経験科学はいかにして政治的たり得るか
2007/04/14(土) 22:38:50 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-333.html
4月だから、というわけでもないが、ヴェーバーから少し引いてみたい。
さらに、われわれは、もしある考えられた目的を達成する可能性が与えられているように見えるばあい、そのさい必要とされる〔当の〕手段を〔現実に〕適用することが、あらゆる出来事のあらゆる連関〔にいやおうなく編入されること〕をとおして、もくろまれた目的のありうべき達成のほかに、いかなる〔随伴〕結果をもたらすことになるかを、当然つねに、そのときどきのわれわれの知識の限界内においてではあるが、確定することができる。(中略)すなわち、われわれは、意欲された目的の達成が、予見できる出来事の連鎖を介して、他のいかなる価値を損なうことになるか、そうした形でなにを「犠牲にする」か、という問いに答えることができる。大多数のばあい、もくろまれた目的の追求はことごとく、この意味でなにかを犠牲にする、あるいは少なくとも犠牲にしうるから、責任をもって行為する人間の自己省察で、目的と結果との相互秤量を避けて通れるようなものはない。とすれば、そうした相互秤量を可能にすることこそ、われわれがこれまでに考察してきた〔科学にもとづく〕技術的批判の、もっとも本質的な機能の一つである。ところで、この秤量自体に決着をつけることは、もとより、もはや科学のよくなしうる任務ではなく、意欲する人間の課題である。そこでは、意欲する人間が、自分の良心と自分の個人的な世界観とにしたがって、問題となっている諸価値を評価し、選択するのである。科学は、かれを助けて、あらゆる行為、したがって当然、事情によっては行為しないこともまた、それぞれの帰結において、特定の価値への加担を意味し、したがって通例―このことは、今日とかく誤認されがちであるが―他の諸価値にたいしては敵対することになる、という関係を、意識させることはできる。しかし、選択をくだすのは、意欲する人間の課題である。
(マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店、1998年)31‐33頁。なお、補訳者の挿入を一部省略した上、原文の傍点を省略した。太字強調は引用者。)
丸山眞男「科学としての政治学」(『現代政治の思想と行動』、所収)からも引きたいところだが、これも長くなりそうなので控えるとして。
誰も私が科学をやっているとは思わないだろうし、実際やっているのかどうか不明なわけだが、少なくとも科学って何かにゃあ、ということについてはたまに考えたりするってことで。そういうことを考えたいときにヴェーバーや丸山に頼るところが芸が無いと言えば無いわけだが、まぁ芸など無くてよいでしょう、こういう場合には。
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