伊達宗彰
伊達 宗彰(だて むねあき、1905年〈明治38年〉3月6日[1] - 1969年〈昭和44年〉11月29日[1])は、日本の華族、政治家・実業家。貴族院侯爵議員。宇和島伊達家11代当主。
伊達 宗彰 だて むねあき | |
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伊達宗彰(『貴族院要覧』より) | |
生年月日 | 1905年3月6日 |
没年月日 | 1969年11月29日(64歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
所属政党 | 火曜会 |
称号 |
正四位 従三位 勲四等 |
配偶者 | 伊達美智子 |
子女 |
長男・伊達宗禮 次男・伊達宗忠 長女・葛城素子 次女・渡部順子 |
親族 |
祖父・伊達宗徳(貴族院議員) 養父・伊達宗陳(貴族院議員) 叔父・丹羽長徳(貴族院議員) 叔父・二荒芳徳(貴族院議員) 叔父・北条雋八(参議院議員) 従弟・北条浩(参議院議員) |
選挙区 | (侯爵議員) |
在任期間 | 1935年3月5日 - 1947年5月2日 |
経歴
編集初名は彰。1909年(明治42年)、伯父である伊達宗陳の養子となる。養父の死去に伴い1923年(大正12年)3月10日、家督を相続し侯爵を襲爵[1]。家督の相続にともない、1925年(大正14年)3月14日、名前を宗彰に改めた[2]。1927年(昭和2年)、東京帝国大学法学部を卒業し、大蔵省に入省する。また、斎藤実内閣では、新居善太郎や入間野武雄ら二人と共に、内閣総理大臣秘書官の一人として活躍した。1935年3月5日、満30歳に達し貴族院侯爵議員に就任[3](火曜会に所属して1947年5月2日の貴族院廃止まで在任[4])。
その後、大蔵事務官、大蔵省大臣官房財政経済調査課長、大蔵省広島財務局長などに就任した。華族ということで部下ははじめ緊張したが、いたって庶民的で部下思いの穏やかな人柄に、みなたちまち魅了されたという。
1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下の日はたまたま在局しておらず直撃の難を逃れ、直後に庁舎(財務局は、堅牢建物ということで、袋町の日銀に疎開していた)に駆けつけて職員の救護にあたった。この時、外傷の少ない元気な者を指揮してさまざまな活動(負傷者の看護・移送、遺体の移送火葬など)を行なったが、元気に見えた者が突然鼻血を出して死んでいくのを見て、後年「原爆のことをよく知らなかった。気の毒なことをした」ということを書き残している。草履ばきで髪を振り乱し、部下の切り傷火傷の手当て看病から遺体の移送、そして木材を集めて火葬まで自らおこなったことについて、部下は「このような局長が他にいただろうか」と感謝している。
昭和42年、この時の部下の手記を集めた「原爆の記」を自費出版したが、これは部数も少なかったため、生き残った旧部下らが昭和55年に新しい手記と伊達局長の思い出の記を加えて再販した。(「広島財務局原爆被災者の記録 原爆の記」庭山慶一郎編 財団法人大蔵財務協会刊)。
1957年に日本不動産銀行常務取締役、1964年に清水建設相談役などに就任した。1949年には宇和島城を宇和島市に寄付している。64歳で没すると、家督は嫡男・宗禮が継いだ。死因は心筋梗塞。
栄典
編集家族
編集脚注
編集参考文献
編集- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 伊達宗陳 |
侯爵 (宇和島)伊達家第3代 1923年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |