コメント欄に関する一考察

言論系のブログだからこそコメント欄を開放している、というブクマがあった。全面的に正しい、と思う。言論系こそ本来はコメント欄を開放しなければならない。それはそう思う。しかし私がもし言論系のブログを立ち上げるならば、私自身はヘタレなので、多分コメント欄を閉鎖したままで一方的に自分の言論を垂れ流し続けるだろう。それが生産的であるかどうかは、問題だが。
地雷みたいなものがあって、特定の話題に触れると決まって匿名のコメント者が湧いてくる、という傾向がある。今はSNSに移行したので見られなくなったが、私が愛読していた鉄道系のブログは、本人いわく「皇道派新右翼」だったそうで、2ちゃん関係者を自称していた人だったが、靖国問題でネットイナゴが湧いていた。小泉総理の靖国神社参拝を最大限褒めたからである。かように必ずしもネットイナゴ行為に及ぶのは「ネットウヨ」だけではない。ただ「ネットウヨ」の方が多数派なので、どうしても目に付く、という事情はあるだろう*1。今はどうもある特定の話題について述べると、いささか湧く傾向にあるようだ。石原慎太郎氏や安倍晋三氏をぼろくそにけなしても出てこないので、そこの偏差は興味深いところだ。
右左問わず、彼らに共通する手口を挙げると、「一見荒らしには見えない」というのが挙げられる、と言われる。
確かに荒らしに見えない、一見まじめな意見交換者が暴言を吐いても、即アクセス禁止はやりづらい。しかしささいな管理人の落度を感知した瞬間、その荒しは一気に本性を現し管理人を罵倒し始める。巧みな演出を交えながら罵倒するので、ことの本質を知らない第三者からは管理人側が一方的に悪者として映ってしまう可能性もなきにしもあらず。荒らしはそれが目的だろう。ギャラリーを意識する、というのはそういうことである。
あとどこかで読んだのだが、中立を装うコメント者には注意、とある。コメント欄が議論の坩堝となっている時に、中立の立場の人間が現れれば、確かに説得力は感じられる。当然組織的な荒らしの場合、それは計算済みだろう。「私は詳しくないが」というスタンスで意見を述べてくるのは、確かに注意が必要かも知れない。「詳しくない」人物が意見を述べる、ということはあまりないからで、実際にはその問題に関してかなり詳しいからこそ意見を表明できるのだ。さらに一方には良印象の感想を述べ、もう一方に対しては微妙に悪印象を植え付ける、という印象操作も行ってくる。態度の悪いコメント者のあとに、一見中立で、真面目な感じの書き込みを見せられれば、その人の与える印象は強くなる。その人が印象操作をすれば、効果は大きいだろう。
ただ不特定多数の人々のコミュニケーションで成立する掲示板と違い、ブログは極端な話、不特定多数のギャラリーは必要ない、と割り切れば、問題はない。そこはブログと掲示板の大きな違いなのだ。ブログではコメント欄は管理者のもの。気に入らないコメントは削除、で構わないし、それを非難する人は、気にしなくてもブログは成立する。
時々見かけるのが、掲示板とブログのコメント欄を混同している人。ブログの記事を掲示板のスレ立てと見なしている人がいる。そういう人は平気で他人のコメント欄に汚い言葉遣いもするし、コメント欄で議論を始める。長いコメントを書き込む。大量に書き込む。
そういうブログの存在は否定しない。それどころか、第三者としては面白いかも知れない。管理人がそういう方針なので望むのであれば。しかし管理人が嫌がっているのに、延々とコメント欄に書き込む行為は荒らしでしかない。ネットゴキ、ネットイナゴ、ネット珍走団と言っても同じことだ。彼らは議論など実は求めていない。言論をしようとする人間がそもそも他人のブログでの発言に干渉することが問題なのだ。嫌ならば見なければいい。批判があれば自分でブログを立ち上げ、そこで思う様批判を展開すればいい。トラックバックに関しても私はしなければならない、とは思わない。トラックバックスクラム、というのも一つの言論テロとしてはあるからだ。
一見言論を装い、他人のブログにおける発言に干渉する荒らし行為は、言論ではない。特にそれが匿名であればなおさらだ。匿名は発言に一切の責任を負わない。責任を負うことが物理的に不可能な匿名者に責任を負う必要など全くない。匿名で行われる荒らし行為は、あくまでもギャラリーを意識し、自分の属するコミュニティーへの忠誠を示そうとする示威行為でしかない。

*1:だから私は「ネット右翼」という言葉を出来るだけ使わないようにしている。行儀の悪いのは「ウヨク」だけではないのだ。「サヨク」でも「ウヨク」でも行儀の悪い人は悪いし、いい人はいい。思想云々以前に言論する時の姿勢が重要だと考える。