夢十夜を十夜で/高山宏

いい本があるのではない。いい読書があるだけなのだと思う。

いい本があったら教えてくださいと言われることは多いけど、そんなことは教えられるものではないとなかなか教えられるものではないと思う。いい本かどうかは読書する人次第であって、結局は読む人が自分が読みたいと思う本を読む以外に、いい読書をする方法はないと思います。



勉強のために本を読む場合でも実はおんなじだ。

勉強したい分野にあわせて、読む本を選ぶのはいまどき間違いだと思う。
さまざまな領域で専門分野なるものが瓦解している現在において、ある領域の知を得るためにその領域の専門書を読むというのはナンセンスだということに早く気づいたほうがいいと思います。

本当に何かを学びたければ、好きな内容の本を読み、そこで感じたことを自分の学びたいこと、自分自身の生活や仕事、生き方、思考のほうに引き寄せればよい。はじめから読む本の領域と自分の側の領域があっていることを期待するような”閉じた”読み方をしようとしていたこれまでの発想が間違いです。

どんな本を読もうが、自分の側に引き寄せ、そこから自分にとって意味のあることを学び取る。
専門領域、専門知識なんてものにこだわっている限り、本から学びは得られません(単に頭のなかに学びというのなら別でしょうけど)。

さて、そんな意味で、領域などを超えた「本当の読書」を繰り広げた読書コラボレーションの軌跡が高山宏さん著となっている『夢十夜を十夜で』です。
「著となっている」としたのは、これが夏目漱石の『夢十夜』を題材に、高山宏さんと学生が創造的なコラボレーションを繰り広げた10の講義を元にした書き下ろしだから。この講義が文学部で単に文学作品を扱うという体裁をとらずに、明治期の日本を代表する作家・夏目漱石を「マニエリスム」という視点から、さまざまな領域を横断的に読み込んでいく様子がなかなかスリリングでおもしろい(ここで漱石という名を聞いて、「あー文学の話ね、おれ関係ないや」と思ってる時点で、時代遅れの専門領域の罠にはまってしまっています)。

ただの偶然、ひょっとしたら遊びと感じられるかもしれないが、表向きの言葉の各種の遊びを体系的、強迫観念のようにうみ出す文学をこの四半世紀、マニエリスムの文学と呼んできた。これからさまざまに見られた夢がいろいろに語られる文章を丁度我々に与えられた10コマにおさまるよう10個ばかり一緒に読んでみるが、この10篇を一貫してマニエリスムの文学とは何かを論じることになれば最大の目的は達せられる。

学生たちによる朗読、読んだあとのレポート、そしてレポートに対する高山さんのフィードバック、さらに『夢十夜』以外の本や芸術作品あるいは漱石が生きた時代の社会状況なども絡ませながら夢十夜を一夜ずつ読み進んでいく講義は、この上なく学びで満ちていたであろうことが想像できます。

そんな講義の記録である本書を今回はほんのすこしだけ紹介します。

美しい花を観る男

例えば、第1夜。
突然何の前触れもなく目の前で、何のクライマックス感もないまま死んだ女の墓の前で、「100年待っていてください」という女との約束どおり、ひたすら座って待ち続けるという夢。

この夢にまつわる高山さんと学生たちのコラボレーションからして、かなり深くて面白い。昔、漱石の『夢十夜』を読んだときには考えもしなかったことが、この講義のなかで開かれていくのを読んでワクワクが高まります。

夢のなか、何年も何年も、女の墓である丸い石を、女が死ぬ直前そうして顔を覗き込んだと同じように、上から眺め続ける男は、だんだん女に騙されたのではないかと思い始める。もはや何年待ち続けたかわからなくなっていたそのとき、突如青い茎が伸びてきて、白い百合の花を咲かせる。そんな夢。


▲第1夜の講義の板書

高山さんはそこで「何故百合なのか。どうして白い百合なのか」と学生たちに問います。

学生たちのレポートのなかには「百」年待って「合」うからだという発想も出てきて面白い。

そのうえで、高山さんはこんな話をします。

キリスト教の神はその名をみだりに唱える者を罰すと十戒の冒頭に言った。神そのもの、神秘自体に触れると危ないと知った宗教はそれらを象徴や比喩、寓意寓喩を介して表現する一種神秘のシンボル体系、聖なる暗号の体系として表現した。白百合と聞けば、たとえばいきなりキリストのことであり、聖処女(マリア)の謂である世界。

思考の方法の2つのベクトル」という記事でも紹介しましたが、西洋における後期ルネサンス期にマニエリストたちが活躍した時代、エンブレムとインプレーザといった象徴=シンボル表現が流行したといいます。

それは寓意画の形で描かれたり、紋章となったりする一方で、代表的なマニエリスム詩である綺想詩(コンチェット)の形でも表現されました。とうぜん、こうした流行が生じたのも背景として、上の引用にあるようにシンボルとして象徴化することで神秘化して語る=表現する傾向がキリスト教文化にあったからです。

イギリスへの留学経験のある漱石は、こうした西洋の文化、マニエリスム的表現法を知った上で、この白百合というシンボルを用いたわけです。

そのマニエリスムの象徴の流行が漱石が生きた時代を含む、1880年代かの約半世紀は、西洋では「宗教なき世界に宗教の代用品となった文芸がいやになるくらいいかに象徴に狂い、象徴学の精密化に狂ったか」と指摘されるほど、象徴学、特に、花の象徴学が異様な盛行をみせていた時代だといいます。

漱石がこの夢を描いた時代というのはまさにそういう時代でした。


▲ナルキッソスを描いた絵画

高山さんはまた、この女の顔、そして、死んだあとの墓の丸い石を上から眺め続ける男の姿を、ナルシシズムの語源ともなった水面に映る自分の姿に見蕩れすぎて溺れて死んだナルキッソスの神話に重ねます。

ナルキッソスの物語では最後に彼自身が死後にスイレンの花に変わりますが、ここでは花に変わるのは女性のほうです。
死んで花に代わる役割を担わされるのが男性から女性にすり替えられるところに、近代の男性中心主義を読み取ることができます。

花になる対象が代わるだけでなく、見られる対象が男性から女性に代わっていることも忘れてはいけません。
見られる対象としての女性と美しい花が重ねられる。

ここで高山さんはロンダ・シービンガーの『植物と帝国』という本で論じられる、リンネの植物学と女性を美しい花に喩えること、さらにはその男性中心主義が帝国主義の考え方にも重なることを指摘するのです。

男が女をモノとして分類や観察の対象とするそもそものきっかけとなった18世紀半ばのリンネの植物分類学こそがシービンガー女史の一貫した攻撃対象だというのは良く分かる。『植物と帝国』という最新刊のタイトルにすべて明快だが、男性優位主義をそっくり融かしこんだ帝国主義の思考と制度がいかに、社会で一番大事なものが「美しい花」のような女性であるかという大ウソを吹聴してきたか、というアプローチである。

まさに、漱石が生きた日本が西洋化・帝国主義化に向かう時代でした。


▲講義で配布された資料

新人文感覚

こうした感じで、『夢十夜」の10の夢が学生とともに読み解かれていきます。

この本を読んでいると、とても興味深い本が紹介されていて、この第1夜だけでも、アト・ド・フリースの『イメージ・シンボル事典』や尹相仁の『世紀末と漱石』を買ってしまったし、先のロンダ・シービンガーの『植物と帝国―抹殺された中絶薬とジェンダー』も買おうかどうかと気になっています。
他の回でも、マリオ・プラーツの『肉体と死と悪魔―ロマンティック・アゴニー』を買ってしまったし、いまも読み進めているロザリー・コリーの『パラドクシア・エピデミカ ― ルネサンスにおけるパラドックスの伝統』もキーとなる1冊として度々登場します。このように別の本を読みたくさせる魅力が、高山さんの本にはあります。

第1夜を読み解くなかで、高山さんは、シェイクスピアの同時代の詩人ジョン・ダンや少し遅れたピューリタン革命の時代の詩人アンドルー・マーヴェルらの「形而上派」の書く詩は、思弁的、思惟的だったことを指摘ています。
この思弁や思惟が英語にすると、reflexiveやspeculativeであり、そもそもは鏡面や水面に映像が「映る」という意味からの派生であることは辞書をひけばカンタンにわかるといいます。先のナルキッソスからのつながる話です。

人文(科)学と総称されるものの衰退だ、凋落だと言われているようだけど、レンズや映像、反射・反映を指す言葉がそのまま認識論という近代的な哲学の核になっていった経緯が、注意深く構えていると、そこいらに転がっている材料からいくらでも展開できるこういうごく当たり前の感覚もないのでは、衰退も凋落もない、そもそも大元がなかっただけの話。

そう。学びとか学門というのは、本来、こういう感覚やセンスを養うものであって、何かエラそうな知の体系を必ずしも必要とするものではないと思います。どこにでもあるもののつながりから何かを感じ取って、そこに意味を見出す=生成する活動なんだろうと。

高山さん自身、上のreflexiveやspeculativeといった話を自身が、講義の当時、翻訳にあたっていたロザリー・コリーの『パラドクシア・エピデミカ ― ルネサンスにおけるパラドックスの伝統』のなかの以下のような文章から持ってきています。


▲ロザリー・コリー『パラドクシア・エピデミカ ― ルネサンスにおけるパラドックスの伝統』より

漱石の作品を読んでいて、この話が想起できるような感覚を持ち合わせているか、それを鍛えているか?
高山さんのいう「新人文感覚」というのは、そういう感覚のことなんじゃないかと思ったり。

僕が唱えている「新人文」なんて、要するにこの辺の基本的な方法や内容をもう一度、しっかり自覚的に身につけて、可哀想な人文学を快楽あるたしなみとして見せてあげたいというだけのことであって、別段体系的に教える体のものでもなく、ひたすらこういうぴったりの機会を捉えては少しずつ提案していくのが良いと思っている。

このあたりの感覚を学ぶことが大事であって、専門知識を身につけるといった学習法って、そろそろどうなんだろう?と思えたりしています。いや専門的な知識も身に付いていいんだけど、それだけではだめで領域横断を可能にするセンスを身につけることこそ、これからは大事な学びになってくるんじゃないか?と。

そんな感覚をまず知る上では、この本はおすすめです(あれ、おすすめはしないはずじゃ…w)



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