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2022年9月の1件の記事

2022年9月 7日 (水)

あらかじめ失われていたドライサイト~福島第一建設期の盲点~

福島事故訴訟も提訴から10年が経ち、同種の訴訟が30もある状況となると、幾つかの傾向が見えてくる。

今回はその中で、いわゆるドライサイト論争についての見解を取りまとめる。これは、回避可能性に関する議論の入り口にあり、予見に比べて勝ち越しの頻度を下げる一因になっていると思われるからだ。

具体的には、福島第一原発の敷地の高さ、非常用電源の配置、水密化などの回避可能策が後知恵では無かったことについて2回に渡り、時系列順に追っていく。

数年前、このブログの「プロフィール」欄に過去記事一覧ページを設けた。

真剣に考える方は1つ1つの記事ばかりでなく全体の流れも追うだろうと思って設けたが、単行本とは異なり、分かりにくかったようだ。求められれば個別に解説などもしているが、いわば「頻出問題」については標準的な回答を作っておいた方が良いだろうと考えを改めた。また、論争の詳細化で、マスコミ好みのキャッチーな常套句や、思い付きでネットに放流された噂話的な情報は完全に価値を失った一方で、これまで発表する機会のなかった資料についても使いどころが到来したと感じている。

またこの記事では建設初期に敷地高と津波の関係について詳しく論じた、小林健三郎という東電の技術者を軸に述べる。勿論、他の重要人物についても随時紹介する(なお小林については数年前から取り上げている)。彼等の横顔を調べるのは、それが東電の意思決定に直結するからである。特に小林は、1号機の運転開始前に取締役になった。だが、一般的な原発事故本や訴訟では殆ど触れられていない。当ブログではそのような埋もれた事実を色々示していくので、今後の参考にしてもらいたい。

まず、ドライサイトと言う概念のおさらいをする。

検索すると上位に関西電力の説明がヒットするが、次のように説明している。

発電所敷地に津波を侵入させないこと。*新規制基準審査ガイドでは、重要な安全機能を有する設備またはそれを内包する建屋の設置位置高さに基準津波による遡上波が到達しないこと、または到達しないよう津波防護施設を設置していることと整理されている。

原子力ライブラリ(関西電力、リンク

ただし、事故後に規制庁などが使いだした「ドライサイトコンセプト」は本来の「ドライサイト」に比べ違いもあるようだ。東電原発事故群馬訴訟で国側は「敷地の高さ」に加えて「その他の方法」を挙げており、上記の関西電力の解説もそのようになっている。その事情を説明した部分を引用する。

「ドライサイト(Dry Site)」という言葉は,米国原子力規制委員会(NRC)が定める規制基準1.102「FLOOD PROTECTION FOR NUCLEAR POWER PLANTS」に出てくる専門用語です。この規制基準は,本件事故の約35年前(1976年)に策定されています。

そこでは,ドライサイトについて,以下のように定義されています。すなわち,「プラントは,設計基準水位より高い位置(above the DBFL1 )に建設されているため,安全関連の構造物,システム,及びコンポーネントは外部溢水の影響を受けない。」というものです。
つまり,「ドライサイト」とは,設計基準水位よりも高い位置に原発を設置することを意味します。

(中略)

ところで,国が創り出した「ドライサイトコンセプト」なる言葉は,本件事故の検証結果をまとめたIAEA事務局長報告書の附属書類である技術文書第2巻がヒントにされたものと思われます。

その文書では,正に「The dry site concept」という言葉が用いられています。ただし,その意味は,国の説明とは異なり,本来の「ドライサイト」と同じ意味,すなわち,原発の安全上重要な機器を全て「設計基準浸水の水位よりも高くに建設する」という意味で用いられています。

国は,この「ドライサイトコンセプト」という,いかにも高尚な響きのある言葉に目を付けて,本来の「高い位置に設置する」という意味から,「水を被らせない」という意味に歪曲したものと考えられます。

意見陳述書(ドライサイトコンセプトについて)2018(平成30)年6月19日 原子力損害賠償群馬弁護団(リンク

※一部記述を省略・誤記訂正

設計基準水位というのは、設置許可申請に記載した津波想定や、その後の見直しで国に提出した津波想定を指す。日本国内の原発は建設当時の設置許可申請によれば、すべてドライサイトであった。なお、この反対概念としてウェットサイトとは、災害想定が最初から高かったり、後で高く見直された結果、災害時には敷地が水浸しになる状態を指す。規制庁の考え方に合わせるなら、災害時の防潮堤などの高さが十分でなく、水浸しになる状態ということだろう。

この記事は添田孝史氏の著作を読むなど一定の前提知識のある方向けに書いているが、参考に、東電が福島事故を模式図にしたものを示す。

P105

非常用海水ポンプなどがあるのが海抜4mのエリア(通称4m盤)、原子炉建屋が建っているのが10m盤である。

【1】1966年・・・建設時3mのチリ津波を想定。敷地高を7mから10mに変更する。

死後出版された追悼集によると小林は、1965年12月に原子力部長代理となり、1966年5月には改組された原子力開発本部副本部長に就任した。追悼集に転載された『京大土木百年人物誌』の小林料氏(東電の後輩)による紹介では「公害・原子力問題等を提起する反対勢力に対し、終始、真摯に対応し、地方自治体の理解を得つつ、数多くの地点で立地を成功させた」そうである。

全てが破綻した今となっては、この経験は建前と本音の使い分けを徹底する、忖度の化け物であることを示唆する。端的に言えば自社に有利な事実は示すだろうが、不都合な話は簡単には出さないだろう。後述する博論と専門誌にもその一端が見える。

さて、東電は設置許可申請の直前に、土木業界向けにプレゼンを行っていた。講演者は小林より6年程年上で既に常務取締役だった田中直治郎(追悼記事はこちら)。以前も紹介したがその内容が実際の申請と相違している。

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原子炉建屋のあるエリアが10m盤ではなく7m程度しかない。

この講演で不思議なのは、第3図として提示された建物断面図では10mとなっている点だ。

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なお、田中は波(津波ではなく突発的な大波)が東海村より高く、最大10mだと述べている。

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防波堤を設けて減衰させるにしても、7mよりは大波と同じ高さの10mの方が何かと都合が良さそうに思える。

この相違は、講演の次の部分と照らし合わせると整合が取れる。

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敷地の造成は東電からゼネコンに直接発注し、当初計画は7mだった。以前詳しく論じたが、ターンキーの対象範囲ではない。それに対して、GEは10mを要求し、敷地図面の差し替えが間に合っていなかったので、「レベルについては多少の変更」と述べたのだろう。

小林健三郎が博士論文を書くのは数年後のこと。だから一旦その情報は無いものとして推測すると、防波堤があるとはいえ10mの大波に7mの敷地高は、台風時の高潮に弱いと考えられたのではないだろうか。

なお、図中にも赤字で示したが、この図だと配電盤(電源盤)やDG(非常用ディーゼル発電機)は1階に配置されている。後述するが、許可を取り、着工して2年程はこの配置が前提だった。後で地下室に移したのだ。

事故の翌月の朝日新聞記事で「米国のハリケーン対策のため地下室にした」という説が流され、それを今でも信じている人達が多い。この配置変更の経緯をきちんと書いた事故調査報告書が一つも無かったことがハリケーン対策説に拍車をかけた。大きな設計変更をしたら設置許可申請は出し直すので、それを追えばすぐに分かった話である。また、米国でも1階に配置しているプラントは複数あり、福島1号機より1年先行したGE製の敦賀1号機もDGは1階に配置している。従って、ハリケーン対策説は信憑性がまるでない。

ここで確認しておくべきことは、海抜7mから10mへ変更要求し、DGを1階に配置したのはGEの可能性が高い、ということだ。事故までの40数年中で、津波に対しては安全側の変更だったと言えるだろう。

私が2013年8月に書いたブログ記事では、この設計でも助からないと評したが、311時の津波は敷地の全域に渡って15mを超えていた訳でもなく、水密化されていない扉であっても、ある程度は水の侵入を阻んだため、建屋内部は1m程度の浸水で済んだ号機もあったことなどが、株代訴訟などで詳しく引用されている。だからDGと電源盤は1階という設計が維持されていただけでも、助かった可能性は大幅に上昇すると考えを改めた。

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情報の開示についても抜かりは無かった。ネットの無い時代に官庁や国会図書館に出向いて設置許可申請書を読むというのは、部外者には敷居が高く、設置許可申請書と言うものの存在自体も認知されていなかったと思われる。だが、上記1階の平面図は『電気雑誌OHM』1966年12月号に載った1号機の計画記事(リンク)に掲載された。同誌は地域のちょっと大きな書店なら売られていたから、時代性を加味すればこの点の公開性は十分であろう。著者は東電の管理職だった豊田正敏氏で、後に副社長に上りつめ、退職後は原子力懐疑派に転じてリベラルの受けは良かった。小林に比べると下位職に当たる。

【2】豊田正敏の嘘

なお豊田氏は事故後、ジャーナリストの斎藤貴男氏に次のようにコメントしている。

全部を見るわけではないし、第一、それぞれの担当者が見ているじゃないですか。あの時は工事が遅れ気味だったので、とにかく工期を守れ、急げ急げとばかり私は言っていた。

いや、本当は見てなきゃいけなかったのかもしれないが、私の、副社長の仕事はもっと大局的な、高速増殖炉とか、そういう問題なのであって、非常電源の配置なんてのは課長クラスの仕事ですよ。どこだってそうです。他の電力会社にも聞いてみるといい。

斎藤貴男『「東京電力」研究 排除の系譜』角川文庫(2015年11月)P57-58

まず一部は斎藤氏も言及しているのだが、このコメントには事実と嘘がある。職務分掌は組織の基本でそれ自体は正しい。しかし、豊田氏が副社長になったのはずっと後年のことであり、東電がTAPの名で事前研究をしていた1960年代前半は、技術課長の肩書で『電気計算』や『電気雑誌OHM』に投稿していた。

豊田氏の手になる福島第一の建設記事はCiniiでは4本あり、媒体の専門性は高い。その中で最初に出した上記『電気雑誌OHM』1966年12月号記事では東京電力原子力部とあり、『機械学会誌』1968年4月号(リンク)では職位は未記載だが、ほぼ同時である『電気学会雑誌』1968年4月号(リンク)、および後述の『電気雑誌OHM』1969年11月号(リンク)では原子力部部長代理であった。その他、1969年には社内の他の社員とつるまずに『原子力発電技術読本』(リンク)を刊行するなど、「急げ急げ」と言う割に対外発表には熱心だった(つるまずと書いたのは、他の社員達は分担で別媒体に執筆していたからである)。

増殖炉の担当ではなく、明らかに福島第一の担当であり、完全な部長としての権限さえ有していない。豊田氏の投稿実績はCiniiを使うだけでも大要が把握できるが、私が新聞や岩波科学に批判的なのは、彼を取材するにあたってそのような検証や事前の準備を行った形跡がなく、言い分のみを流したことである(一例のリンク)。安易なキャンセルカルチャー的発想で意見を言う場を与えないのは問題だろうが、あれだけ事故について書いてる割には何だかなぁ・・・と思うのである。

次に、豊田氏の言が正しいとすれば、東電の中では課長職が非常電源の配置を決める権限を持っていた時期もあったということ。もしそうなら約40年後、本店原子力設備管理部の土木調査グループが15.7m想定への対策を進言した時、止められてしまった行為(名前を取って株代訴訟地裁判決では武藤決定と呼ばれている)が、過剰介入やマイクロマネジメントの類であることを傍証する。しかも、同グループの課長職にあった高尾誠は津波対策を取りたいと考えていたが、3万数千名の社員の上に立つ東電首脳が開催していた、通称御前会議に出られる地位ではなかった(参考:海渡雄一『東電刑事裁判 福島原発事故の責任を誰がとるのか』彩流社P109)。

もっとも、豊田氏の主張とは異なり、取締役まであと一歩の地位で駐在していた小林健三郎の敷地高への拘りは、「課長の仕事」とはかけ離れていた。また「他社」である日本原電や東北電力は意思決定プロセスがある程度明らかになっているが、2000年代の原電はともかく、東北電力は取締役を経てOBとなっていた平井弥之助の存在が影響しているので(ただし検証の結果、世間で言われているほどではないことを確認。ブログ記事リンク)、これもまた、豊田氏の主張とは様相が違う。勿論、安全側への変更決定であれば、上位者によるその種の行為は必ずしも非難される性質のものではないだろう。

『OHM』記事を執筆した時点では1階に配置されていたので、実際に建設されて以降に係わった実務家と比べると、認識に齟齬が生じた可能性も考えられる。だが、上記の熱意から当時、配置は頭に入っていたと考える方が自然であり、言い分を率直に受け取るには難がある。余談だが、豊田氏は1号機の運転開始後に改良標準化に関する記事も投稿している。後続プラントで「改良」されたのは内部配置も含めてのことであり、関わっていたならその動機を含めて知らぬ筈がない。

豊田氏の評価はここまでとして、1966年以前の記録は十分発掘出来ていないので、津波にどの程度意識的だったかは分からないが、安全に配慮する設計変更が繰り返されれば、更に確実性の高い防護となっただろう。だが、続きを見ていくとそうはならなかった。

【3】1967年・・・2号機設置許可申請

2号機は1967年9月に設置許可申請を提出した。電気室は1階だが、非常用DGと蓄電池は地下1階に配置されている。この時点からこれら機器の地下配置が始まった。

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DGは1台だけという設計思想は変わっていないようだ。この2ヵ月前に米原子力委員会(AEC)で一般設計基準(GDC)の制定があった。詳細は後述するが、内容を吟味するため日本側は調査団を派遣したり調査報告をまとめるなどの対応を取っていたので、2号機の初回申請には含めなかったのだろう。なお、北側は1号機建屋の敷地なので仮に何かを追設しようとしても、増築は難しいことも分かる。

【4】1968年十勝沖地震・・・10m盤を信じていなかった現場

1967年1月、小林は原子力開発本部副本部長福島原子力建設所(駐在)の任を受けた。

翌1968年5月16日、十勝沖地震が発生し、日本各地に津波が到来した。この時、現場にいた日立の社員が2009年に回顧した文章が残っている。

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別の社員の記録も見てみよう。

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以上、東電は現場は4m盤はおろか、格納容器を設置した10m盤など全く信用せず避難命令を出した。震度4とは言え地上は揺れており、津波が起きるとすれば(実際に小さな津波は起きた)日本の近海。チリ津波の経験など、全く当てになるものでは無いことは、素人が考えても分かる。

当時の小林は現地駐在。出張でもしていない限り、様子は間近で見ていた筈だし、相応の高い立場だから、報告などで情報も入ってくる筈である。当時温めていた研究のテーマからも、関心を持っただろう。

【5】1968年11月・・・1号機の設計を大幅に変更

だが、後続の号機を含め、4m盤の設計はもう直せない所まで来ていたのだろう。この半年後の1968年11月、1号機は内部配置と設計を大幅に改め、DGと蓄電池をタービン建屋地下室に移転させたほか、HPCI系を追加しその部屋も新たに増設することにしたからである。この時、タービン建屋の海側にも地下室が設けられ、予備ディーゼル発電機室とされた。1号機専用のもの(A系)と比べると大型で、2号機と共用(B系)とされている。1990年代に2号機のB系専用化のため、空冷DGを増設するまではこの体制であった。

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変更の理由は、1967年7月、米原子力委員会が「一般設計基準」(GDC)を制定し、単一故障対策として多重化を取り決め、それを日本側でも適用したからである。

米国の動きに対応し、業界団体の一つ、原子力安全研究協会が『軽水型原子力発電所の安全性に関する現状調査報告書』を発行したのは1967年10月のことであった。2号機の設置許可申請の翌月である。

同報告書ではGDCの紹介に加え非常用電源のあり方についても検討した。その114ページによれば、当時の米国プラントでも多くはDGを1台設置の体制であった中、福島より先行するドレスデン2・3号機のBWRツインプラントでDGを計3台設置する方式を取っていた。

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国内ではPWRの関電美浜は当初からDGを2台設置していた。DGの台数決定要因として同112ページで外部電源系統の信頼度が挙げられている。私はPWR陣営の歴史には疎いが1965年6月、電源開発御母衣(みぼろ)幹線での事故から、大停電が発生したことがあった。この経験から、同じ60Hz地域で営業地域も隣接する関電が、事態を重視して取った措置ではないかと考える。

変更の内容は後年『敦賀発電所の建設』第III編第1章や『日本原子力発電三十年史』第2章第1節3(P86以降)に明記された。

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GE製BWRをターンキーで契約するという点で、敦賀1号機と福島第一1号機は共通しており、福島にも適用された。

ただし、原電は敦賀に設置する原子炉が1基であり、次の展望も描けていない状況だった。そのためDGは2台設置に改めた。一方で東電は福島で後続プラントの建設を計画中であり、ドレスデンのやり方で台数を節約した。

変更内容はDG以外にも多岐に渡る。当事者としては当たり前の前提だったかも知れないが、変更前後の比較や、審査内容の説明がなかったことは、問題だろう。なお、国による「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」の制定は1970年4月のことであり、日本電気協会規格JEAC 4603「原子力発電所保安電源設備の設計指針」が制定されたのは1971年のことである。いずれも福島第一1号機を設計していた時期には存在していない。

そんな大規模なレイアウト変更を検討中の時期に、十勝沖地震で現場事務所が高台避難の命令を出し、チリ津波対応の4mに疑問が生じた。もしこれを真面目に対応して4m盤の設計を改め、敷地高を上げたりポンプを収容する建屋などを追加したら、設計変更の範囲は更に広がってしまう。

高度成長期は、電力需要が年毎に激増する時代。電気新聞を読み返すと予備率に神経を尖らせてる様子が伝わってくる。そのような中で工期が守れないのは致命的であった。また、建屋建設を赤字で受注した鹿島なども更に赤字が膨らんでしまう(鹿島は先を見越してGEから建屋建設を赤字受注しサブコンとなった。その経緯は、当時の日刊工業新聞や社史に当たれば分かる)。津波に関して何も改めなかった理由はまぁ、その辺りだろう。豊田正敏氏も上述の通り「急げ」とせかすばかりであったと吐露している。

この時小さな津波しか来なかったから、却ってたかをくくったという可能性もあるか?、と一瞬思ったが、震源は北海道に限りなく近い東北の沖合であり、当初発表した震源は50km北にずれていたことで十勝沖の名が付いた。この経緯から日本近海とは言え福島からは距離があり、そうは考えないだろう。その傍証に東日本大震災の時は、震源が東北沖であることをニュース速報等で把握し、6mの警報だったにもかかわらず、10m盤からの人員退避を行った。だから、津波に吞み込まれた犠牲者はタービン建屋の点検に入った東電社員2名だけである(建物の中まで浸水するとは思わなかったのだろうか)。

原子炉周辺にいた東電社員達の証言を読むと、10m盤に想定外の波が来たかのように述べているものが目に付く。これこそ「後知恵」のバイアスを意識的、無意識的に使っている可能性を疑わねばならない。実際の行動を観察すれば、10m盤は避難先に指定される高台のような扱いではなく、津波想定に対する現場の不信は、一貫して残っていたと考えられる。東電本店の土木調査グループや原子力安全・保安院のような限られた場だけではなく、発電所で仕事をする人達の認識はドライサイト、ドライサイトコンセプトのいずれでもなく、ウェットサイト化への恐れだった。

【6】設計変更の対外説明はうやむや。

この設計変更だが、国・東電・業界のどれも、満足に説明していない。

『火力発電』1968年12月号掲載の東電井上和雄氏執筆の紹介記事では工程を確認出来る。それによれば、6月下旬に当初予定より2ヵ月早く格納容器が完成、タービン建屋はタービン台のコンクリート打設中で、10月に復水器の搬入を予定していた。原稿受付は10月2日。『火力発電』は実質電力会社のための専門誌なのだが、設計変更には全く触れていない。時期が時期だけあり、建屋内の配置図も付いて無い。

翌1969年7月1日には3号機の設置許可申請が提出された(『原子力委員会月報』1970年1月)。敷地に関する設計は踏襲。福島第一は2基ごとにツインプラントとなっているため、この時点で4号機の敷地高を変えることは困難となった。

国による説明のあり方も見直しておく。当時、原子力委員会は月報を出しており、今でもネット上で閲覧できる。1号機の設置許可を与えた時は、1966年12月号に資料として、原子炉安全専門審査会報告を添付(リンク)し、定期刊行物の付録としてはボリュームのある内容だった。だが、1969年2月号で設計変更について触れた時は簡素な内容であり(リンク)、予備ディーゼル発電機には触れなかった。遡って、より詳細に記述された設置変更許可申請本文を確認しても台数は空欄のまま「変更なし」とされており、先の平面図を見ないと2台設置することが分からないのである。

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設計の改められた1号機の平面図が掲載されたのは、東電の野村顕雄氏が原子力学会誌1969年5月号に投稿した1・2号機の紹介記事(リンク)だったが、設計変更については全く触れられなかった。

続いて『電気雑誌OHM』1969年11月号には先の豊田氏が3号機の計画記事を投稿。ディーゼル発電機が2台設置され、内1台は4号機との共用である旨を説明した。1・2号機においても同じ考え方で設置されていると明記されたのはやはり東電の技術者が投稿した『電気計算』1970年4月号でのこと。この投稿は2名で1月号から6回に渡って連載されたものなので、紙数に余裕があった。

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複数の媒体に投稿された論文を見ないと全貌を把握するのも一苦労では、同業他社の技術者でも見抜くことは難しいだろう。建設記録のような単行本が本来は必要であり、後ほど紹介する博士論文も、その役割を部分的に果たし得る道はあった筈だ。

代表的な業界紙、原子力産業新聞も同様であり、この変更が許可された時に、ベタ記事を出しただけ(1969年3月6日1面、リンク)。9つの変更点と紹介しただけでは、何もわからない。

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発行元の日本原子力産業会議は創立時に東電社屋に事務所を構え、自治体の他に国立の研究機関も会員となっていた。その背景を踏まえれば、意図はどうあれ説明責任を間接的に負うものと考える(現在の会員はリンク。福島県は事故後退会)。

このように碌な対外説明が無かったのは意図的なものなのだろうが、その「成果」が何処の事故調も、主だったジャーナリズムも、崖を削って造成したこと、「最終的に」非常用電源が地下に配置されたことに目を奪われるばかりだったことだ。もっとも大半はインタビュー、プレス向け資料、それにやっつけのネット検索で済ませる傾向があるので、気付かなかったという方が正解だろう。

【7】1970年10月・・・JEAG4601原子力発電所耐震設計指針(民間規格)発行

1970年も秋になると、主要建物は完成し、核燃料を搬入して各種の試験を開始する段階であった。この年の動きとして注目すべきは日本電気協会による民間規格「JEAG4601原子力発電所耐震設計指針」の制定である。この指針は1987年に全文改訂されるまで参照され続けたが、耐震設計が主題でありながらも、津波へも一定の言及をしていることが特徴である。

国の責任と言う観点から見て重要なのは冒頭部「まえがき」「電気技術指針について」の説明および「作成に参加した委員氏名」である。

まえがきによると、元々、この指針は通産省が日本電気協会に制定に際し、耐震設計の審議を依頼したことが発端であった。少し長いが、内容検討のために引用する。

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「義務、勧告、推奨などの事項を明確に表現する意図のもとに作成されたものではない」と言う逃げもあるが、それが通用するのは、この指針以上に有用且つ具体的で広く承認された指針や規定が存在する場合だけなのではないか。

なお「電気技術指針について」では「大綱的には遵守すべき事項」「将来実績をふまえて基準化または規定化し得る性格を持っている」「電気技術指針は原則的には電気技術規程に準じて遵守されるべきもの」とも説明している。官側が多数委員に参加し「遵守すべき」と述べ、実績を将来まで待ってから基準・規定化しなければならない事情で、事故が起きた際のリスクが大きいものを実社会に投入するのは誤っている。津波工学の実績が溜まるまで待つか、すぐに実用するのであれば自明であること(例えば後述するように、遠地津波の想定だけではNGとする)、明らかな矛盾を含んだ設計成果物は直ちに規制する必要が国にはあった。小林の設計思想や東電の姿勢は1970年代であっても十分その対象となる。

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規程化出来ないのは未解決で一律に決められないから、という意図だが、新技術や保安上必要な事項を取り入れることを前提に規程化していないと述べたものである。最初に決めたチリ津波の想定を墨守して後続の原子炉を設置許可申請せよという意図ではない。

また、まえがきの経緯と指針の遵守義務的な性格から、通産省、科学技術庁(当時は原子力分野も所管)など国の組織や国の主導で設立した動燃事業団からも多数の委員が入っていた。このことも、国側は行政指導と同じく事実上の義務、勧告、推奨であったことの証左となる。

指針第2章「敷地および地盤」では「津波の被害を避けるため、敷地地盤面を高くしたり、防潮堤を設けることも考えられるが、非常用冷却取水を海水に依存するため発電所の安全性を損うおそれのある敷地は適当ではない」と記載されていた。

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ドライサイトコンセプトそのものの定義であり、これを守って設計していれば少なくとも以降の号機は4m盤に海水ポンプを置くことはあり得えないし、国側には内容を審査する義務があった。6基の原子炉を設置許可・設置変更許可する過程で何度もその機会も与えられていた。東電刑事裁判での被告側の言い分が「防潮堤は発想出来たが水密化は発想出来なかった」であるのは、こうした初期の事情も加味してのことではないだろうか(海渡雄一『東電刑事裁判 福島原発事故の責任を誰がとるのか』彩流社P156~157)。もっとも、水密化も浜岡のような例はあるのだが。

また、2015年に書いた記事でも紹介したが(リンク)、IAEA勧告を付録に加え、津波想定の継続的見直しを求めていた。254ページの「特定地域の津波による最大海面上昇の高さは十分な歴史的記録がなければ予想できないだろう」などの文言は、直近400年の歴史地震に対象を限定し、実際の観測は直近10年程度の小名浜の記録に基づいた設計思想を完全に否定するものである。

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他、255ページを読むと「計測が不足」(小名浜での観測10年のみ)「理論が不適切」(世界中の津波に言及しているため、リアス式海岸のみ高い津波が起こるという間違いを示唆していると推測)「予想が不確実」(余裕掛けが必要)「さらに検討を加えるべき」(1号機の設置許可を踏襲するだけではNG)といった文言が目に付く。模型実験の不足は1980年代以降、津波シミュレーションの普及で解決したが、それ以外は当時から提言されていることが分かる。

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各訴訟の準備書面で被告側は、IAEAの文書は絶対的なものでなく、参考にすぎないと主張する。しかし、後年の改訂版で削除したとは言え、自ら制定した規格にIAEA勧告を付録したのだから、そのような言い分は通じないのではないか。

JEAG,JAEC制定全般についても、元々は通産省からの依頼だったのではないかと思われる。

このように、折角ドライサイトコンセプトと言う逃げを用意し、福島第一では津波に際して結局10m盤を信じず高台に避難した経験があったにも関わらず、小規模な設計変更で設置が可能な防水扉も設けられなかった。後述の博士論文から見てより必要性の高い4m盤の構築物についても同様であった。このことは、1976年、本所5号機と同じ年に運開した浜岡1号機に腰部までの高さの防水扉が設置されていた事実と対照的である。浜岡原発は311以前、津波を敷地前面の砂丘で止めるとしており、建設時の敷地高はやはりドライサイトであった。

つまり、東電はJEAGに沿う必要を認めなかったし、審査する側の国も指針策定に関与しながら見逃していた、ということである。

【8】1971年・・・博士論文で心変わりし、意味不明に

さて、小林は1970年5月、取締役に就任、環境総合本部副本部長となり、仕事の上では原子力専任ではなくなっていた。翌1971年2月23日、博論の学位授与申請を提出しているので、執筆は70年頃に行ったのだろう。なお、博論は1971年7月23日出版に至った(出版日はIRDBによる)。その間、申請時に予告した通り、小テーマに分割した抄録的な論文を土木関連の専門・学会誌に数回に分けて投稿していった。従って、参考文献は設置許可申請以降に出版されたものが多く含まれている。

博論の内容を一言でいうと、原発の敷地選定についての経済性を検討したものである。津波に対する考慮を言及したのは第3章、第4章、第5章。

第3章では、次のように述べた。

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福島第一のチリ津波は遠地津波だが、津波高は低いと認識していたのである。近地津波ではなく、低い遠地津波を想定に使って朔望潮位を加えれば十分である旨を、博士論文に記述した。設置許可とそれを元にした解説記事では分からない。極めて筋の悪い、悪質な判断である。

工事は進んでいたとは言え、1号機さえ運転開始していない時点である。これも、私が5・6号機以降で敷地高が変わった真の理由=近地津波の中には異常に大きくなるものがあるので予防的に高くした、ではないかと考える傍証である。小林の本音か、その態度を見た周囲が警戒しての処置だと考えるのが自然。

なお、リアス式海岸の南端に位置する女川はさも先見の明があるように書かれるが、上述の「当時の認識からも」誰もが15mにしたかはともかく、ある程度は高くなって当たり前の土地だったことも分かる。

第4章「原子力発電の適地性の評価に関する研究」は学位申請時『土木学会誌』1972年1月号への投稿を予告し、実際には同年2月号に「わが国における原子力発電所適地の展望」という題名で掲載された。

第5章「福島発電所への適用」は『土木施工』1971年5・6月号への分割投稿を予告し、実際には同年7月号に「福島原子力発電所の計画に関する一考察」として掲載された。

1号機の運転開始が1971年3月26日であるから、それを見届ける形での発表を計画したのである。

以前も紹介したことだが、4章と5章では敷地高に整合が取れていない。5章では4mと書いたのに4章では10m。だから、4m盤の扱いはどうなんだ、という話である。しかも4mの根拠は3章で低いと評価した遠地津波を採用したためである。

4章は、土木学会誌では設計波高5~6m、設計潮位1~2mから太平洋岸で10mと簡略に説明されているが、4mの場所は無い。博論の方は詳述しており、最大津波高とさく望平均満潮位を足すと、太平洋岸の直線海岸部分に選定した各地点では7.4~8.9mになるので、余裕を加えて一律に10mで経済性を計算するものとした。その直後に5章で検討するような個別地点の地形や炉形による影響を考慮する旨書いてあるが、ポンプ室を4mに置く安全性の問題は説明どころか言及さえ出来ていない。

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5章は、設置許可申請以来一般的に説明される内容をなぞっており、チリ津波に対応して4m以上が必要であることから、陸上部の敷地高を10m、埋立部のポンプ室付近を4mとした件を説明している。

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小林は恐らく十勝沖地震の経験から、設置許可時のチリ津波など全く当てにならない所感を得たため、4m盤の安全性は捨て、10m盤が守れれば良いという体で論文を書いたものと思われる。しかし、現実の福島第一は海水ポンプを4m盤に剥き出しで配置するなど、小林の説明通りには設計されていないので、意味不明となった。

私が、あらかじめ失われていたドライサイトと考えるのは、この時系列の関係も理由にある。

しかも、10m盤の安全性は東電の現場も信用していなかったし、東電の設置許可申請も、小林の考えも、JEAGに沿ったものではなかった。

2000年代に津波評価技術等により津波想定が6m前後に引き上がっていった際、海水ポンプモーターを僅かに嵩上げして余裕の殆ど無い状態で対策を完了したが、僅かな嵩上げで良いと考えたのは、建設当時に本音に近い値として、5~6m程度の津波高まで対応させていたから、殆ど手直しせずに済んだということではないだろうか。

【9】5・6号機の敷地高は13mに

その後に起きた出来事を時系列で並べると、また興味深い傾向が見えてくる。

1971年3月4日、北側の敷地に5号機の設置許可申請が提出された(『原子力委員会月報』1971年6月)。5・6号機は敷地高が13mと高いが、私が1960年代に入社した元東電の技術者(名は秘す)に聞いたところでは、住宅の造成などでも多用される土量バランスのためで、津波への配慮ではないそうである。

土量バランスと言う聞き慣れない言葉だが、例えば斜面だった場所を段々にして住宅地にする際、ある部分は斜面を削り、その前面は逆に土を盛って平らな土地にするが、その掘削量や防災・交通の便などから見た標高を最適とするための計算のことである。専門誌の原発建設記事でも敷地の整備について述べた部分はこれに類する議論を行っている。

だが、この変更の本音は津波対策ではないか?後年の勝俣御前会議における資料回収と同じく、表に出したくない事情なら、当時20代の若手社員に教えるとは思えない。その根拠は勿論、十勝沖地震の体験である。設計を大幅に変更することなく可能なレベルで高さを稼いだように見える。

翌月となる1971年8月5日には、10m盤最後のプラントとなる4号機の設置許可申請が提出された(『原子力委員会月報』1971年12月)。なお、5号機が先行して申請されたのは双葉町への雇用・寄付金等の配慮のためである。3号機の時に書いたように、これは既定路線だろう。

なお、原子力委員会は2号機以降も数か月程度の短期間審査で設置許可を出し続けた。設計が同じであることを盾に、変化を嫌ったのだろうし、黎明期は過去の経緯(しがらみ)も蓄積が無いので、そうした確認に手間もとられなかったのだろう。後年、新しい号機になる度に津波想定が変わっていった女川とは様相が異なるが、先のJEAG4601-1970の観点からは、女川の方が正しかった。

【10】非常用海水ポンプの位置付け

1971年3月26日、1号機は各種試験を合格し、運転開始の日を迎えた。この頃になると、民間規格も更に整備が進んできた。先ほどのJEAG 4601,JEAC4603もこの時期である。

続いてJEAC4605 「原子力発電所工学的安全施設及びその関連施設の範囲を定める規程」が1973年1月23日に制定された。私は2004年版しか持っていないが、非常用海水ポンプのモーターやその電源(俗にいう非常用電源)が関連施設として定義されており、この点は初版からと考えられる。

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「工学的安全施設の関連施設」に定義されるということは、安全上の重要性にお墨付きが与えられたことを意味する。規格制定に関する資料は余り持っていないが、以下、国の責任とは何かを視野に考察する。

国の定めた『発電用原子力設備に関する技術基準を定める省令』(昭和40年通商産業省令第62号)の解釈には民間規格であるJEACやJEAGも引用される。法令に不慣れな向きに解説すると、この省令には解釈という名の具体的な説明文が付随している。「読み手が意味を読み解く」という一般的な意味の解釈とは少し違う。以前は解釈ではなく解説と呼んでいた。

省令62号で津波に触れているのは第4条で、原子炉施設には防護措置を取るように書いてある。原子炉施設と言う単語は第2条で定義され、その解釈を読むと原子炉冷却系統設備や非常用予備発電装置が含まれる。だが、解釈を読んでもJEAC4605は呼ばれていない。

ちなみに第4条の2は火災による損傷の防止を扱っており、1975年に追加された条文である。その解釈には当初JEAC4605が呼ばれていた。当時、火災に特化した電気協会の規格は無かった。現在の4条の2ではJEAC4626「原子力発電所の火災防護規程」を呼ぶようになっている。

従って、海水ポンプは津波の防護対象として省令はもとより、引用元文献からも名指しはされていない状態だった。なお、福島事故後は第4条から津波は分離され第5条の2が新設となった。対象設備は4条にあった時と同じである。勿論各社は実態として水密化工事などで海水ポンプを防護するようになった。JEACを呼ばなくても原子炉施設に含まれると見なしているのだろう。

ただそれは、福島事故と言う巨大な衝撃を経て万人にとり前提となったから現状の文言で通用するのであって、仮に1970年代、当記事で述べてきたような実態に照らし、予防的な津波防護の規程を強化するのであれば、火災防護の時同様、最低でもJEAC4605を呼ぶなどして海水ポンプを名指すべきだったと考える。それが、ルールを定める国の責任であろう。

一方で、1970年代後半から着工されて行った福島第二で海水ポンプが建屋に収納されたのは、こうした定義づけも影響しているだろう。福島第二においても津波想定は相変わらずチリ津波の3mを引き継いでいたが、最早低い場所に裸で置くことは出来なくなったのだ。また、原子炉建屋の海抜も12mとなり、DGは相変わらず地下室だったが、直流電源はその高さ(1階相当)となった。

【小括】

小林健三郎は経歴からも、研究内容からも土木分野の人物であり、原子力発電の仕組みは明るくなかったのかも知れない。また「工学的安全施設の関連施設」が何か、誰にでも分かるように定まっていない頃に福島第一を担当した。だから、土量バランス論の範疇から外れた埋立部のポンプ室は「遠地津波対応のみするが捨ててもよい」と思ってしまった可能性はあるだろう。

ならば、繰り返しになるが東電の他のスタッフ達はJEAGやJEACが制定された時点で福島第一の津波防護を見直すべきだったが、何も為されなかった。黎明期にして既に前動続行の悪い意味での官僚化が進行していたとも言えるだろう。

国(原子力委員会)が小林の博士論文を提供されたかは分からない。性質上頒布は極少数とは言え、公開文献だから存在を知れば参照は可能だったし、事実上の抄録である専門誌記事を繋ぎ合わせれば矛盾には気づけるようになっていた。だが、国もまたこの点を見逃し、ローテーション人事と専門委員の交代で埋もれたのだろう。最初のプラントであったのに、文献収集を怠ったとすれば、40年以上前の話であっても、一定の責任は生じると考える。

訴訟で被告側が言い分に使う「切迫性に欠けていた」という言い分も、もっぱら2000年代にあった出来事にばかり焦点を当てるからそう言ってくるのである。原告は反論として「原子力安全では一般防災より低頻度のリスクにも目を向ける」ことを材料にすることが多いが、40年以上に渡って問題行為が散見される状況についても通り一遍の説明はした方が良い。10年、20年、40年も切迫性に欠け続けるということはあり得ないからである。

次の記事では運転開始後に後知恵無しで結果回避が出来たのかについて、新たに発掘した知見を交えて論じる。

2022/9/7 公開。細部は後日修正・追補の可能性あり。

2022/11/5 平井弥之助について検証記事へのリンクを貼り、文言修正。

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