これは認知心理学者であり、ユーザビリティやユーザーエクスペリエンスの観点から数多くの著書を書いているドナルド・A・ノーマンの著書"The Psychology of Everyday Things"の邦題となっている言葉です。
「私は引いて開けるドアを押してしまったり、押して開けるドアを引いてしまったり、横に滑って開くドアに正面から突っ込んでいってしまったりする」という使い勝手の悪いドアの例をはじめとして、ノーマンはこの本で、オフィス用の電話機や照明スイッチ、ガスコンロや水道の蛇口など、日常的に使われているものデザインがいかに人間を戸惑わせているかという例をたくさん紹介しています。
また、ヒューマンエラーのせいだとされる飛行機の墜落事故や原子力発電所の事故についても、それは本当に人間のミスによるものだといえるのかと疑問を投げかけています。
ノーマンのこの本での主張は、人間が道具の使い方を間違えたり、なかなか覚えられなかったりするのは、人の記憶力がよくないせいではなく、道具のデザインのほうにあるというものです。
つまり、人が使うのははじめからわかっているのだから、たとえ人の記憶力がそれほどよくなかったとしても、その記憶力のあまりよくない人にあわせてデザイナーはデザインを行わなくてはいけないということです。
使う人にあわせてデザインを行うというアプローチを、ノーマンは「ユーザー中心のデザイン」と呼んでいます。
マス・プロダクションと「誰のためのデザイン?」
しかし、「ユーザー中心」と一言で言っても、ユーザーそれぞれ知識や教養、体力も、道具を使う目的も異なります。ノーマン自身が別の本で指摘していることでもありますが、誰もが使えるユニバーサルなデザインを生み出すことは非常にむずかしく、むしろ、人それぞれに合った形でデザインするほうが道具の使いやすさの面では理にかなっています。
ユーザビリティ的な側面から「誰のためのデザイン」かを考える必要がでてきたのは、もちろん、複雑化するデジタル機器、コンピュータの台頭によることも大きいでしょう。
しかし、それ以前に仮にすべての道具が個々人にあわせたオーダーメイドでつくられるのなら、「誰のためのデザイン?」と問うこと自体、必要ないはずです。だって、「誰のため?」という以前に、最初からオーダーしてくれた人のためにつくろうというのですから。「誰?」は最初から決まっているので問う必要はないのです。
「誰のためのデザイン?」などと問う必要があるのは、「誰のためにつくる」という発想が消えたマス・プロダクションのものづくりが台頭して以来のことだと考えるべきなのでしょう。繰り返しますが、オーダーメイドのものづくりなら先に「誰のため」かは決まってからものづくりがはじまります。
「いったい誰がデザイナーなんでしょう?」というエントリーでは、こんな風に書きました。
マス・プロダクションにあまりに慣れてしまい、それが普通のことであると思い込んでしまっている僕たちには、本来、ものはひとつひとつ異なってるほうが自然であるということを忘れがちです。
利休や織部が焼かせ、名物とうたわれる長次郎の楽茶碗や織部焼きの茶碗などは唯一無二のものとして、それぞれがこの世にたった1つしかないものです。
長次郎の楽茶碗や織部焼きの茶碗は、それぞれ利休好み、織部好みの茶碗として焼かれました。最初から誰のためにつくるかが決まっており、その人の好みに応じてデザインが決まりました。こうしたものづくりにおいては「誰のためのデザイン?」という問いは必要ないはずなのでです。
「ユーザー中心のデザイン」とオーダメイドのものづくり
しかし、マス・プロダクションの時代になって、そうはいかなくなったのです。ものづくりは注文を受けてからつくる形ではなく、レディメイドの製品を買ってもらう形のものづくりに移行しました。ものは「誰のためか」が決まる前につくられ、ものは買われてはじめて、誰が使うのかが決まるようになったのです。
そうなると、つくり手は自分たちが「誰のため」にものをつくっているのかを意識しなくなります。極端な場合、つくったものを誰かが使うということ自体、忘れられてしまうのかもしれません。
その結果がノーマンがこの本で書いているような、使い勝手の悪いドアや電話、ガスコンロ、照明のスイッチなどがはびこることになるのです。
そういうデザインをなくすためには、オーダーメイドの時代なら当たり前だった「誰のためのデザイン?」ということを意識的に考えるデザイン・アプローチが必要になってくる。それがノーマンの提唱する「ユーザー中心のデザイン」です。
つまり、「ユーザー中心のデザイン」はオーダーメイドの時代のように、ものをつくる前に、それを買って使う人のことを知るというだけのことです。「誰のためのデザイン?」と問いには、その道具を使う人を知ることによって答える必要があるということです。
道具を使うのはどういう人なのか? どの程度、その道具になれているのか? 道具に関する知識は持っているのか? ユーザーはどういう目的で、どういう場所で、その道具を用いるのか? など。「誰のための?」と問う場合、ユーザー自身について知ると同時に、ユーザーが道具を用いる際のコンテキストも把握することが必要になるのです。
よいデザインの4原則
ノーマンはこの本の中で「よいデザインの4原則」というものを挙げています。- 可視性:目で見ることによって、ユーザは装置の状態とそこでどんな行為をとりうるかを知ることができる。
- よい概念モデル:デザイナーは、ユーザにとってのよい概念モデルを提供すること。そのモデルは操作とその結果の表現に整合性があり、一貫的かつ整合的なシステムイメージを生むものでなくてはならない
- よい対応づけ:行為と結果、操作とその効果、システムの状態と目に見えるものの間の対応関係を確定することができること。
- フィードバック:ユーザは、行為の結果に関する完全なフィードバックを常に受けることができる。
こういう風に列挙すると、なんだかむずかしそうな印象を持ってしまいがちですが、ようするに自分たちがデザインするものを使う相手のことを知るということにほかなりません。
相手がどんな人なのかを知り、相手の普段の生活を知り、相手のクセや体格や知識レベルや好みを知ることです。
すくなくとも、安土桃山時代に生きた利休や織部はふつうにできたものづくりです。
そういう意味では、日本人なら何も今頃になってノーマンにあらためて教えてもらう必要もないことかもしれません。
やはり「すばらしいものはもう過去に達成されている」ということなのでしょうか?
こうした視点であらためてノーマンの代表作を読み返してみると新鮮ですね。
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