今日、本屋で見つけて気になったので買いましたが、なかなか興味深くてすぐに読み終わりました。
レオナルドは「万能の天才」だったか?
茂木さんはまずこの本で、『モナ・リザ』や『最後の晩餐』をはじめとする有名な絵画を多数残したことのみならず、「ヘリコプター」や「人工翼」などの設計図を残したことにより、「万能の天才」として知られるレオナルド(通常、略称とされるダ・ヴィンチは「ヴィンチ村の」という意味であり固有名として用いるのは適さないと思えるので、ここではレオナルドと記すことにします)が、やはり「何よりも画家であった」と見るのが妥当であることを指摘しています。あらゆる分野に卓越した能力を示した「万能の天才」としてではなく、レオナルドは「人類史におけるひとつの到達点であるような絵画作品を遺した天才」として、徹底的に考えられるべきだと思います。茂木健一郎『天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣』
茂木さんは、上記のような考えを、レオナルドが「ふたつの目」で世界を見ていたであろうという考察から導いています。
「ふたつの目」とは、生涯30体以上の解剖を行い、機械としての人間、人体を機械としてのパーツに分けて描いたレオナルドと、『モナ・リザ』に代表されるように見るものに謎めいた不安感を与える絵画を描き遺したレオナルドという、異なる2つの面をもつレオナルドの特異性を称したものです。
ひとりの人間のなかでそのふたつは「ふつうは相容れないものではないでしょうか」と茂木さんは言います。そのふつうでない「ふたつの目」を同居させていたのがレオナルドの天才性であると茂木さんは見ています。
総合的な知性
茂木さんはレオナルドの解剖図で人間(人体の仕組み)が機械のように描かれているのと、「ヘリコプター」や「人工翼」などの設計図がどこか人間くさく生きているように見える呼応を指摘しています。さらには『モナ・リザ』の背景にも生気が満ちているように見えると言っています。人間の身体を、人間が組み立ててつくる機械を見るのと同じように見ること、そして、どれほど注意深く世界を観察し、記録してもなお残る「生きることの謎」を、恐れることなく見つめること。レオナルドの世界観はかくも幅の広いスペクトラムをもっていました。茂木健一郎『天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣』
レオナルドが生きたルネッサンスの時代は、まだ、デカルトが二元論を唱えるはるか以前の時代です。そこでは心と身体、精神と機械のような二元論が存在していませんでした。
茂木さんは、レオナルドが決して「万能の天才」ではなくその才能は絵画において最も結実した点を指摘すると同時に、レオナルドが「総合的な知性」の持ち主であったであろう点を指摘しています。
「総合的な知性」をもった天才の例として、茂木さんはレオナルドのほかに、湯川秀樹やモーツァルトの例を挙げて説明してくれています。
総合的な素質をもったうえで、専門性に関しては驚異的な集中をする、余人を寄せつけないような強度をもった活動をすることが必要なわけですから、たやすいことではないでしょう。茂木健一郎『天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣』
この引用を読んで、スケールは異なりますが、数日前に紹介した「他家受粉」やT字型スキルのことを思い起こしませんか?
レオナルドが総合的な知性を持ちえたのは、デカルトの二元論以前のルネッサンスの時代であったからと考えるのは簡単です。
しかし、世界のさまざまなものに謎を見つけ、その謎を解こうと興味をもって取り組み、それでも実は知識を得れば得るほど、謎はむしろ深まるばかりであるなかで、その謎を絵画という専門的な世界として表現したレオナルドの天才性を単にルネッサンスという時代性に求めるのは不十分ではないでしょうか?
ハンス・ドリーシュの『生気論の歴史と理論』と「起源に戻る」こと
僕がこの本に刺激を受けたのは、実はちょうど昨日から読み始めた米本昌平さんが翻訳と解説を行ったハンス・ドリーシュの『生気論の歴史と理論』という本の影響もあってのことです。ハンス・ドリーシュの『生気論の歴史と理論』という本は、米本さんによれば「20世紀知性の本流から、激しい非難を受け」、「撲滅すべき迷妄の典型」とされた悪名高き本だそうです。
それは機械論VS生気論あるいは因果性VS目的論という図式の中で20世紀科学のうちで徹底して排除され、槍玉にあげられた歴史をもつ本だそうです。
しかし、現在の地点からみれば、ドリーシュが掲げた生気論やエンテレキーという概念は、今日の科学で重要視されるものの1つである「情報性」の概念に近いものであるように見えるそうです。
現時点からみれば、むしろ1世紀も前にそのことに気づいていたドリーシュの偉業は称賛されてもよかったはずというわけです。
ただし、実際にはそこに科学史において、機械論VS生気論あるいは因果性VS目的論という図式の中で、前者が一方的な主導権を握ろうとする過程があった。そうしたベクトルの中で、機械論(因果性)の側が槍玉にあげるべき要素のすべてをもっていたのがドリーシュの生気論でありエンテレキーという概念だったそうです。
こうした視点からレオナルドの「ふたつの目」というものを考えると、より興味深く感じられます。
創造性が、記憶という過去にさかのぼるシステムの副産物であるように、新しい価値観がかたちづくられる時代には、しばしば人は「起源に戻る」ことに引きつけられるようです。茂木健一郎『天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣』
ルネッサンス自体が古代への回帰でした。
現代の科学の中で情報性の概念の重視からこれまで「撲滅すべき迷妄の典型」としていたドリーシュの生気論やその目的論的思考を見直そうとしている動きには、上に引用した茂木さんの言葉と重なる面を感じます。
古典という膨大な知の集積を独学する時代
茂木さんは、この本の中で、創造性は「過去の経験×意欲」という掛け算であらわすことができると書いています。このことは先に天才には「総合的な知性」が必要とされるということや、IDEOにおける「他家受粉」やT字型スキルの重視とも重なってくるのではないかと思います。
この場合の「意欲」とはある種の哲学=フィロソフィーであるとも考えることができます。
『ウェブ進化論』の著者梅田望男さんによれば、グーグルやユーチューブの背後には、たいへん深いフィロソフィーがある。知は万人のもので、万人に調べられることを求めている、そういう哲学がちゃんとあるのだそうです。茂木健一郎『天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣』
そして、この文章のあとには、こんな耳の痛い文章も続きます。
しかし日本では、その深い思想性を受けとめることをせず、表面的な理解にとどまっています。第五世代のコンピュータのプロジェクトが目立った成果を挙げられず、トロンをパソコンのOSとして普及させることもできず、いままた、ネットで世界標準になるような根幹的なアイデアやシステムをつくることができないでいる現状は、思想性がなく、腰が据わっていないからです。茂木健一郎『天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣』
しかし、これは単に耳が痛いだけでなく、非常に共感のもてる言葉でもあります。
茂木さんも書いているとおり、現在、インターネットを使えば、いくらでもいろんな知識を得ることが可能です。その膨大な知識を享受するのにはいくら時間があっても足りません。
その膨大な知の集積、そして、知の記憶という古典を過去にさかのぼるシステムとしてのインターネットからどう学ぶかは、個人の意欲の問題にほかなりません。現代は明らかに誰かに教えてもらう時代ではなく、独学の時代だと思います。
その独学の積み上げにおける記憶の増強と、何かを成し遂げようという意欲の掛け算以外からは創造性は生まれ得ない。そして、それが欠けている限り、googleやYouTubeに匹敵するものは生み出せないでしょう。
そして、茂木さんが別の本で書いているとおり、創造性とは決して天才の専売特許でも特権でもありません。
一握りの天才だけが創造性を発揮すればよいのではない。どんなに平凡に見える人の中にもある新しいものを生み出す力、その潜在的な力を活かすべき時代が来たのである。
きっと僕らに足りないのは、創造力そのものではなく、自分たちは創造力をもっていて何かを成し遂げられるのだという自信をもつことに対する勇気なのだと思います。
P.S.
きっと、この本がこのタイミングで出たのは、下記の展覧会が開かれていて、レオナルド初期の作品『受胎告知』が初来日しているからでしょう。
>特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ―天才の実像」
東京国立博物館
2007年3月20日(火)~2007年6月17日(日)
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