「日本で原発が動き出したのはオイルショック後」と放言するPolaris_sky氏
「日本の原発は高度経済成長を支えた」という誇大宣伝が1000件以上RTされる
上記のように誇大宣伝する者がいる一方で、推進派の「有名人」(原発憲兵)にはこんなことを布教している者もいる。
オイルショック後、日本の電力の30%を担ってきた原子力発電所が経済成長をなんで牽引してないの? #英雄橋 @herobridge " この20年、原発が経済成長を牽引して来た事実はないし、今後もない
— Polaris (@Polaris_sky) 2012, 8月 22
@naoyocn @usagi29umai へ?なんで電力会社の話をしているのに、実験炉のもんじゅに話をすり替えちゃったことが滑稽なだけwそもそも、オイルショックからはじまったエネルギー危機を解決するための策として過去に構築した実験炉の話をしてもしかたないでしょ。
— Polaris (@Polaris_sky) 2014, 3月 17
@andoukita なんだ、その程度の反論しかできないの?レベル低っw日本で原発が動き出したのはオイルショック後、そのあと40年は動いてるからおたくの太陽光発電で発電してる程度じゃ到底及ばないし、1基でも再稼働したらすぐ取り返せるんだが。
— Polaris (@Polaris_sky) 2014, 3月 28
>オイルショック後、日本の電力の30%を担ってきた原子力発電所(魚拓)
>オイルショックからはじまったエネルギー危機を解決するための策(魚拓)
>レベル低っw日本で原発が動き出したのはオイルショック後(魚拓)
ポラリス先生のご見解です。凄いなぁ、日本産業界の先見性と突貫工事(棒)。
こういう人ってつくづく年表とか見ないよね。周囲のお仲間も誰も彼の放言をフォローしてないし。lm700j君とかひまわりアイコンとか。彼等は高橋一博氏と違って無闇に攻撃的なのが特徴だが、水に落ちた犬を叩くために徒党を組んだだけなので、相互の信頼関係みたいなものはないんだろうね。
さて、前回記事でも示したが、1973年冬のオイルショックまでに運開していた原発は5機あり、ショック直後の1974年にも3機が稼動している(前回記事はオイルショックで救援併入された福島2号機までだったが今回は1974年分も全てを列挙)。
・東海発電所:1966年
・敦賀1号機:1970年
・美浜1号機:1970年
・福島1号機:1971年
・美浜2号機:1972年
・島根1号機:1974年3月
・福島2号機:1974年7月
・高浜1号機:1974年11月
ところで、オイルショックがあって翌年に稼動できる程原発って簡単に造れただろうか?違うよね。何年も前から工事始めて完工しただけだ。で、チマチマと増設・小改良を続けて30%を担うようになったのは昭和から平成への境目だということも電源別発電電力量の実績などを調べてみると大体つかめる。結果として、推進派がバカにする高橋裕行氏のコメントに出てくる「20年」の方が3割が維持された期間としては近い。ポラリス氏は40年間と思っているらしいが誇大宣伝である。
コラム
世界に目を向けると、オイルショックを機に一気に同型の原子炉を「量産」した例もあって、フランスが該当する。フランスの原発コストが安価で知られてきたのは同タイプの炉を短期間で建設するという周到な計画に基づいた結果であって、只原発だから安いと宣伝していた訳ではない。日本でも標準化の努力はされたが、フランスほどの結果は出せておらず、原子炉は大きくPWR・BWRの2系列に分かれ、更に各サイトで少しずつ仕様が異なっている。
これだけで終わっては面白くないので、オイルショック直前にどのような原発建設を構想していたか、電力業界で作る中央電力協議会の公表資料を下記に引用しよう。
出典:『火力原子力発電』1973年5月
アルファベットで表しているものは「場所を特定しない」条件で計画に組み込まれたものである。同時期に2箇所で立地活動をしている場合や、立地点の方を後から探す場合などには、このようなカウントの仕方が便利だろう。また、運開時期は計画上のもので実際とは異なる。以前紹介した東電で福島の敷地高を決めた小林健三郎氏が行った適地研究と見比べるのも良いだろう。
携帯で読んでいる方のために各社の計画数だけ箇条書きしてみよう。
・北海道電力:2機
・東北電力:5機
・東京電力:25機
・中部電力:9機
・北陸電力:3機
・関西電力:22機
・中国電力:4機
・四国電力:4機
・九州電力:5機
・日本原電:3機
壮観の一語に尽きる。オイルショック前の計画数だけで福島事故前の建設実績55機を超え、80機以上。実績数の方が多いのは原電と九電位か。私は事故後、脱原発寄りに考え方を変えたが、こうした大風呂敷に一種の魅力がある(あった)ことは否定しない。未成鉄道や高速道路計画とかと同種の趣があるし、当時どのような未来を思い描いていたか、技術観の一端を知る事も出来るからだ。本来、原発推進派の一部は「新幹線は何km出る」と同じ無邪気な感覚でこの種の計画を掘り起こしては弄んでいたものだが、最近は劣化が激しく、技術史的にも何の益も無い。軍クラのようなオタク集団は広報資料に罵倒加えてばら撒くだけだし、業界人は明日のお飯のためか、ひたすら聞き飽きたホラを吹くのに必死である。
例えば泊原発に見える国策としての原発建設(2014.8.9)というまとめで次の指摘がある。
@HironobuSUZUKI @sugi_moira @keitarou1212 三菱重工の受注サイクルをざっと調べたんだけど、伊方3と泊3は、原電敦賀3,4(APWR)とコマンチェピーク3,4(US-APWR)までの製造ライン維持の為のつなぎなんだよね。経営上の合理性は無い。
— LN BB-45 (@BB45_Colorado) 2014, 8月 8
上記の表を見ると北海道電力は2機だけのラインナップで、泊3号機の芽は無かったことが分かる。本州の過剰なまでの計画数と比較すると、この事実はコロラド氏の指摘を裏書きする。例えば「他社での立地が行き詰ったため障害の少ない地方電力を狙って増設」といった道筋が考えられる。このように、過去の計画表から汲み取れる内容は多いだろう。
本題に戻すと、ポラリス氏の説明はこの表からも誤りと分かる。更に言えば、1960年代、中央電力協議会はこれと同種の計画を毎年提出していた。
私は、電力会社が少しかわいそうになってきた。推進派の都合でオイルショック前の努力を無視されたり。外交官もそうだ。オイルショック後の解決策で一番役に立ったのはアラブ各国の機嫌を損ねない友好政策だと思うが。幾ら日本政府と業界が間抜けとは言え、ポラリス氏よりは周到である。原発も「少しは動き出していたが、沢山ある訳ではなかった」というだけのことなのだが、何でもゼロイチに還元するから珍論が跋扈するんじゃないのかな。今回の与太も↓正にこんな感じのコメントが相応しい案件。
昔の原発推進派は、発言が矛盾しないように、あれこれ考えていたものだが、最近の推進派は、矛盾だらけの発言しかしていないな。
もう、みんな 痴呆になったのか?
— onodekita (@onodekita) 2014, 8月 25
まぁその場その場で適当なPA(宣伝)を打って来た結果がこういったずさんだから自業自得でもあるが。レベル低っw
【追記】2014/8/25:運開の細部、中央電力協議会の表説明を改める。
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