よく「○○はバズワードなのか?」とか「あれはバズワードだから○○だ」みたいな言い方をする人がいますが、正直、その「バズワード」という表現自体がバズワードだという気がします。
ようするに、もっともらしい語り口ではあっても、実際には何も語っていないような気がするんです。
バズワードはまだ一般的なコンセンサスがとれていない言葉
Web2.0にしても、ロングテールにしても、一般にバズワードとして扱われているものに、それを一言で表現できるバズワードがあることは、僕自身は便利なのでいいことだと感じています。また、それが一般名詞の本来的な使い方だとも思います。
例えば、犬という名詞にしても、企業という名詞にしても、実際にはその定義はわりとあいまいです。Web2.0やロングテールと比べて定義のあいまいさの度合いは少なかったり、一般におけるコンセンサスがどれだけあるかという違いでしょう。
しかし、そうした定義のあいまいさや一般でのコンセンサスの度合いの少なさは、新しく登場したものにはつきものでしょう。むしろ、そうしたものがバズとして扱われ、様々な人のあいだで使用され、論議されるなかでより一般的な名詞として定着していくのではないかと思います。
そう考えるから、バズワードを「バズワード」と呼んで理解したつもりになることで、思考を停止するのはとても無益なことだと感じるのです。
子供は子供
極論すれば、バズワードとして扱われるものはバズワード的であるのが当たり前なんです。むしろ、絶対にバズワードでしかないわけだから、そうした対象を「○○はバズワードなのか?」とか「あれはバズワードだから○○だ」と議論すること自体、意味がないんです。バズワードはこれから幾多の試練を潜り抜け、より一般名詞になれるかどうかの言葉の幼児です。そんな子供相手にお前はバズだ、一人前じゃないとかいってもはじまらないでしょう。だとすれば、真に有益なのは、バズワードとして扱われる対象を、一般的なコンセンサスが得られるくらい高められるかの議論や行動ではないでしょうか?ようは言葉の成長につきあうかどうかです。
つまり、バズワードに対して可能な態度は、肯定的なものであれ否定的なものであれ、その内容そのものに関して深く関与するのか、そうでなければ、まったく無視するかの2つに1つだと思います。
言い換えれば、バズワードという言葉の成長に対して、責任を引き受けるか、完全に責任を回避するかです。
でも、人工的な子供は好きじゃない
これからは、知ったかぶって「それはバズワードでしょ」とか言っている人には「当たり前でしょ」と言ってあげてください。それは子供に対して「お前、子供だな」と言っているだけにすぎないのですから。とはいえ、明らかにマーケティング効果を狙ったバズワードは僕も好きじゃないです。そういう可愛くない子供は早く消えてなくなってくれって思うこともあります。
このへんはやっぱり情報の発信者も、受信する側も、双方、利己的になりすぎずに相手の利益も考えつつ、うまいことやってきましょうよってことですかね。
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