他の人もやっているから…というのは小学生の言い訳

 気になったニュースです。
研修生、時給450円残業 千葉養豚場殺人

 社団法人「千葉県農業協会」が受け入れている中国人研修生(26)が研修先の養豚場で男女3人を殺傷したとされる事件で、本来は残業してはいけない研修生が時給450円で月50時間前後の残業をしていたことがわかった。(略)
(ashahi.com 2006年09月02日)

 中国人容疑者による殺人と傷害の背景に、苛酷な労働環境(といいますか搾取の構造)があったという話です。
 もちろんこの中国人容疑者の刑法上の罪は厳しく問うべきですが、外国人研修生をいいように使っていた側に対しても厳罰があってしかるべきでしょう。これに似た話、かつて日本から外国へ出稼ぎや移民に行って搾取されたとか騙されたとかいう話なら、はっきり酷い話だと思う人が多いでしょう。それと何も変わりはありません。人の欲を食い物にする奴らはどこの国、どこの時代にもいるでしょうが、あまり罪の意識がなさそうに「搾取」していた「千葉県農業協会」は酷すぎます。

養豚場主は「協会幹部には『パートを雇ったつもりで使えばいい』と言われた。本人が『やらせてくれ』というので残業もさせた」と語った。450円にした理由についても、同じ協会幹部から「研修生間で格差が生じるので、450円以上でも以下でもだめだと言われた」。
(中略)
ある農家は「協会関係者が『ほかのみなさんはこうやっています』と言って『450円』を示された」と話した。
(同上)

 これが凄く大きい問題だと思うのです。
 「他の人もやっているからそうした」
 これを言い訳にさせてはいけません。最近こまごま目立ってきた私たちの社会の「倫理的劣化」「道徳的無感覚」には、根っこのところで必ずと言っていいほどこの子供じみた言い訳があるように思えてなりません。倫理判断を個人で引き受けることなく、事の重大さを感じる感覚を麻痺させる魔法の言葉ですね。黒魔術の。
 自分で考えろ、と言いたくなる場面が日常頻出します。罪悪感なしに酷いことがやれてしまうから性質が悪いです。軽いところで言えばスーパー等の障碍者専用スペースに駐車するとか、大き目の交差点で右折車が一、二台先に曲がるとか、禁煙のホームで喫煙するとか…自分の都合だけしか考えていません。こういう感覚の劣化が、このような重い悪質な行為にもつながってくると私は考えます。


 こちらの「時給300円、使い捨て 外国人実習生」という関連記事では、

04年に来日。ホウレンソウとイチゴの栽培を学ぶはずが、受け入れ先は製材会社。研修の合間に理事長一家の家の掃除や靴磨きもさせられた。


 研修生のときの手当は月5万円。禁止されている残業の時給は300円。実習生になると、基本給6万5000円、残業時給350円。賃金台帳では、基本賃金11万2000円に残業代がつくとされていたが、寮の家賃5万5000円とふとんのリース料6000円、洗濯機、テレビ、流し台のリース料など「生活経費」として毎月計9万円近くも天引きされた。
(ashahi.com 2006年08月17日)

 というひどい実例が挙げられていて、これはもう「タコ部屋労働」としか言いようがない待遇でしょう。しかもこのケース、「逆らえば帰国させる」とどこかの悪代官みたいな理事長の性的暴力付きという体たらくです。

「残業カットで、シビれているのは実習生。貨幣価値に差があるので低賃金でも彼ら自身が残業をしたがるし、農家も実習生らも、互いにそれでいいはず。ルール通りにやっていたら、制度のメリットなんてない」
(同上)

 自分の都合しか考えず、こんな考えの浅い言い訳を恥ずかしげもなくする大人にはきちんと落とし前をつけさせたいと本当に思います。低賃金でも云々という言葉は、最低労賃以上を払ってから言いなさい。ルールを無視して得たメリットは恥ずかしく思うべきです。

 研修の資格で入国した後、不法残留している外国人は06年1月時点で約3400人。実習生の失跡数は01年度の677人から05年度は1456人に増えた。


 こうした失跡を防ぐため、研修生は来日前に高額な「保証金」を中国側の送り出し機関に預けているという。しかし、この「保証金」のために借金をし、無理に日本で稼ごうとしたり、保証金の没収を恐れて劣悪な労働環境や雇用主側の不正に従わざるを得なかったりするケースも少なくない。


 こうした中、制度の目的である「技能移転」は形骸化している。外国人労働者を支援する、全統一労働組合の鳥井一平書記長は、「規制緩和の中で建前が無視され、安い労働力、という本音がむき出しになった。制度が壊れてしまった感じだ」と話す。
(同上)

 「規制緩和の中で…」みたいな思い込みは言わないでいいですから。そんなものが原因とは思えません。根っこはもっと深いのではないかと考えます。現に倫理観の劣化は、ここ五年、十年のことではないです。こういう時でも「都合のいい言葉」を発しようとする感覚はだめだめです。
 もとからこの外国人研修制度が「いやらしい目論見」を持っていたのだったら、即刻廃止すべきです。すぐに廃せないのであれば、せめて最低労賃は与え、不当な天引きは厳罰に。それで中期的に研修制度をなくす方向で考えていかねばなりません。


 「働き手がいない」という問題ならば、その仕事で人が働いてくれたことを最大のメリットと考えて欲はかかないことです。それで成り立たない仕事・商売なら、違法行為を行ってでも続けるということに賛成しかねます。そもそも外国人労働者をフェアに扱えないようならば、この国に単純労働者を迎えることはお互いに長い目でみてデメリットが大きすぎます。不法滞在者の問題然りです。日本人にも外国人にも幸せがこないなら、最初から変な希望を抱かない・抱かせないのが一番です。
 そしてなにより、このケースのように悪いことをやっているならその罪の意識は持たせるべきですし、そういう意味でも何らかのペナルティーが出せないものでしょうか、今回のケースで。
 とにかく「他の人もやっているから」という小学生みたいなことを言う大人を一人でも少なくしなければ、この社会はどんどん悪い方向へ行くように思います。馬鹿げたことですが、それが現状ですから…。

森岡氏の言葉

 トラックバックをいただいたeireneさんのはてなグループ「Life Studies Blog 分室」で情報を得て、森岡正博氏が管理人の掲示板生命学・書籍など関連の情報交換掲示板を覗かせていただきました。
 そこで先月26日あたりからのやり取りを読んだわけですが、(坂東氏の問題についてまとめておられる)てるてるさんが私のサイトのurlをご紹介してくださっていて、「子猫を殺すこと」という私の日記を読んだ森岡氏の感想は次のようなものでした。

雑感4 投稿者:森岡正博 投稿日: 8月26日(土)16時11分0秒
umin3さんのブログで、

>なぜなら人間は他の生物の例に漏れず、生きるために他の生物
>を殺し、あるいは喰らうことを基本的に必要とする存在だから
>です。この意味では他の動物を殺すことを単純に悪と断じるわ
>けにはいきません。


とありますが、人間が生きるために他の「動物」を殺さなければいけないことはありません。全員がベジタリアンになればよいだけです。


板東さんの件が問題になっているのは、彼女が植物を投げ落としたからではなくて、動物(ほ乳類)を投げ落としたからですよね。


私は牛、豚、肉を食べるのをやめたくないから、それらを殺すのはやむを得ない、という意見は、とりあえずは「エゴイズム」であると押さえておくことが必要だと思います。自分が動物を殺すのを許容しておきながら、他人が動物を殺すのを批判するのはなぜか、というのが私の論点です。


2ちゃんなどで、家畜殺しは有益だが、子猫投げ落としは無益、という意見があるそうですが、そもそも板東さんの行為が避難されているのはそれが無益だからではなくて、「残酷」「かわいそう」だったからではないのかな? またその場合の「有益」とは何なのか? 動物の肉を食べなくても人間は生きていけるから、その有益は、「味」のこと? あの「味」を味わうためなら、ほ乳類を無残に殺してもぜんぜんかまわない、と、それらの人たちは見なしているということを自覚しているのかな? 自分が生きるのに不必要な「味」を味わうんだったら残酷に殺してもいい、と自己正当化してることはその人たちは認めるのかな?


などのことを、思いました。


 あまり深くも考えず最初に思ったことを書かれただけなのでしょうが、この表現には誤解を招くところがいっぱいありますね。案の定ここからちょっとした議論になっています。で、結局森岡氏の言いたいところは、回避する方法もあるのだから最初から仕方がないなどと責任を放棄するのはだめ、ということに尽きるのでしょう。つまりこの種の議論で、自分を免責する立場で考えるなとおっしゃりたいのだと読み取れました。


 森岡氏はかなりそこらへんは突き詰めたもの言いをなさる方で、時にそれは露悪的に過ぎると思える点もありますが、それは氏のスタイルとして了解していますし、まさに「らしい」言い方かなと思います。ただ、ちょっと「啓蒙的」に過ぎる言い方もこの頃目立つかなと感じております。氏の言が届くのは、かなり限定された人ということになってしまっているんですよね。


 あまり問題を考えていなくても、何がしかの思想に感化されていても、あるいは自分を免責する心があったとしても、またいろいろ考えた末であっても、「人間は他の動物の生命をとらずに生きていけないものだ」という同じ言葉が出てくることはあろうかと思います。
 そこらへんの受け取り方の怖さというものを最近の森岡氏はあまり意識していらっしゃらないのではないかと感じます。決め付けが強い…それがちょっと「啓蒙的」過ぎに見えてしまう理由かなと…。