情報リテラシー再考:「理解すること」と「感じること」の統合

情報というのは、何もテキストで書かれたものだけを指すわけではないと思っています。
画像や動画、音楽なども情報ですし、モノの形や動きもまた情報です。人工物だけが情報を発するわけではなく、自然物もとうぜん常に情報を発しています。

情報とは

すなわち、生きるために役立ち、かつ、僕らが知覚できるものはすべて情報なんだと思います。
知覚というと僕らの意識にのぼるものだけを指すようですが、ここでは意識下で僕らの身体が識別し取得していて、生きるのに必要でそれに基づき行動を行っている刺激を、情報と考えています。

意識したもののみを情報と捉えてしまうと僕らの動きは非常にぎこちなくなってしまうでしょう。すべての情報を意識していたらスムーズに活動することなどできません。
踊るときに音楽にあわせてどう身体を動かすかなんていちいち考えてたらまともに踊れませんし、野球でバッターがどうボールを打ち返そうかと自分の身体の動きを考えたらバットを振ることさえできないでしょう。
意識で知覚し理解しない情報でも僕らが生きる上では役に立っている情報がたくさんあるはずです。

1つ前の「情報を理解する/情報を感じとる、あるいは、客観的判断/主観的判断」というエントリーで、「理解すること」と「感じること」の違いについて書いたのはそういう意味もあってです。
意識にのぼり、理解できる情報だけを相手にしていては、情報というものをあまりに狭義に捉えすぎているのだと思います。

情報デザインを考える際には、「理解すること」と「感じること」の差異にちゃんと気づいていなければいけないと思いますし、情報リテラシーについて考える際にも、単にテキスト情報を論理的に理解することだけを対象に考えるのではなく、感性や人間性の部分にも関連した表現能力一般としてリテラシーを捉える必要があると思っています。

このエントリーでは、こうした視点から情報リテラシーやそれと絡むものづくりのあり方について再考してみようと思います。

情報リテラシー再考

まずはリテラシーという言葉の歴史を振り返ってみましょう。

以前、「変化するリテラシー(Web2.0とパーソナル・ファブリケーション)」というエントリーで、ニール・ガーシェンフェルドの『ものづくり革命 パーソナル・ファブリケーションの夜明け』から次のような引用をしました。

現在「リテラシー」は「読み書き能力」という狭い意味でしか一般に理解されていないが、ルネサンスの頃に誕生した当初、この言葉はあらゆる表現手段を駆使する能力という、今よりずっと広い意味を持っていた。しかし、その後、物理的なものづくりは、商業的な利潤を追求する「非リベラルアート(一般教養にあらざるもの)」として、リテラシーの定義から外されてしまった。

ルネサンス時代に生まれたとき、リテラシーという言葉は読み書き能力だけでなく、表現能力一般を指す意味を持っていた。
そのリテラシーという言葉が読み書き能力を指す狭義のリテラシーとして限定されたと同時に、ものづくり自体もリベラルアート=一般教養から外れたものとして定義されるようになったということです。

ここにこそ、「理解すること」と「感じること」の差異が生まれてしまったきっかけもあると僕は考えます。

二元論以前

天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣/茂木健一郎」で「レオナルドが生きたルネッサンスの時代は、まだ、デカルトが二元論を唱えるはるか以前の時代です。そこでは心と身体、精神と機械のような二元論が存在していませんでした」と書きました。

ルネサンスの時代はまだ科学と芸術が分化する前の世界です。「理解すること」と「感じること」もいまのように分化していなかったはずです。
それゆえにリテラシーという言葉も読み書き能力だけでなく、すべての表現手段を駆使する能力として捉えられていたのでしょう。

人間の身体を、人間が組み立ててつくる機械を見るのと同じように見ること、そして、どれほど注意深く世界を観察し、記録してもなお残る「生きることの謎」を、恐れることなく見つめること。レオナルドの世界観はかくも幅の広いスペクトラムをもっていました。

「理解すること」と「感じること」を分けて考えてしまったり、そのいずれかのみしか用いることができなければ、レオナルドのような総合力をもって、ものづくりを行うことはできないはずです。
レオナルドの時代には、主観と客観もまたいまのような意味では分化していなかったのではないかと思います。

客観と主観が重なり合うところ

主観的であるということを捉え間違えてはいけないと思います。

それは決して、科学的であったり論理的であったりすることに対して反対側におかれるものではないと思っています。主観的であるというのは、何も自身の衝動に突き動かされて動くことのみを指すのではありませんし、見たもの・読んだものへの深い理解を拒絶するものでもありません。

茂木健一郎さんの『クオリア降臨』に次のような文章があります。

どんな生き物も、進化論が記述する淘汰の圧力とは無縁では、存在し得ない。個別を生きる切実さが、統計的法則の冷酷と併存していることにこそ、生命の真実がある。個別の生が特定の様相を帯びることの背後にある科学的真理を了解することは、文学の扱う個別的体験の味わいを深めこそすれ、薄めはしない。科学の最良の部分は、文学の最良の部分に接近する。
茂木健一郎『クオリア降臨』

人ははじめから、個を超えた統計的法則の世界と、他から完全に切り離された個の世界に、隔てられて存在しているのだといえます。
統計的法則のうえで成り立つ他との共有、あるいは、実際には他との共有がまったく不可能な文学的な個のコミュニケーションによる擬似的な共有のいずれかの方法でしか、理解しあえないし共感しあえないのではないかと思います。

しかし、茂木さんがいうように、この2つの他との共有の手段は、最良の部分で出会います。いや、ルネサンス期以前はその2つは分化していなかったのでしょう。客観と主観は分化していなかった。主観というものはその視点で捉えないといけないのだと思います。

科学には答えがあるように見えて答えはないし、芸術は人それぞれの捉え方があっていいように見えて実はそうではないということを理解しなくてはいけないのだと思います。

球体の上で離れていくと、ぐるりと回って元の場所に戻る。ちょうどそのように、最良の科学は、最良の文学に接近していく。
茂木健一郎『クオリア降臨』

「理解すること」と「感じること」もいまは別々に分かれていても、双方が最良の状態に達した際には限りなく接近しあうのだと思っています。

そして、それには個々人が双方を接近するため、「理解力」と「感性」の双方を最良の状態にあげていける力を各自で育てていく必要があるのだろうと思うのです。

樹を見ることと情報に接すること

あまりこのブログでは自分自身のことについて書かないのですが(別に隠しているのではなくて書くことに興味がないので書いてないのですが)、実は僕は樹を見ることが好きです。

樹齢何百年、千何百年という古木、巨木に特に興味があり、それゆえに古い神社などを訪れるのが好きで、伊勢神宮熊野古道を訪れたり、屋久島や東北の出羽三山に行きたいと思っています。

豊受大神宮(外宮)


しかし、そういう特別な樹ではなくても、実は街中の公園などに普通にある樹を見るのも好きで、休日に暇さえあれば散歩がてら公園などに行くことがあります。
何気なく見たのでは何のおもしろみもない樹ですが、枝葉や幹の形をじっと見ていると、一本一本の樹の違いがわかってきたり、枝葉のパターンの共通性にあらためて驚かされたりして、見てて飽きません。

そういう樹を見る趣味と似ているのが、服や靴、鞄でも味が出たもの、自分で長く使えて味が出そうなものを好むようになってきたという嗜好の変化がありますし、元から古く侘びた日本の建築物や茶碗などにも惹かれるのもそうした嗜好性と関係しているのだと思います。

いずれにせよ、こうした味わいや侘びみたいなものは、服や靴そのものの機能でもないですし、建物や茶碗の機能でもありません。森の中の個々の樹を見るように、全体のなかの部分に目を向けないと見逃すおそれをあるところです。
「森を見て木を見ず」とかいう言葉がありますが、一本一本の樹の個性だとか、樹の形の味わいだとかはそれこそ、森を見ていたのでは見えてこないものです。視点を変えて、つまり、自分の側のあり方を変えなければ、樹の個性には出会えません。

表現能力としての情報リテラシーを鍛える

情報リテラシーというのもそれと同じで、自分の側の視点をどれだけ変えられるかに拠るところが大きいはずです。自分の立ち居地を変えることで、対象から得られる情報が変化するということをどれだけ理解できているかというのは大きいと思います。

もちろん、それには経験を増やすことが必要で、かつ、リテラシーを総合的な表現能力として捉えたなら、表現しようという意欲も同時に必要です。
単にWebやテレビなどのメディアが発する膨大な情報をどううまくこなしていくかだけが情報リテラシーではないと思っています。世の中的に誰もが情報だと思っているものだけが情報というわけではないのです。「これが情報です」と整形されて与えられる情報だけを相手にしていたのでは、表現能力という意味を含む情報リテラシーなど、鍛えることはできません。

情報とは最初にも書いたとおり「生きるために役立ち、かつ、僕らが知覚できるもの」です。であれば、何が情報となりうるかは自分自身の必要性と密着に関係しているはずです。感性、欲望、構成力、好みなど、自分自身をどうつくるかで必要となる情報もまた変化します。

自分に必要な情報を選び取っていく情報リテラシーが求められるとしたら、それは「与えられた情報だけが情報ではない」と理解し、自ら自分の生きる環境のうちに隠れた情報を発見していく能力こそ、鍛える必要があるのではないでしょうか。

それはほかでもなく自分をつくるということだと思います。

   

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