ここではないどこかへ
鴻上尚史さん著『もうひとつの地球にある水平線のあるピアノ』の感想です。ちょっと、ネタばれあります。
この戯曲は、『ここではないどこかへ』のエッセイ集の中に収録されています。
『ハルシオン・デイズ』も再読でしたが、この『もうひとつの地球にある水平線のあるピアノ』も再読となります。とても懐かしい♪
なぜ懐かしいか?それは、この作品、母・大森みつ子=女優(ミッキー大森)を大学時代に演じたことがあるからです。でも、この本は、持ってなくて。時々図書館で借りてきて読んでます。
持っているのは、こちらです。
パレード旅団。
パレード旅団は、この『もうひとつの地球にある水平線のあるピアノ』を改訂したものです。
違いは『もうひとつ~』の方が、家族とレンタルビデオ屋さんが舞台
『パレード旅団』が、家族と中学生のいじめが舞台。
となっています。
自分がやったとこともあるせいなのか、どちらかというと、『もうひとつ~』の方が思い入れがあり、好きです。
鴻上さんは、ひょっとしたら、この作品が好きではない、未完成のものだ。と位置づけているのかもしれないけれど、私は、こちらの方が好きです。
(『家族』の方の場面よりも)ビデオをテーマにした場面の方が好きなので、時々パレード旅団を読んでも、どうも物足りないのです(笑)
で、究極のビデオ(二十一世紀のビデオ)の話が、めっちゃ好きなのです。
後半で出てくる自己のイメージを映像化できるビデオの、あの話しのくだりが好きでねぇ。
ココを読むと、ガリ版刷りの台本の誰かの文字が浮かんできたりする(笑)
ちょうど、「悪夢ちゃん」で、『夢が映像化』されるってのをやってますが。ああ、コレだよ、コレ。とか思います。
「……前略~めざめて驚いた。自分の夢がすべて記録されていたんだ」
想像を自由に映像化できる二十一世紀のビデオ
ああ、欲しいわぁ~(笑)
残念ながら当時は、キャストと演出家は、作品を読みこなすことや演じることができなかったので、ギャグとかがことごとく滑っていったり、上演前にもごたごたがあったりと、とても成功した舞台とはいえなかったのだけれど、でも、思い出深い作品。
……そういや、私、前日、熱出して、皆に心配かけたっけ。
練習中、後輩に、「大森みつ子ってのは、森光子さんのことだと思う(そんな感じで演じたらいいのでは?)」と言われて、(そんなん、私にできるわけないやろ)と思ったことは、いまだに強烈に覚えている。
ミスキャストだってことは、自分でも痛いほどわかっていたのだけど。
何せ、大学の演劇部なもんで、人材は足りない(笑)
いまだに、じいちゃんを削ったことは、本当に痛手だったと、思っている。
(舞台を見た人と、鴻上さんから「えーーー」という絶叫が、今、聞こえたような気がします)
でも、これ、ほんと、最後が好きでね~。
これは、演じるよりは、この最後の部分は見る側がいいなぁ。なんて思う。
あ、でも、当時、別の劇団がやったのを見たけど、最後のシーンどうだったか、忘れてる!!
覚えてるのは、「ああ、じいちゃん、やっぱ、おいしい役だ~」の、悔しさだ。
ちなみに、特に好きな台詞は、ラスト、登場人物が全員で言う台詞です。
このエッセイのタイトルにもなっています。
「いつのころからか分からないのだけれど、ある街の風景が私の頭にすみついてはなれないんだ。それは、ニューヨークでもトキオでもシャンハイでもメキシコシティーでもなく、そのどれでもあり、どれでもない、ここじゃないどこかなんだ。いやひょっとすると、ここかもしれないどこかなんだ。……~中略~ここじゃないどこかへ、あなたでない誰かと、いやひょっとすると、ここかもしれないどこかへ、あなたかもしれない誰かと~」
」
この戯曲は、『ここではないどこかへ』のエッセイ集の中に収録されています。
『ハルシオン・デイズ』も再読でしたが、この『もうひとつの地球にある水平線のあるピアノ』も再読となります。とても懐かしい♪
なぜ懐かしいか?それは、この作品、母・大森みつ子=女優(ミッキー大森)を大学時代に演じたことがあるからです。でも、この本は、持ってなくて。時々図書館で借りてきて読んでます。
持っているのは、こちらです。
パレード旅団。
パレード旅団は、この『もうひとつの地球にある水平線のあるピアノ』を改訂したものです。
違いは『もうひとつ~』の方が、家族とレンタルビデオ屋さんが舞台
『パレード旅団』が、家族と中学生のいじめが舞台。
となっています。
自分がやったとこともあるせいなのか、どちらかというと、『もうひとつ~』の方が思い入れがあり、好きです。
鴻上さんは、ひょっとしたら、この作品が好きではない、未完成のものだ。と位置づけているのかもしれないけれど、私は、こちらの方が好きです。
(『家族』の方の場面よりも)ビデオをテーマにした場面の方が好きなので、時々パレード旅団を読んでも、どうも物足りないのです(笑)
で、究極のビデオ(二十一世紀のビデオ)の話が、めっちゃ好きなのです。
後半で出てくる自己のイメージを映像化できるビデオの、あの話しのくだりが好きでねぇ。
ココを読むと、ガリ版刷りの台本の誰かの文字が浮かんできたりする(笑)
ちょうど、「悪夢ちゃん」で、『夢が映像化』されるってのをやってますが。ああ、コレだよ、コレ。とか思います。
「……前略~めざめて驚いた。自分の夢がすべて記録されていたんだ」
想像を自由に映像化できる二十一世紀のビデオ
ああ、欲しいわぁ~(笑)
残念ながら当時は、キャストと演出家は、作品を読みこなすことや演じることができなかったので、ギャグとかがことごとく滑っていったり、上演前にもごたごたがあったりと、とても成功した舞台とはいえなかったのだけれど、でも、思い出深い作品。
……そういや、私、前日、熱出して、皆に心配かけたっけ。
練習中、後輩に、「大森みつ子ってのは、森光子さんのことだと思う(そんな感じで演じたらいいのでは?)」と言われて、(そんなん、私にできるわけないやろ)と思ったことは、いまだに強烈に覚えている。
ミスキャストだってことは、自分でも痛いほどわかっていたのだけど。
何せ、大学の演劇部なもんで、人材は足りない(笑)
いまだに、じいちゃんを削ったことは、本当に痛手だったと、思っている。
(舞台を見た人と、鴻上さんから「えーーー」という絶叫が、今、聞こえたような気がします)
でも、これ、ほんと、最後が好きでね~。
これは、演じるよりは、この最後の部分は見る側がいいなぁ。なんて思う。
あ、でも、当時、別の劇団がやったのを見たけど、最後のシーンどうだったか、忘れてる!!
覚えてるのは、「ああ、じいちゃん、やっぱ、おいしい役だ~」の、悔しさだ。
ちなみに、特に好きな台詞は、ラスト、登場人物が全員で言う台詞です。
このエッセイのタイトルにもなっています。
「いつのころからか分からないのだけれど、ある街の風景が私の頭にすみついてはなれないんだ。それは、ニューヨークでもトキオでもシャンハイでもメキシコシティーでもなく、そのどれでもあり、どれでもない、ここじゃないどこかなんだ。いやひょっとすると、ここかもしれないどこかなんだ。……~中略~ここじゃないどこかへ、あなたでない誰かと、いやひょっとすると、ここかもしれないどこかへ、あなたかもしれない誰かと~」
」
ハルシオン・デイズ
鴻上尚史さん著。
図書館で借りてきました。再読です♪
「泣いた赤おに」の話が、後半、劇中で出てきます。
やっぱり、面白いなぁ。
鴻上さんの戯曲は、私にとって、難解なものが多い(面白くないという意味ではありません)のですが、この作品は、比較的わかりやすいです。
超簡単あらすじ
-------------------------
自殺サイトで知り合った3人プラス一人の物語。
マンションの一室で、自殺をしようと集まった和美・雅之・哲造の三人。
しかし、和美は、実は、雅之と哲造に自殺を止めようとしていた。
楽しいさなかに死にたいと言う哲造。
自殺の準備は着々と進む中、雅之が別人格による妄想に侵され始める。
和美はカウンセラー、担当していた患者が自殺をしてしまったという過去から、二人の自殺を止めたいのだ。
その死んだ患者・明生の幻影と(和美にだけみえて、二人には見えない)ともに話は進行していく。
そんな中、3人と明生は、「泣いた赤おに」の芝居の練習をする……。
---------------------------------
鴻上さんのお話には、「自殺」「妄想」というエピソードがよく出てきます。
ここでは、雅之が、「自分は、テロでの生き残り」「テロからの攻撃を、人間盾となって阻止する」という妄想にとりつかれ、別人格になります。
「トランス」という戯曲(購入しております)では、「自分は天皇」という妄想にとりつかれた男=立原が登場します。
このハルシオン・デイズは「もうひとつのトランス」というコピーがついていたそうです。
鴻上さんは、あとがきで、「まったく別のものになった」と述べておられますが、私は、戯曲を読む限りでは、けっこう似ているなぁと思います。
もちろん、脚本を黙読しただけで、上演をみたわけではないので、似ていると感じるのかもしれません。
「トランス」では、果たして病んでいるのは誰なのだろう……、一体、妄想と、妄想ではないということは、どこがどうなのだろう……、と胸をつかれます。
このハルシオン・デイズで、「トランス」の登場人物の名前が台詞の中に出てきたりするので、ああ、あのひとは、ああだったのね。なんて、確認できたりしました。
鴻上さんの戯曲やエッセイの中でよく出てくる言葉で「事実は存在しない、ただ解釈だけが存在する」というものがあります。いつも、この言葉が頭をかけめぐります。確かにそうだと思います。
すべての事柄は、それを受け取る人によって、説明づけられていく。
そして、
それぞれの人が、自分の脳が処理する範囲で、物事って決まっていくのだろうなぁ……と。
このハルシオン・デイズでは、「地球照」のエピソードが取り上げられています。
これも印象に残る話。ふむふむ。
図書館で借りてきました。再読です♪
「泣いた赤おに」の話が、後半、劇中で出てきます。
やっぱり、面白いなぁ。
鴻上さんの戯曲は、私にとって、難解なものが多い(面白くないという意味ではありません)のですが、この作品は、比較的わかりやすいです。
超簡単あらすじ
-------------------------
自殺サイトで知り合った3人プラス一人の物語。
マンションの一室で、自殺をしようと集まった和美・雅之・哲造の三人。
しかし、和美は、実は、雅之と哲造に自殺を止めようとしていた。
楽しいさなかに死にたいと言う哲造。
自殺の準備は着々と進む中、雅之が別人格による妄想に侵され始める。
和美はカウンセラー、担当していた患者が自殺をしてしまったという過去から、二人の自殺を止めたいのだ。
その死んだ患者・明生の幻影と(和美にだけみえて、二人には見えない)ともに話は進行していく。
そんな中、3人と明生は、「泣いた赤おに」の芝居の練習をする……。
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鴻上さんのお話には、「自殺」「妄想」というエピソードがよく出てきます。
ここでは、雅之が、「自分は、テロでの生き残り」「テロからの攻撃を、人間盾となって阻止する」という妄想にとりつかれ、別人格になります。
「トランス」という戯曲(購入しております)では、「自分は天皇」という妄想にとりつかれた男=立原が登場します。
このハルシオン・デイズは「もうひとつのトランス」というコピーがついていたそうです。
鴻上さんは、あとがきで、「まったく別のものになった」と述べておられますが、私は、戯曲を読む限りでは、けっこう似ているなぁと思います。
もちろん、脚本を黙読しただけで、上演をみたわけではないので、似ていると感じるのかもしれません。
「トランス」では、果たして病んでいるのは誰なのだろう……、一体、妄想と、妄想ではないということは、どこがどうなのだろう……、と胸をつかれます。
このハルシオン・デイズで、「トランス」の登場人物の名前が台詞の中に出てきたりするので、ああ、あのひとは、ああだったのね。なんて、確認できたりしました。
鴻上さんの戯曲やエッセイの中でよく出てくる言葉で「事実は存在しない、ただ解釈だけが存在する」というものがあります。いつも、この言葉が頭をかけめぐります。確かにそうだと思います。
すべての事柄は、それを受け取る人によって、説明づけられていく。
そして、
それぞれの人が、自分の脳が処理する範囲で、物事って決まっていくのだろうなぁ……と。
このハルシオン・デイズでは、「地球照」のエピソードが取り上げられています。
これも印象に残る話。ふむふむ。