新しい発見や発明があった時
何の本だったか思い出せないのですが、昔、新しい言葉が数多く生み出される時代は活気のある時代だという内容のものを読んだ記憶があります。これは考えてみればある意味、当然で、テレビが登場すればそれを指す「テレビ」という言葉は必要だし、自動車が登場すれば「自動車」「クルマ」という言葉が必要になります。これまでなかったものが誕生すれば、それは生まれた赤ん坊に名前をつけたり、新しく発見された生物に名前をつけるのといっしょで、それを指し示す言葉が生まれるのは、自然のことのように思います。
そして、新しい言葉が生まれるのが、いままでなかった新しいものが発明、あるいは発見されることと比例関係にあるのなら、それで社会や経済が活気づくのも納得がいきます。
その意味でもバズワードが数多く生まれるのは決して悪い兆候ではないのかなと思います(ただし、それがコミュニティから自然に生まれるバズワードである場合で、マーケティング的に押し付けられたワードに関してはそのかぎりじゃないですけど)。
新しくアイデンティティが創出される時
新しい言葉が生まれる時には、もうひとつ別のケースがあると思います。それは翻訳が必要になる場合です。
例えば、明治のはじめ、日本が西洋のものを大量に受け入れたとき、そこでは西洋の物や概念を同時に受け入れるために、数多くの新しい言葉が創出されたといいます。
柄谷 野口さんは「観念」とか「自由」といった言葉が、西洋からきたものを東洋哲学の概念で翻訳したものであり、その結果、逆に東洋哲学が西洋哲学によって解釈されるようになったと言っています。(中略)これは重要な問題だと思う。西洋的なものを漢文で訳したために、東洋哲学も西洋的に体系づけられた。つまり、その時、東洋が発見-というより「発明」されたわけです。『近代日本の批評〈3〉明治・大正篇』柄谷行人(編)
翻訳の際に生まれた言葉は、一見、東洋風の二字熟語だったといいます。
「思想」「酒精」「精神」「恋愛」「批評」などなど。
これらは一見、中国にもありそうな熟語ですが、実はカタカナ英語同様の日本語です。
輸入の際にはこうした新語の創出が生じることもあるということです。いまのSEOやWeb2.0、CGM、SNSなどはわりとそのまま輸入されていますけど。
さて、こうしてつくられた言葉が今度は言文一致政策で全国に流通されるわけです。それは言文一致とはいうものの、「言」に「文」をあわせたのはいうなれば東京だけで、他の地方では逆に「文」に「言」をあわせるようにさせられたわけです。そうやって統一された標準語によって日本というアイデンティティは強化されたわけです。
そして、これは別に日本だけで行われたことではなく、ほとんどの近代国家で行われたことでもあります。
これはある意味、女子高生なんかが自分たち用の新しい言葉をつくるのに似ています。大人の言葉を自分たちの言葉に翻訳して、それで大人と違うアイデンティティを確立するのではないでしょうか? 2チャンネルで言葉がつくられるのも同じようなものじゃないかという気がします。
民主化された言葉の流通
そんなことを考えつつも、いまバズワードがたくさん生まれたり、女子高生のあいだや2チャンネラーのあいだで新しい言葉が創出されるのは、すこしこれまでの言葉のつくられ方とは違うような気がしませんか?そう。言葉の創出が民主化されているように感じるんです。
明治の時代であれば、それは主に国策として行われたんだと思います。もちろん、その作業には多くの文学者などの協力もあったはずですが、最終的にはそれを言文一致という国策により流通させたんだと思います。
さらに自動車やテレビなどが発明、流通したときは、これは企業が主体となって言葉が生み出され、流通したのではないかと考えられます。新しく命名の必要があったものの多くは企業が作り出す新製品だったのだから、当然といえば当然です。いまマーケティング的に生み出されるバズワードがうさんくさく感じられるのは、新しくもないのに名前だけ新しくして流通させようという中身のともなわない造語だからかもしれません。
しかし、いま、生み出されている新語はどうもそれとは違うものが含まれているような気がします。先の女子高生や2チャンネラーの言葉はまず国策でもマーケティングでもありません。それから、Web2.0にしてもロングテールにしても誕生当初は同じように個人から発せられたのではないか。それをマーケティング的に利用しようという向きもあるので、すこしうさんくささも感じられるようになってるのではないかという気がします。
Web2.0やロングテールという造語は、むしろ、科学などの分野での造語、たとえば、量子力学とか、創発とか、複雑系とかに近いのではないでしょうか? それらも個人の発見に端を発しているのはいうまでもありません。
そして、僕が何よりおもしろいなと感じるのは、新しい言葉が個人発でかつ民主的に流通するようになってきたという点です。
ただ、先に書いたように新しい言葉が生まれるときには2つのパターンがあり、1つはものや概念が発見-発明されて呼称が必要になる場合と、もう1つ新しいアイデンティティの創出のために翻訳が必要になる場合の2パターンがあります。前者は中身をともなう造語ですが、後者は中身をともなわない可能性があります。
さて、これから生まれてきて、民主的に流通する新しい言葉は中身をともなうものなのか、そうではないのか? これは今後の動向を見守りたいところですね。
この記事へのコメント
いっちゃん
今回のエントリも、非常に興味深い内容でとてもシゲキ的なのですが、瑣末な点で少し気になったコトがあるのでコメントしてみます。
>「思想」「酒精」「精神」「恋愛」「批評」などなど。
>これらは一見、中国にもありそうな熟語ですが、(略)
>こうした新語の創出が生じる(略)
「思想」や「精神」を、いわゆる和製漢語に含めることは間違いではないと思いますが、
「新語の創出」といわれると、やや不適切な事例ではないかと。
どちらも中国古典での用例がある言葉です。
(http://freett.com/nandon/lunwen1.htm)
中国古典での用例とは異なり、西洋思想受容時に新しく意味を付与され流通するようになったという意味では「新語」なのかもしれませんが。。。
なんとなく「創出」された「新語」と言われるとちょっと違和感を感じます。
すいません、揚げ足とりみたいなコメントで(^^;
gitanez
コメントありがとうございます。
なるほど。確かに中国に用例があるなら、まったくの「新語の創出」ではないですね。
補足してくれて助かります。