宗宏定宗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
定清定継
 
 
 
定継

但馬伊達氏

編集

(出典:『八鹿町史』[79]、『兵庫県史』[80]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
時綱 義広
 
 
 
朝綱
 
 
 
宗綱
(貞基)
 
 
 
貞綱
(道西)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直綱 義綱
 (道円)
 
 
 
朝綱
(真信)

各系図による初期系図の差異

編集
  • 『伊達正統世次考』『寛政重修諸家譜』『永禄伊達系図』『福島県史』『福島市史』
    伊達氏初代も常陸入道念西も朝宗とし、2代を為重=宗村としている。
  • 寛永諸家系図伝(寛永諸家譜)』『南豫史』
    伊達氏初代は朝宗とし常陸入道念西は宗村としている。
  • 『伊佐早本系図』
    伊達氏初代も常陸入道念西も宗村とし、2代を義広としている。
  • 『駿河伊達文書』[81]藩翰譜
    伊達氏初代も常陸入道念西も宗村とし、2代は資宗=義広とし、3代に時綱を挙げる。
  • 『雲但伊達家系図』[82]
    伊達初代も常陸入道念西も為宗(念西の長子も為宗となっているので誤記か?)とし、時綱・義広の兄弟を念西の子とする。
  • 『藤氏飯田系譜』
    伊達初代も常陸入道念西も宗村とし、宗村の前名を頼宗とする。また、宗村を中村常陸二郎としている。
  • 「当午山満勝寺の比丘知恩の文」
    常陸入道念西を朝宗としているが、有宗が早世したから宗村が襲封したとある。
  • 『会津史』(巻之二・第三篇伊達氏の項)
    朝宗と宗村は従兄弟の関係で、朝宗の嗣子有宗が早世したので宗村が継いだとある。
  • 中村城中村八幡宮の伝承」
    伊達氏初代も常陸入道念西も宗村とし、朝宗と宗村は親子で、中村氏は朝宗の次男の朝定が継いだとある。
  • 小林清治作成
    伊達初代も常陸入道念西も宗村とし、2代は為重、3代はその子義広とする。

主要家臣

編集

関連城砦

編集

家紋

編集
  1. 竪三引両 - 文治5年(1189年)、奥州藤原氏討伐の際に朝宗が源頼朝より拝領した。もとは「幕紋二引両」だったが、のちに竪三引両に改めた。仙台市章(昭和8年(1933年)9月5日制定)のモデル。
  2. 仙台笹(竹に雀) - 上杉定実より養子縁組の引き出物として伊達実元に贈られたもの(上杉笹)が原型であり、現行の紋は伊達宗家がこれを変形したものである。本来の所有者である亘理伊達家をはじめとする伊達各家が用いる「竹に雀」の紋は、宗家の紋より竹の葉や節の数などが少なくなっている。中央には「阿吽の雀」がおり、左側の雀が阿形で腹を見せて飛び、右側の雀が吽形で背を見せて飛んでいる姿であることが多い。笹かまぼこすずめ踊りなどはこの家紋に因んで命名されたものである。伊達泰宗が商標登録した。
  3. 宇和島笹(竹輪笹に向かい雀) - 宇和島藩で、宗家の紋をアレンジしたもの。雀が阿吽で、飛び方も違う。
  4. 雪に薄 - 伊達氏独自の紋で輝宗、政宗が使用。
  5. 十六菊 - 政宗が豊臣秀吉より拝領(天皇より下賜されたとの説もある)
  6. 五七桐 - 政宗が豊臣秀吉より拝領
  7. 九曜 - 政宗が細川忠興より貰い受ける。
  8. 鴛鴦の丸 - 政宗が近衛家より拝領
  9. 牡丹 - 綱村が近衛家(関白)より拝領
  10. 蟹牡丹 - 吉村が牡丹紋を変形
  11. 日の丸 - 「伊達家兵器巻」に伊達家の軍旗として日の丸に酷似した日之丸大龍が描かれ、また、狩野探幽筆「伊達政宗甲冑像」にも伊達政宗の背にはためく日の丸に酷似した日之丸大龍の軍旗が描かれている。

史料

編集
  • 『伊達治家記録』
    輝宗から慶邦まで(1564年 - 1868年)の伊達家の編年体公式記録。全529巻578冊。
  • 『伊達世臣家譜』、『伊達世臣家譜続編』、『伊達世臣家譜略記』
  • 『仙台藩家臣録』、『元禄補遺仙台藩家臣録』
  • 『伊達家史叢談』
  • 『東藩史稿』

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ a b c 明治2年6月17日の版籍奉還時、藩財政と藩知事個人財産の分離のため、藩の実収入(現米)の十分の一をもって藩知事の個人財産の家禄と定められた。
  2. ^ 旧宇和島藩は現米5万2420石(表高10万石)で現米5万石以上15万石未満の旧中藩に該当[42]
  3. ^ 旧仙台藩は現米6万7740石(表高28万石)で現米5万石以上15万石未満の旧中藩に該当[42]
  4. ^ 減封前の仙台藩の内高は約100万石にも達しており、例え税収高である現米が減封後と同じ表高の約4分の1であっても、約15万5000石以上の現米で侯爵の基準となる大藩に相当する。
  5. ^ 旧伊予吉田藩は現米1万4730石(表高3万石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[60]

出典

編集
  1. ^ 佐竹氏に移った国分(伊達)盛重が祖。
  2. ^ 伊達朝宗の四男の為家を祖とする駿河伊達氏の支族。
  3. ^ 紀州伊達家の分家。宗光の外交官・政治家としての功により叙爵。
  4. ^ a b c 日本大百科全書(ニッポニカ)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 旺文社日本史事典 三訂版 百科事典マイペディア『伊達氏』 - コトバンク
  5. ^ 小田部雄次 2006, p. 325/333/345.
  6. ^ 文書では南朝年号で「えんけん四年」(延元4年)と記されている。
  7. ^ 主な収蔵品(ローマ教皇にあう) - 仙台市博物館
  8. ^ 羽下徳彦「イタテとタテ」(『日本歴史』633号、2001年2月。63 - 65頁)
  9. ^ a b 仙台市民図書館編 編者種部金蔵『要説 宮城の郷土史』 171頁-174頁
  10. ^ 寛政譜 1923, p. 1141.
  11. ^ a b c d e f 宮城県史編纂委員会 1966, p. 7.
  12. ^ 伊達町史編纂委員会 2001, p. 181,183.
  13. ^ 伊達町史編纂委員会 2001, p. 181.
  14. ^ 伊達町史編纂委員会 2001, p. 182.
  15. ^ 国立歴史民俗博物館所蔵、『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.390
  16. ^ 真岡市史案内第4号・P69「中村氏」
  17. ^ 茨城県指定史跡の伊佐城跡(茨城県筑西市中館)に行朝の供養塔がある。
  18. ^ 『駿河伊達家文書』では、この時に成宗が奥州探題職を得たとしているが、当時の探題は依然として成宗正室の実家・大崎氏である。
  19. ^ 118 伊達政宗が藤次郎と称したのは何故か”. 要説宮城の郷土誌 (1983年)(仙台市民図書館,種部金蔵 編)p.312. 仙台市 (2014年). 2011年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年8月19日閲覧。
  20. ^ 『津川町史』(新潟県東蒲原郡津川町、1969年)
  21. ^ a b c d e f 新田完三 1984, p. 432.
  22. ^ デジタル大辞泉『伊達政宗』 - コトバンク
  23. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『伊達政宗』 - コトバンク
  24. ^ a b 新田完三 1984, p. 433.
  25. ^ a b 百科事典マイペディア『仙台藩』 - コトバンク
  26. ^ 新田完三 1984, p. 433-436.
  27. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』
  28. ^ a b 新田完三 1984, p. 129.
  29. ^ 新田完三 1984, p. 891.
  30. ^ 新田完三 1984, p. 131/893.
  31. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・旺文社日本史事典 三訂版『伊達騒動』 - コトバンク
  32. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『仙台藩』 - コトバンク
  33. ^ 藩名・旧国名がわかる事典『仙台藩』 - コトバンク
  34. ^ 新田完三 1984, p. 436.
  35. ^ a b 新田完三 1984, p. 131.
  36. ^ a b c 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 25.
  37. ^ a b c d 石川健次郎 1972, p. 39.
  38. ^ a b c 刑部芳則 2014, pp. 105–106.
  39. ^ 石川健次郎 1972, p. 38.
  40. ^ 石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/60 国立国会図書館デジタルコレクション 
  41. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『伊達宗城』 - コトバンク
  42. ^ a b 浅見雅男 1994, p. 123.
  43. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 325.
  44. ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 56.
  45. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 59.
  46. ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 60.
  47. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 345.
  48. ^ a b c d 松田敬之 2015, p. 433.
  49. ^ a b c d 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 58.
  50. ^ a b 工藤寛正 2008, p. 508.
  51. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『仙台藩』 - コトバンク
  52. ^ 石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/63 国立国会図書館デジタルコレクション 
  53. ^ a b c d 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 55.
  54. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 137.
  55. ^ 小田部雄次 2006, p. 222.
  56. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 223-224.
  57. ^ 松田敬之 2015, p. 22-28.
  58. ^ 石川健次郎 1972, p. 44.
  59. ^ 石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/64 国立国会図書館デジタルコレクション 
  60. ^ a b 浅見雅男 1994, p. 151.
  61. ^ 小田部雄次 2006, p. 333.
  62. ^ a b c d e 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 63.
  63. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 360.
  64. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 695.
  65. ^ 20世紀日本人名事典『伊達 順之助』 - コトバンク
  66. ^ a b c d e 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 62.
  67. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 656.
  68. ^ a b c 松田敬之 2015, p. 434.
  69. ^ 松田敬之 2015, p. 431.
  70. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 67.
  71. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 676.
  72. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 65.
  73. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 494.
  74. ^ 『週刊朝日』 2013年3月29日号、朝日新聞出版、2013年3月19日、111頁。ASIN B00BWFMX52 
  75. ^ 「ラブライブ!」声優・伊達さゆり 「サンドウィッチマン」伊達みきおの姪と初告白”. スポーツニッポン新聞社. 2024年3月23日閲覧。
  76. ^ この系統からサンドウィッチマン伊達みきおが出る。
  77. ^ 涌谷伊達氏・村元の次男。
  78. ^ 宇和島藩主・宗城の次男。
  79. ^ 八鹿町役場 1971, p. 131.
  80. ^ 兵庫県史編集専門委員会 1975, p. 712.
  81. ^ 『駿河伊達家文書 京都大学文学部・博物館の古文書』
  82. ^ 大日本古文書 家わけ第三 伊達家文書之一』
  83. ^ 元亀の変で討ち死に。
  84. ^ 伊達稙宗の娘婿で天文の乱では稙宗方。
  85. ^ 津田豊前
  86. ^ 孫兵衛
  87. ^ 伊達忠宗の臨終に際し伊達綱宗擁立を推進。伊達騒動では反兵部派として奔走した。
  88. ^ 玄蕃
  89. ^ 白河結城氏の末で、一門十席白河家の祖。伊達綱村の乳兄弟にあたる。
  90. ^ 『伊達世臣家譜』の編纂を行った。
  91. ^ 大槻三賢人
  92. ^ 北海道開拓の功により男爵を授爵

参考文献

編集
  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 
  • 石川健次郎「明治前期における華族の銀行投資―第15国立銀行の場合―」『大阪大学経済学』第22号、大阪大学経済学部研究科、1972年、27 - 82頁。 
  • 刑部芳則『京都に残った公家たち: 華族の近代』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー385〉、2014年(平成26年)。ISBN 978-4642057851 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。ISBN 978-4642035859 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342 
  • 工藤寛正『江戸時代全大名家事典』東京堂出版、2008年(平成20年)。ISBN 978-4490107258 
  • 伊達町史編纂委員会 編『伊達町史』 第1巻《通史編 上 伊達町の自然・原始古代・中世・近世》、伊達町、2001年3月31日。NDLJP:9644972 (要登録)
  • 兵庫県史編集専門委員会 編『兵庫県史』 第2巻、兵庫県、1975年3月31日。NDLJP:9573664 (要登録)
  • 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN 978-4642014724 
  • 宮城県史編纂委員会 編『宮城県史』 2巻《近世史》、宮城県史刊行会、1966年3月31日。NDLJP:3005480 (要登録)
  • 『八鹿町史』 上巻、八鹿町役場、1971年5月30日。NDLJP:9573675 (要登録)
  • 「巻第七百六十二 山蔭流」『寛政重脩諸家譜』 第四輯、國民圖書、1923年5月23日。NDLJP:1082713  

関連項目

編集

外部リンク

編集