よくある言いがかりについて

先日次のような発言を引用しました。

@optical_frog 南京論争って関わるのアホらしい。だって「どの時期に起きたか」「どこの範囲で起きたか」「戦闘員・非戦闘員合わせて何名死亡したか」「うち国際法上完全アウト〜国際法上グレーの死亡者は何名か」「うち国際法上完全アウトのみ死亡者は何名か」を整理しないんだもの。
(https://twitter.com/macron_/status/21746386808)

あくびが出るほど聞かされた台詞です。似たようなものに「大虐殺派は犠牲者数を増やすために範囲や時間を勝手に広げてきた」というものがあります。これらについてはこれまでも何度か反論してはきましたが、これを機会に改めてまとめ直しておきたいと思います。具体的には東京裁判の判決、1986年に初版が出た秦郁彦氏の『南京事件』(中公新書)、1997年に出た笠原十九司氏の『南京事件』(岩波新書)を比較してみます。東京裁判の判決については出典を省略し、後二者についてはページ数のみを示します。
東京裁判の判決において「後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二〇万以上であったことが示されている」という事実認定がなされたことは、この問題についてまともな文献を読んだことのある人間であればまず間違いなく承知している事実です。ところが、否定派の中には「元々は南京大虐殺とは一般市民の殺害のことだったのに、それだけでは数が足りないので捕虜の殺害もカウントするようになった」などというデマを振りまいている人間がいます。東京裁判のみならず、事件当時の欧米メディアの報道にせよ、南京軍事法廷の判決にせよ、当初から捕虜の殺害と一般市民の殺害の両方を問題にしていたことを確認しておきます(ここでは殺人以外の犯罪については言及しないこととします)。


この判決は南京事件の始まりを日本軍による南京城内の占領の日、すなわち37年12月13日としています。この日付は(特に年配の)中国人の口からもよく聞くものです。これに対して、笠原氏は南京事件の期間を12月4日前後から翌年3月28日としています(215ページ)。これをもって「人数を水増しするために期間を勝手に延ばしている」とされることが多いのですが、果たしてそれは本当でしょうか?
答えは「ノー」です。秦氏の定義によれば南京事件の期間は12月2日から翌年1月末とされています(207ページ)。終わりの時期については東京裁判の認定とほぼ同じで笠原説より2ヶ月も早いですが、開始時期についてはわずか2日とはいえ笠原説より早くなっています。では秦氏もまた犠牲者数を水増しするつもりだったのでしょうか? 秦氏や半藤一利・保坂正康氏らを「進歩的文化人」呼ばわりする西尾センセイならそう言うかもしれませんが、それは単なる邪推です。そのことは、両者が集団殺害の事例を一覧にしている表を見比べれば明らかになります(秦本210ページ、笠原本224-225ページ)。笠原説でとりあげられているもっとも早い事例は12月10日から13日にかけての第6師団のケースで、もっとも後期のものは12月24日から翌年1月5日にかけての佐々木支隊による事例です。秦説の場合も12月12日から13日にかけての第114師団のものがもっとも早く、12月22日から翌年1月5日までの第16師団の事例*1がもっとも遅い事例です。つまり秦説でも笠原説でも千人単位、万人単位の集団殺害のほとんどは12月13日の南京陥落から翌年1月5日あたりまでに起きていることになり、東京裁判の事実認定より前後に時間的範囲を広げたところで犠牲者数が顕著に増えるわけではないのです。
では12月2日(秦)、4日頃(笠原)という日付にはどのような意味があるのでしょうか? 秦氏は2日という日付を採用する理由を明言していませんが、その前日である12月1日には大本営が正式に中支那方面軍の戦闘序列を発令し南京攻略を命令していますから、実質的な南京攻略戦がはじまった日付として2日が採用されたのではないか、という推測が可能です(元陸軍大尉で左派の歴史学者であった故藤原彰氏はこの理由で「十二月の初めから」としています)。笠原氏の場合は「日本の大本営が南京攻略戦を下令し、中支那方面軍が南京戦区に突入した」時期として12月4日前後としたことが明記されています(215ページ)*2。次に事件が収束した時期。秦説は東京裁判と同様と思われるので省略して、笠原説では「日本軍の残虐行為が皆無ではないまでも(近郊農村ではあいかわらずつづいていた)、ずっと少なくなった三月二八日の中華民国維新政府の成立時」が採用されています。中華民国維新政府は傀儡政権ではありますが、名目的とはいえ中国人による行政組織が発足した時点ということになりますから、ここに区切りを見出すことには一定の妥当性があると言えるでしょう。たとえそれに同意しないとしても、1月末ではなく3月末を採用することによって顕著に犠牲者数が増えるわけでないことは上述した通りです。


次に空間的な範囲についてみてみましょう。南京市は古くからの城壁都市とその隣接部からなり、この南京市が江寧県に属し、江寧県と周辺の5県をあわせた行政区である「南京特別市」が南京事件の空間的範囲である、というのが笠原氏の定義です。これに対し、東京裁判の判決と秦説の定義はそれぞれ「南京とその周辺」「南京城内とその郊外」(207ページ)という、それ自体としては曖昧なものです。しかしこれは必ずしも笠原説と対立するものではありません。まず東京裁判の判決には「南京から二百中国里(約六十六マイル)以内のすべての部落は、だいたい同じような状態にあった」という一節があります。これは笠原説に言う「南京特別市」とおおむね重なる空間的範囲です。また秦氏が非戦闘員の犠牲者数を推定する際に、当時南京の金陵大学で社会学を教えていたルイス・スマイスによる調査を援用していることも注目に値します。というのも、このスマイスの調査はまさに上述の6県を対象として計画されたものだからです(実際には一部での調査は実行できませんでしたが)。この2点を踏まえるなら、「南京特別市」を南京事件の空間的範囲とする笠原氏の定義が氏の独断とは言えず、東京裁判の事実認定や秦説とも重なりあうものであることがわかるでしょう。なお、千人単位、万人単位の集団殺害については空間的にも南京城に近接する地域で発生しているとされていることは(上述の時期に関する考察から推定可能なように)秦説・笠原説に共通していることも申し添えておきます。


さて今度は、犠牲者数推定に大きな幅が生じる主要な要因の一つである「虐殺」の定義(特に戦闘員のケース)について、秦説と笠原説を比較してみます。まず中国軍将兵の犠牲者については秦説が約3万人(210ページ)、笠原説が8万余人(226ページ)としています。しかしこの違いの相当部分は「なにが起こったか」に関わる事実認定の部分ではなく、「なにをもって虐殺とするか」の定義の違いによって生じています。秦説は通常の戦闘以外での戦闘員の殺害を「敗残兵の殺害」「投降兵の殺害」「捕虜の処刑」「便衣兵の処刑」という4つに分類したうえで「捕われて殺害された中国兵の推計」が3万人(ただし兵士と誤認されて殺された非戦闘員を含む)としていますから、「捕虜の処刑」「便衣兵の処刑」だけを勘定に入れていることがわかります。これに対して笠原説では秦説での4類型すべてが「虐殺」として犠牲者数推定に加えられています。ここで注意する必要があるのは次の2点です。まず第一に、中国軍将兵の犠牲者数に関する笠原氏の推定はすべて日本側資料に根拠をもっていますので、「虐殺」として分類するかどうか、また記録にある人数をそのまま採用するかどうかという2点を留保するという条件でなら、おそらくは秦氏も「そのような出来事が発生した」こと自体には同意するであろう、という点です。第二に、秦氏も「投降兵の殺害」を合法とは断じてはおらず、逆に「戦闘の延長と見られる要素もあり」(190ページ)と評していますから、濃淡はともかくグレーゾーンであると認識しているらしいこと、さらに「敗残兵の殺害」についても「投降兵の殺害」とは「差が紙一重」(189ページ)であるとしている点です。言い換えれば、笠原氏が虐殺の犠牲者とした「敗残兵の殺害」「投降兵の殺害」については、秦氏も一点の曇りなく合法なものだとは(少なくとも86年の刊行時点では)考えていなかった、ということです。こうなると、問題は狭義の歴史学の内部で決着のつく事柄ではなく、倫理的・政治的な観点からの考察が必要になってきます。その点については機会を改めて考えるとして、ここで強調しておきたいのは次の点です。すなわち、「通常の戦闘以外での中国軍将兵の犠牲者になにが起こったか?」という認識にはなしを限定する限り、秦説と笠原説には人びとが思っているほどの食い違いはない、ということです。


残るは非戦闘員の犠牲者数に関する推定の問題です。これが秦説と笠原説との見かけ上の違いを生む最大の要因なのですが、これについてはエントリをいったん改めることにします。

*1:笠原説の佐々木支隊は第16師団から抽出された部隊です。

*2:そもそもなぜ東京裁判の事実認定で13日が開始時期とされているかを考えると、南京事件についての国際的な認識が当初は南京に残留していた欧米人の報告に基づいて形成されたからであろう、と推測できます。南京城内の、特にその一部である国際安全区を運営していた残留欧米人は城外で起きていたことについてはほとんど情報をもっていませんでしたから、南京城内に日本軍が侵入した13日以降の出来事をもっぱら報告していたわけです。