実は(仮)もとれて、正式に「ライフスタイル研究会」として活動をスタートしている。
活動のテーマとしては、まず第1弾のプロジェクトとして、食やキッチンまわりのライフスタイルを考えていこうとなって、先週の土曜日にキックオフの会議を行った。
その中では、料理とかキッチンということを考える際には「料理を作る」というところにフォーカスするか、「料理を食べる」というところにフォーカスするのかで違いがありそうだねという話をしたり、料理のまわりに人が集まることによるコミュニケーションの形というのを考え直したいねという話になった。
「生の食材を調理(裁断、加熱、調味など)によって、人間が食べられる料理にする場所」というのが僕のキッチンの捉え方であると同時に、「料理を作る」というのは動物にはない人間に固有の行為だと考えている。
「食べる」行為は動物もするが、人間の場合、その前に「料理をする」がある。
その人間固有の作業としての「作る」という行為を考えるのはおもしろそうだと思っている。
また、料理のまわりに人が集まることによるコミュニケーションの形に関しては「シェアハウス」「ルームシェアリング」といった新しい居住形態が生まれつつあるなかで、家族や会社組織などとは別のコミュニティ、不定期に行われる料理を食べる会などでのつながりなど、新しいコミュニケーションが求められてきているようにも感じる。そうしたなかで料理や食とコミュニケーションの形を模索できれば、というのが1つの狙いだ。
次の会議に向け、各自がプロジェクトのヴィジョンを明確にできるよう、いろいろ調べて考えてみるというのが現在のステイタスだ。
節供
さて、そんな食とコミュニケーションの関係を探っていくにあたり、考えるための素材の収集として、古来人が集まって食をともにする例を探っている。代表的なのは正月のお節だが、どうやらお節は正月に限らないようである。五節供というものがあるらしいことがわかる。
それで家に買ってあった柳田國男さんの『年中行事覚書』を読みはじめた。
すると、その中に、おもしろい発見がさっそくいくつかあった。
まず「節句」。
これはもとは「節供」と書くのが正しかったという。
江戸幕府の初期に、五節供というものをきめて、この日は必ず上長の家に祝賀に行くべきものと定めたという話だが、その頃を境として、以前はたいてい皆節供と書いており、節句と書く者はそれからだんだん多くなって来た。柳田國男『年中行事覚書』
ここに五節供がさっそく登場している。
五節供とは、人日、上巳、端午、七夕、重陽の5つの節供をいう。
上巳は雛祭り、端午はこどもの日で、1月7日に行うとされる人日の節供を除けば、奇数の重なる日に行われる節供である。
もとは唐時代の中国の暦法で定められた季節の変わり目で、日本では先の引用にあるように江戸の初期に公式に制度として広められたようだが、明治6年には廃止されている。
食を供にする
この節供がそもそも食をともにすることを指しているという。節供の供という字は供するもの、すなわち食物ということでもあった。今では神供とか仏供とか、上に奉るもののみに限るようになったが、もとの心持はこの漢字の構造が示すように、人が共々に同じ飲食を、同じ場においてたまわることまでを含んでいた。柳田國男『年中行事覚書』
そもそも食をともにするのが節供なのであって、お雛様を飾ったり、短冊にお願いごとを書くのが主ではないのだ。
むろん、単なる食事会でもない。
目的は必ずしも腹一杯、食べて楽しむようにということではなかったが、同じ単位の飲食物、たとえば1つの甕に醸した酒、1つの甑で蒸した強飯、1つの臼の餅や1畠の瓜大根を、分けて双方の腹中に入れることは、そこに目に見えぬ力の連鎖を作るという、古い信仰が根本にあったのである。柳田國男『年中行事覚書』
同じ釜のめしを食うとか、盃をかわすといったことの根源にあるのは、こうした考えだろう。花を見れば、その生命力に預かれると考えられた古代のアニミズムに連なる考えである。
もちろん、こうした節供では集まった人びとだけでなく、神もともに食事をした。まさにお供えである。
それは普段は食さない米を口にする日でもあった。節供には餅がつきものである。
こうしたハレの日にしか米を食さないのは経済的な理由によるものだけでなく、いまのように精米技術が発達していない時代には籾がらから米を取り出すにもたいそう手間も時間も必要だったからだ。その仕事は女性の仕事だったようだが、もちろん何人か集まってやる必要があっただろう。
そうした人手を確保するためにも節供によるコミュニケーション、コミュニティの形成と維持は重要な事柄であっただろう。
食とコミュニケーションの形を考える
時代が変わり、こうした農家、農村を中心に行われていた節供は行われなくなり、かつての節供は意味が失われ、形だけの節句となっている。しかし、この現代に人と人とのあいだに似たようなコミュニケーションやコミュニティが必要でないかというと、そんなことはないだろう。
いまも飲みュニケーションやお誕生日会などの食をともにする場がコミュニケーションに必要とされる場面は多いし、団欒食よりも孤食が増えているとはいえ、家庭は相変わらず同じ釜のめしを食うコミュニティである。
コミュニケーションに対する切望は、このコミュニケーションの数は多くても上辺だけのものが多く、むしろわずらわしいばかりで、本来の生きる力の糧になるようなつながりが稀薄な現代にこそ大きいものかもしれない。
実際、食に限ったコミュニケーションに限っても、やはり孤食の問題はあるし、料理をつくる旦那が増えてキッチンが必ずしも主婦の城ではなくなりはじめていたり、先にも書いたようなシェアリングという新しいライフスタイルが生まれてきていたりと、きちんとした形をともなう解決が求められることはいくつもあると感じている。
そうした中で、新たな食とコミュニケーションの形を考えていくというのが今回のプロジェクトの主旨である。
まだ、これから具体的にどのような方向に進んでいくかは見えない部分も多いが、とにかく楽しみなプロジェクトだと思っている。人間中心のデザイン、デザイン思考の真の実践の場だと考えているし、何処に向かおうとしているのかを知らない僕らが何処へ向かうのかを考えるためにも。
また何か進捗があれば、この場でも報告していきたい。
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