未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

そろそろオラクルについて一言いっておくか

自分が受けたインタビューを自分が解説するという変な企画の第3弾(笑)。スーパーハッカー列伝。吉岡弘隆氏

その1 ソフトウェアの国際化をやっていたころの話をしよう http://d.hatena.ne.jp/hyoshiok/20100113#p1

その2 そろそろUnicodeについて一言いっておくか http://d.hatena.ne.jp/hyoshiok/20090419#p2

イノベーションのジレンマによって駆逐されたDECという会社

川井 そんな歴史があったんですね。「オラクル」さんに移られたのは「DEC」さんの終焉に伴ってていうのがあるんですか?

吉岡 ありますね。1993年ぐらいから「DEC」が大赤字を出してる年なんですよね。
それで日本の「DEC」もどんどんシュリンクするという方向もあって、希望退職制度かなんかで200人ぐらい募集したんですよ。
そうするとやっぱり同僚がどんどん辞めていくっていうのもあり、寂しい部分もありでしたね。
私は VAX Rdbっていうことで USのRDBの部門で仕事して日本へ戻ってきたわけなんですけど、その当時にRDBの部門が部門ごと「米国オラクル」に売却されるんですよ。
今でこそM&Aとか色々あるんだけど、当時会社が売買されるなんて言うことを私自身も経験無かったし、想定も全然してなかったんですよ。レイオフっていう言葉も知らなかったですから。

DECという会社は当時世界第2位のコンピュータメーカーだった。時代に取り残され市場から撤退を余儀なくされる。1998年にCompaqに買収されDECという社名はなくなる。そのCompaqも2002年にHPに買収され今はない。

DECの経営者が無能だったから時代に取り残されたのだろうか。

むしろ、有能だったから時代に取り残されたのだと思う。VAXというアーキテクチャ、VMSというOS、DECnetという水平分散型のネットワーク、VAXClusterという疎結合クラスタ。80年代に完成したDECのシングルアーキテクチャーはスケーラビリティもフレキシビリティも拡張性もあり、当時売れに売れた。そして、それが売れに売れたがゆえに、成功したがゆえに、DECは時代の変化に取り残されたのである。

Unixワークステーションというおもちゃに、TCP/IPという信頼性のないネットワークに、RISCという互換性のないアーキテクチャーに、VAXという完成したコンピュータを作った会社は潰されていくのである。大成功したが故に、その罠から逃れられない。

そして、それはイノベーションのジレンマの典型例なのである。

川井 そうだったんですね。

吉岡 そんなことがあり得んのかみたいなね、「会社が首切っていいの?」みたいな感覚でいたんで、びっくりしちゃったわけですね。
そうして94年の夏ぐらいだと思うんですけど、Vax Rdbの部門の200人ぐらいがごっそり「米国オラクル」に買収されちゃいました。日本には何人かのサポートグループが「日本オラクル」に常駐するんですけど、そうするともう日本ではRDBのエンジニアリングは当然ないし、開発部門はどんどん縮小されていくから「日本DEC」に残っても結構寂しいかなみたいな感じでしたね。
自分のキャリアとして開発の現場にいるのは相当しんどそうだなっていうのが予感としてあって、94年の秋に希望退職の第2弾があったんですね。それに背中を押されて94年の10月に残るのもしんどいし出るのもしんどいし、どうすっかなぁというところで、最終的には転職しましたね。

人生というのは不思議なもので、人間万事塞翁が馬で、会社が傾かなければ転職することもなかった。人間なんて怠惰なものだからよっぽどのことがない限り転職なんていう面倒なエネルギーをいっぱい使うことなんかしない。

その当時は、初めての転職で不安の方が希望よりも多かったような気がする。しかし、最終的に変化を選んだのは自分である。

他人と過去は変えられないけど、自分と未来は変えられる。

いまだからこそ実感として言える。

DECからオラクルへ

川井 なるほど。

吉岡 ただ「日本オラクル」に行ったからといって、開発ができるなんていうことは誰も保証してくれるわけじゃなく、行ってから考えるかみたいな感じでしたけどね。

川井 「オラクル」以外にも選択肢はあったんですか?

吉岡 微妙だったのは、専業ベンダーって他に「サイベース」と「インフォミックス」があったんですけど、どちらも今考えるとどっか行っちゃいましたからね。やばかったですよね。それはもう1/3の確率でたまたまですよ。

川井 当時お名前はそこそこ轟いてましたけどね。

吉岡 そうですね「サイベース」の方が勢いあったかもしれないですね。「インフォミックス」は「インフォミックス」で「アスキー」が凄い勢いで売ってましたからね。どこも相当元気良かったですよね。

川井 運ていうのはあるわけですよね。

吉岡 運ですよね。私の同僚でもね「インフォミックス」に行った人がいっぱいいるし、「サイベース」行った人もいっぱいいるしね、それはしょうがないですよね。

転職というのは運の部分が多かったりする。同業他社で成長する会社もあればそうでない会社もある。未来を見通せない以上、えいやで決めなければいけなかったりする。

そして1994年11月に日本DECを退職し、12月に日本オラクルに転職した。

川井 なるほどなるほど。「オラクル」ではどんな仕事をされたんですか?

吉岡 「オラクル」ではですね、技術系のところに入ってOEMベンダーさんのサポートみたいな感じでしたね。当時はOracleを色んな日本のベンダーさんのマシンに移植してもらうっていうのが仕事でした。今じゃちょっと考えにくいんですけど、日本のベンダーさんは独自UNIXみたいなのも持ってたんですよ。「ソニー」もNEWSみたいなのありましたし、「日立」もOSがあったし、皆独自のOSがあったんで、独自のUNIX向けにOracleをポーティングしてもらうみたいなね、そんなような形でしたね。

川井 そうだったんですね。

吉岡 「日本オラクル」に入るじゃないですか。
それで1995年1月17日の関西で震災があった日に、 Oracle Open Worldっていうのが横浜で開催されたんですよ。その時に、成田からラリー・エリソンも来るしバイスプレジデントが何人も来るから迎えに行くとかいってマイクロバスかなんかでピックアップしに行ったりとかしてたんです。
結構95年の前半は日本ていう地域はバブルが崩壊したり、大震災、東京のサリンの事件もあったですけど、相当どんよりしてるんですね。
その頃の私は、Oracle 8のチームがOracle 8のインターナショナリゼーションをするエンジニアを募集してるんだみたいな話があって、そしたらなんかVAX Rdb時代の上司が推薦してくれたんですよね。それで「喜んでやります」ということで、シリコンバレーに行くことになったんですよ。
希望退職で転職するときに、最後のメールをお世話になった人に書いていて、その中の一人に「DEC」時代にお世話になってたRDBの東海岸のボスがいて、「今度辞めるんだ、またどっかで」みたいなメールをしたんですね。そしたらすぐに「どこいくんだ?電話くれ。仕事ないんだったら、うちに来ないか?」とメールが返ってきたんです。ありがたいことを仰るわけですよ。それで「いやいや違うんだ。DECは辞めるんだけど今度入る会社はオラクルだから、また何かあったら宜しくね」みたいなやりとりがあったのを忘れてたんだけど、Oracle 8のインターナショナリゼーションをするエンジニアが必要だなんてことで「じゃあ私行きますよ」なんてそんな感じでしたよね。

人のつながりが、仕事を運んでくれた。ありがたいことである。

転職する時にお礼のメールを出すというのは今でこそ当たり前にやられているけど、そーゆーきっかけもあるのである。

運が良かったのかもしれない。

ソフトウェアの国際化という仕事をどうにかこうにかやっていたら、その道の専門家になって、チャンスが回ってきた。1984年に新卒で入って10年ソフトウェア開発一筋で来ていたので脂の乗り切っていた時期でもある。

シリコンバレーへ

川井 シリコンバレーへ転居されたんですよね。

吉岡 転居ですね。シリコンバレーに行って銀行の口座を作って車を買ってアパート探して、みたいな感じですよね。

川井 シリコンバレーは環境的にはいかがだったんですか?

吉岡 エンジニアとしては非常に過ごしやすかったですね。気候もいいし、満員電車じゃないし、車で15分から20分ぐらいで会社に着きますからね。

満員電車に乗らなくていいというのがいい。だけど日本だって東京以外、例えば札幌とか福岡とかだったら通勤に1時間半かかるということはないので、東京が異常なだけなのかもしれない。

会社に所属はするが依存しないという生き方

川井 クリエイティブなことがしやすい環境だっていう風には聞きますよね。

吉岡 環境は非常にいいと思いますね。さっきの話の続きになるんですけど、私が思ったのは日本の場合はエンジニアが会社にくっついちゃってるんですよね。

川井 拘束されるけど依存もしてるっていう感じになってますよね。

吉岡 依存もしてますよね。それで私の偏見かもしれないんだけど日本の場合は、技術と組織とがあった時にどっちをたてるかっていうと、組織かなと思うんですよね。平気で組織になっちゃうんですよ。私がシリコンバレーにいて思ったのは、彼らは会社には所属はしてるけど依存はしてないということなんですね。

川井 なるほど。

吉岡 たまたま今「オラクル」っていう会社にいるけど、ひょっとしたら次の日に「インフォミックス」に行くかもしれないし、「サイベース」に行くかもしれないし、それは悪いことでも何でもなくて自分が専門としてる技術を求めてくれる会社があれば、そこに移動するのは当たり前だと思うんですね。
その時の救命胴衣は、どれだけ技術に対して真面目に向き合ってたかっていうことなんですよね。
会社の都合をごり押ししてて技術的にどう考えてもそれはおかしいっていうことを主張したAさんがどこか他の会社に移ったとしても、ちょっとピント外してるなっていう評価であんまり相手にされないですよね。そうすると会社での評価はもちろん重要なんだけど、ある種の技術コミュニティの中でその人の絶対値が評価されていくには、常に切磋琢磨して技術勉強して高めていくしかないと思うんです。

ある技術があって、それを普及させようとするとき、自分の会社が作ったものを金科玉条のごとくゴリ押しするスタイルというのは受け入れられない。技術的なメリット、デメリットをオープンに議論し、説得していく。筋のいい技術だということを理解してもらい、受け入れてもらう。そのようなプロセスをプロフェッショナルとして行う。

例えばSQLの標準を作るなんていうことは、そのコミュニティの中で認められないとなかなか難しいのである。

技術に真面目に向き合う。言うのは簡単だが行うのは難しい。

吉岡 そういうプロフェッショナルの世界が、シリコンバレーっていう場所の競争力を保っているのかなと思います。
単に気候がいいとか雨があんまり降らないとか生活環境がいいとか悪いとかじゃなくて、シリコンバレーの競争力はそこを大切にしているのかなと思うんですね。
だとしたらば例えばベンチャーキャピタルがいるとかいらないとか制度的にどうだこうだじゃなくて、そういう社会的な価値観がないかぎり日本でどんなに税制を変えようが、キャピタル投入しようが、あんまり関係ないような感じがしましたね。

世界にうって出るには自分がプロフェッショナルになるしかない。世界に通用するプロフェッショナルになるしかない。そーゆー価値観を共有するしかない。

基礎体力をつけ正しいトレーニングをして、多くの経験をつみプロフェッショナルになっていく。単調に思えるトレーニングを嬉々として行う、そのような意志を持ったエンジニアがプロフェッショナルに育っていく。

日本という地域でそれを根づかせたい。そのような価値観を共有したいと強く思っている。