フランツ・ボアズの文化人類学
文化という言葉には、少なくともふたつの意味がある。ひとつは高尚な芸術や洞察や趣味の意味で、ひと言で代表させるならばオペラだ。もうひとつは儀式や伝統や民族性の意味で、いわば、鼻に骨を刺して焚き火のまわりで踊ることだ。このふたつは、深いところでつながっている。黒の蝶ネクタイをして客席に座り、『椿姫』を鑑賞するのは、鼻に骨を刺して焚き火のまわりでする踊りの西洋版にすぎない。マット・リドレー『やわらかな遺伝子』
マット・リドレーは『やわらかな遺伝子』の第8章「文化の課題」の中で、文化人類学という学問の基礎を築いたフランツ・ボアズを取り上げています。
ドイツ生まれで、その後、アメリカに移り住んだボアズは、25歳だった1884年の冬をイヌイットとして生活するという体験で、「彼を受け入れてくれた人々の巧みな技能はもちろん、洗練された歌や、豊かな伝統や、複雑な慣習に気づき」、謙虚な気持ちを抱いたそうです。そして、日記に「彼らは『蛮人』で、その暮らしは文明化したヨーロッパ人のものと比べれば無価値だと思われている。だが私は、ヨーロッパ人が同じ条件のもとで暮らしたときに、意欲的に働いたり、明るく楽しく過ごせたりできるとは思えない!」と書いています。
こうした姿勢は乏しい資料を基に自民族中心主義的な理論化を行った進化主義への反発から来ていると言われ、ボアズらはこのような進化主義的立場に抗してそれぞれの文化はそれぞれの価値において記述・評価されるべしであると言う文化相対主義を主張した。
ボアズらの文化人類学は、イヌイットにはイヌイットが暮らす環境(それは空間的なだけでなく、時間という観点も踏まえて)にはイヌイットの文化があり、西洋には西洋人の暮らす環境に適した文化があるという文化の相対性を認めるものです。
進化論におけるニッチ(生態的地位)
同じように異なる環境での異なる表現形を相対的にみる姿勢はリチャード・ドーキンスの進化論的な思考にも見られます。製作中だって? 未完成だって? それは人類進化を知っているからこそ言える後知恵の浅はかさだ。その本を弁護するとすれば、もし私たちがホモ・エレクトゥスに面と向かって出会うことがあれば、きっと私たちの目には製作中で未完成の彫刻のように見えたにちがいない。しかし、それは私たちが人類の進化を知っているからにすぎない。現に生きている生物はつねに、自らが置かれた環境のなかで生き残ることにつとめているのである。それは決して未完成なのではない。あるいは別の意味ではつねに未完成なのである。そして、おそらく私たちもまた未完成なのである。リチャード・ドーキンス『祖先の物語 ドーキンスの生命史 上』
進化論という言葉は、どうしても何か劣悪な状態から優良な状態への変化を感じさせるものですが、実際はドーキンスが語るように、それぞれの種がそれぞれ異なる環境においてそれぞれに適したニッチ(生態的地位)を確立しているにすぎないのです。
それゆえ、インターネットに接続できる環境に住む僕たちが、光さえ届かない深海で暮らす目もない魚や、ジャングルの奥で植物食での生活を行っているゴリラや、夜の闇の中を巧みに音響レーダーを操りながら飛び回るコウモリとどちらが優れているなどということを、それぞれが住む環境を考慮せずに論じること自体、間違っているのです。
それこそ人が自分たちの生活をベースに他の種と自分たちを比べれば、すでにその環境でのニッチを確立している自分たちが優れているという答えになるのは当たり前で、じゃあ、深海魚の視点で(実際、彼らには目がないが)、どちらが深海での生活で優れているかを比べれば、人はまったく彼らにかなわないはずです。
市場環境におけるニッチ
同じことが実はビジネスにおいても言えるはずです。どうも僕たち自身がこれまでのマスマーケティングの手法にあまりにも慣れすぎてしまっているために、市場環境がまるで1つであるかのような錯覚をしがちです。しかし、実際には市場はまったくもって1つなどではなく、それこそ都会やジャングル、深海や夜の闇と同様に、細かくセグメント化された環境に分かれており、それぞれにニッチを確立したプレイヤーがいたりするものです。わかりやすいところでは、まず一般消費者向けと法人向けの2つのセグメントがまず思いつきます。さらに一般向けでも、高齢者向け、女性向け、子供向け、高所得者向け、アジア向け、Webリテラシーが高い人向け、ゲーマー向け、インターネット接続はPCではなく携帯電話でという向け、他にもいくらでも思いつく限りの細分化が可能です。法人向けのほうも同じように、大企業向けと中小企業向け、それぞれの業種に応じた市場、経営者向け、一般社員向け、システム開発者向け、マーケティング担当者向け、医療関係者向け、などなど、こちらもあらゆる環境とニッチが見出せるでしょう。
文化人類学や進化論と同様にそれぞれの環境に適応したニッチを確立した企業同士を単純に優劣をつけることはできません。かといって、より大きな市場セグメント、複数のセグメントを押さえている大企業が優れているかといえば、これも実はそう単純な話ではないでしょう。にもかかわらず、僕たちは時折、そうした環境の違い、ニッチの違いを無視して、企業の優劣について語ったりします。
それでも、外部の人間が勝手にあれこれ言って面白がっている分にはまだいいかもしれません。しかし、企業の中にいる人間が自分たちが暮らす市場環境や自分たちがいまどういったニッチを確立しているのかに無頓着に、将来的な展望を話すのはまともなことではないでしょう。
もちろん、それはいつまでも今の環境、ニッチにこだわれという保守的な発想を強要したいわけではありません。そうではなく、ほっといても市場環境は変化しやすいですし、自分たちが確立しているニッチにいつ新参者がそれを奪おうと侵略してくるとは限りませんので、だからこそ、自分たちの今いる場所と自分たちの表現形をきちんと捉えた上で、ほかの環境、ほかのニッチにも目を向けておく必要があるということです。
ブランド=ニッチ
ブランドについて語るとき、僕たちはどうしてもそうした複数の環境、複数のニッチがあることを忘れがちです。そして、どのブランドもみなマスに認知されなくてはいけないかのような錯覚を抱きがちです。しかし、そんな必要があるのはごく一部の大企業だけです。ただ、そういった一部の大企業だけが立派なブランドを大枚をはたいて築けばよいのかというと、そうではないでしょう。それ以外の企業も自分たちの暮らす環境で、自分たちのニッチ(生態的地位)としてのブランドを築く必要があるはずです。そして、それは企業だけではなく、個々人でも同様で、パーソナル・ブランディングは自分のためにも、まわりの人のためにも必要なものだと思います。
ブランドとは、それぞれの環境に適応したそれぞれの表現形としてのニッチです。
環境に適応するとは、まわりの人々に受け入れられるということで、それは適切なコミュニケーションなしには得られないものでしょう。
あなたにはあなたの住む世界があり、その世界であなたを見守る人はいるのですから。そのことを忘れないで、あなた自身を磨いてほしいと思うのです。
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