日本文化史研究/内藤湖南

『日本文化史研究』上下巻は、日本近代の東洋史学者のなかで最も影響のあるといわれる内藤湖南さんが各地で行った、日本文化史に関する講演録を集め収録した本です。

内藤湖南さんは名を虎次郎といい、1866年(慶応2年)に現在の秋田(当時は陸奥国)に生まれ、上京して「三河新聞」や雑誌「日本人」をはじめ「大阪朝日新聞」「台湾日報」「万朝報」などの編集に携わったのち、1907年(明治40年)に京都帝国大学(現京都大学)の文科大学史学科に招かれ、京都支那学の創設者、京大の学宝とまで呼ばれました。1926年(大正15年)に退官し、読書三昧の毎日を過ごしたあと、1934年(昭和9年)に亡くなっています。

内藤湖南さんとの出会い

僕が内藤湖南さんに興味をもったのは、松岡正剛さんが何かの著書で影響を受けたと書いていたからで、この本は9月頃には買っていたと思います。
その後しばらく読まずに置いておいたのですが、最近読んだ『白川静 漢字の世界観』のなかで松岡さんが白川静さんも内藤湖南さんに影響を受けたということが書かれていました。そして、白川さんの「内藤先生のことは、そういうふうに私が一番最初に、いわゆる私淑ですね、『孟子』がいうところの私淑である。直接にその人の教えを受けることはできんけれども、ひそかにそれに習うて自らを淑くするという、そういう私淑という気持ちで先生の著作に接しておった」という言葉が引用されていました。

松岡さんと白川さんという僕が読んで非常に惹かれる本を書かれているお2人が揃って影響を受けているのだからと、あらためて内藤湖南さんへの興味が強くなり先日になって読みはじめたのです。

日本文化を固めた豆腐のにがり

これが読んでみると、とてもおもしろかった。
上下2冊を一気に読み終わりました。それぞれ200ページほどの薄い本なので量的にも大したことはありません。

講演集ということもあってか知らないことがたくさんでてきても読みやすかったですし、何より読んでいて伝わってくる内藤湖南さんの人柄のようなものにも惹かれました。何度も「日本歴史は専門ではありません」とお断りされながらも、中国を専門に研究されていた視点から日本文化が中国とどのような関係をもちながら独自の文化史を育んだのかということを様々なテーマの講演で教えてくれています。

構成としては、上巻で日本の上古の時代から鎌倉あたりまでを扱い、下巻で室町から江戸を扱っているという風に、いちお歴史を下るような順序になっています。そのなかには「日本文化とは何ぞや」や「日本国民の文化的素質」という比較的大きなテーマの講演があったり、「近畿地方における神社」や「大阪の町人と学問」などという関西にベースをおいて研究をされた方ならではの講演もあれば、「聖徳太子」「弘法大師の文芸」など特定の人物を取り上げたテーマも含まれます。

「日本文化とは何ぞや」という講演では、日本文化の成立における中国文化のもつ意味合いを豆腐のにがりにたとえているのは、なるほどなと思いました。これは先の松岡さんの『白川静 漢字の世界観』の「あとがき」にも取り上げられているのですが、日本にはもともと文化のもとになるようなものがスープ状にあったのだけど、それをにがりのように豆腐として固めるには、中国文化という存在が必要だったという話です。日本文化は中国文化の受け売りではないとはいえ、それ自体独自に成立したものではないということを豆腐とにがりの関係にたとえているのです。

日本文化の独立は応仁の乱以降

また、日本文化の中国からの独立の時期を、応仁の乱以降と断言している点も興味をひきました。また、その独立とともに文化が庶民レベルにまで浸透したというのもおもしろい。

昨日の「隠された十字架―法隆寺論/梅原猛」でもすこし扱った聖徳太子時代の飛鳥文化から奈良・平安期までの文化は王朝・貴族の文化でした。

白川静さんが『詩経―中国の古代歌謡』で書いてらっしゃることですが、中国の『詩経』と日本の『万葉集』には呪的な祭祀中心の氏族社会における歌謡であることや民謡から生まれた歌が多いことなど共通する点が多いといいます。しかし、『万葉集』の時代はまだオーラル・コミュニケーションの時代であり、口承されていたものが後に文字で書かれていたものです。その後、あらかじめ書かれることが前提となった『古今和歌集』以降の歌の世界は王朝・貴族のものになります(文字そのものが王朝・貴族のものでしたから)。

そうした点からみても、にがりが加わった初期の日本文化は王朝・貴族など限られた人びとの文化でした。それが鎌倉期に入って、武士階級にも文化が広がり、仏教にしても武士の好みに近い禅宗などの宗派が新しく生まれました。

時代の混乱と文化の民衆化

それが庶民にまで広がっていくのが応仁の乱以降であり、と同時に中国からの日本文化の独立が生じたと内藤さんは考え断言しているわけです。それ以前には蒙古襲来があり、日本は神風の力を借りて、元を追いやった。そこから神道(例えば伊勢神宮外宮の度会神道など)が力をもち、日本は神の国だということになり、天皇家では王権復古が叫ばれるようになります。それが南北朝の対立ともなる。大和国吉野行宮に南朝がと山城国平安京に北朝がそれぞれ位置することになります。


吉野山


南北朝時代の混乱、そして、度重なる有力大名の反乱などにより足利時代は混迷のなかにありました。ここで『詩経―中国の古代歌謡』のなかで白川さんが『詩経』の民衆の歌が生まれたのは古代の閉じた氏族社会から周の祭祀的な王朝社会、有力な豪族による統治へと移った混乱の時期であり、「民衆は、自由のよろこびを獲得するとともに、また新しい時代へのおそれを抱かずにはいられなかった。そのよろこびとおそれのうちに、古代歌謡の世界が成立する」と書いてらっしゃることが思い出されます。
時代が混迷し、古い秩序が新しい秩序に移り変わろうとするその境目に民衆の歌や文化が生じるという関連性を感じます。

文化の国産化

松岡正剛さんの『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』『山水思想―「負」の想像力』を読んでも、茶の湯において従来の渡来の名物から国産の器に関心が移り、茶そのものが庶民のなかに浸透するのも、また、中国の山水画が日本独自の展開をみせはじめるのも、応仁の乱以降の室町時代においてでした。中国ではちょうど元から明に権力の座が移った頃です。

それ以降、文化は町人たちの手にしだいに移っていき、戦国の世においては千利休が登場し、江戸期に入っては完全に町人文化が力を得るのは田中優子さんの『江戸の想像力 18世紀のメディアと表象』『江戸百夢―近世図像学の楽しみ』でも紹介されているとおりです。もちろん、そこで中国文化を忘れたわけではないにせよ、日本独自の文化を中心に文化を形づくっていくことになります。

ほかにもいろいろと興味をもったことがありましたが、長くなるのでこのくらいに。
内藤湖南さんの魅力は「日本歴史は専門ではありません」と繰り返しつつも、とにかくその専門でない日本の歴史を抉る視点の鋭さには驚かされ、そして、その鋭い視点が徹底して書籍を読み解くこと、さらに読むことから感じることに発している感じがよいといったところでしょうか。
あまりにおもしろかったので続けて内藤湖南さんの別の本『東洋文化史』も読みはじめています。

 

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