伊達尚宗
室町時代後期から戦国時代の武士
伊達 尚宗(だて ひさむね)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武士。官位は従五位下・大膳大夫。伊達氏13代当主。伊達政宗の高祖父。
長谷川養辰「伊達尚宗像」 (仙台市博物館蔵) | |
時代 | 室町時代後期 - 戦国時代 |
生誕 | 享徳2年(1453年) |
死没 | 永正11年5月5日(1514年5月28日) |
諡号 | 香山公 |
戒名 | 護国院殿香山円桂大居士 |
官位 | 従五位下大膳大夫 |
氏族 | 伊達氏 |
父母 | 父:伊達成宗 母:大崎教兼娘・慧厳院 |
兄弟 | 尚宗、葛西宗清、出羽守 |
妻 | 積翠院 |
子 | 稙宗、留守景宗、久松丸、最上義定継室 |
生涯
編集12代当主・伊達成宗の嫡男。家の慣例により、室町幕府9代将軍・足利義尚より偏諱の授与を受けて尚宗と名乗る。
父から家督を相続した年代は詳しく分かっていない。これは、父の成宗が死没した年が詳しく分かっていないからである(伊達氏の史書では、長享元年(1487年)説が有力なので、その前後に継承したと思われる)。
越後守護上杉氏から正室(伊達氏の記録では上杉定実の娘とされるが、上杉氏の記録では上杉房定、異説ではその弟である上杉房実の娘(定実の姉妹))を迎える[1]。
延徳2年(1490年)、米沢城北方に位置する塩野毘沙門堂を再建している。
明応3年(1494年)4月、伊達氏の領内で騒乱が発生したため、一時的に会津の蘆名盛高の下に避難した。復帰後は京都の放浪将軍・足利義澄を領内に迎え、これを擁護することで伊達氏の勢力を盛り上げようとしたが、失敗した。
系譜
編集脚注
編集- ^ 長谷川伸「南奥羽地域における守護・国人の同盟関係-越後上杉氏と伊達氏の場合-」『地方史研究』254号(1995年)および「越後天文の乱と伊達稙宗-伊達時宗丸入嗣問題をめぐる南奥羽地域の戦国期諸権力」『国史学』第161号(1995年)