計画のスパン

山口昌伴さんの『台所空間学』という本が非常におもしろい。
とにかくこれまで無意識に抱いていた台所観やるれ料理というものの捉え方が非常に狭いものだったと認識させられる。当たり前が当たり前でなくなるのだ。

まだ全部読み終えてはいないが、へーっと感じたことをひとつ紹介することにする。

昔の台所では、その日その都度の調理は大した問題ではなかった

例えば、料理というものをどういう時間の単位でかんがえるかということ。

僕らにとっては、料理というのは、そのとき食べる、または作る料理のことをかんがえるとのがわりと普通のことではないだろうか。せいぜい昨日の晩はなにを食べたとか、最近肉料理がつづいてれなとか、そんなレベルではないか。

しかし昔はどうやら違ったらしい。

昔は、見知らぬ者でも勝手口から入ってきたら飯を盛ったという。この台所共有の感覚は、いまはない。台所の体勢が変わってしまったのである。現在ではその日その都度の調理が問題とされているが、かつての台所ではそれは二の次の問題なのであった。

先に書いたように比較的短いスパンで料理を捉える僕らにしてみれば、これは不思議な言葉である。台所とは「その日その都度」の食事を用意する場ではないのか?

確かにいまでも休日に平日の夜の食事の作り置きをしたり、前の晩に次の日の弁当のおかずを作っておくということはある。

だが、ここで著者が明らかにしようとしているのは、そうした単位の話ではない。
ここで著者がいっているのは、僕らにはいまひとつイメージしきれないようなスパンの話だ。
そう。それは半年、一年というスパンの食についての話である。

少なくとも一週間の計で事が動いていた。いま車で一週間分をスーパーで買ってくるアメリカ流が広まりつつある。しかし日本でも昔は半年の計、一年の計で食べられていた。だからたまたま二、三人がやってきても、べつにどうということもなかったのである。ごちそうしようと思って、肉をきらしていたらどうするか。町へ買いに走る必要はない。庭であそんでいる鶏を一羽つぶせばよい。生きた鶏は、冷凍冷蔵庫に入れた鶏肉より長持ちする。それどころか、放っておくと肉が増える。冷蔵庫のない時代の、これがしたたかな食べる営みだったのである。

どうだろう。一年単位で料理を計画するというのがイメージできるだろうか。

一年単位で計画する料理

かつての台所は半年、一年といったスパンの食を用意するための場であることが主たる用途で、その日その時の食事の用意はどちらかというと、それに従属する用途だったという。

いまよりもはるかに人数が多い家族が生活していくために必要な加工保存食である味噌や漬け物を作るための場、そして作った加工保存食やその他の根菜類を長期保存しておく場が台所だった。
いまスーパーなどで買ってきているものの多くが自家製だった。先の引用にもあった鶏も含めてだ。今のように味噌や醤油などの加工食料品を買わずに、そこから自然の素材からつくる場所が台所だった。

味噌や醤油などを家で大量に作るためには大量の豆を煮る大かまどが必要だったし、漬け物を保存しておくのにも適切な冷暗所が必要だった。また、大量の野菜や根菜類を貯蓄しておく場所も必要だった。
どれもいまの狭く小さく、部屋とおなじ温度のキッチンでは不可能なことだ。やるべきことがまったく異なるのだから当然だろう。

そうした保存食の貯蓄や食材の自家製造が可能であり、それが年間というスパンで計画的に運用されていたからこそ、勝手口から見知らぬ者が2、3人入ってきた程度で慌てることなどなかったのである。

スパンやスケールと計画や戦略

これは農業を中心に生活が成り立っていた頃には、経済的な決算が一年を単位としていたことに依るところが大きい。

農家では秋の穫り入れが決算に当たる。穫り入れによってまさに年間の収入が決まる。その時点を頂点としてあとは食料の消費を含めて支出されていくばかりである。
この一年サイクルの決算は農家だけではなかった。町家の帳尻も武士の年俸に対応しており、大晦日に締められた。

つまり農家だろうと町家だろうと武家であろうと年間の収入は年単位で決まり、そこで決まった収入でいかに家計をまわしていくかを考える必要があった。
これは月収によってその月をどう暮らすかを考えるいまの生活と根本はおなじだ。

ただし、その単位が年単位となると、計画のための戦略は異なる。特にその支出が食料の消費であれば、ほっといても腐って使えなくなることはないお金とは異なる備蓄が必要だ。いかに加工保存するかが問題となる。スパンが変わったり、対象となる人数が変われば、計画も戦略も変えなければいけないのは当然だ。

これは料理の話だが、ほかのことにもいえるはずだ。スパンやスケールが異なれば、計画も戦略も道具も立ち振舞いもシステムもそれにあわせて変わる必要がある。

だが、その場合、何が適切なスパン、スケールなのかだ。
いまは昔に比べてスケールは大きくなったが、反対にスパンは極度に短くなっている。その短いスパンでの進行を僕らはときに進歩だなどと考えたりするが、それは本当に適切な選択による進歩なのだろうか。



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