「殺人学」のシニシズム

  • デーヴ・グロスマン&ローレン・W・クリステンセン、『「戦争」の心理学 人間における戦闘のメカニズム』、二見書房

以前のエントリ、「『「戦争」の心理学』(その1)」で指摘しておいたように、本書は徹底して兵士や警察官に寄り添った立場から書かれている(もっとも、イザヤ・ベンダサンとは違って著者らは自分たちが何者であるかを隠したり偽ったりはしていないが)。著者らの「殺人学」は兵士や警察官が任務上において「敵」ないし「犯罪者」を殺すことが必要になった際、より確実に任務を遂行しかつそのことによって「心の傷」を負うことがないように、という目的に奉仕するものである。敵(そして敵にのみ)正確に素早く反応するための訓練法、「ストレスの予防接種」などが語られる。社会は人を殺した兵士や警察官を「肯定」しなければならないのだ、と言われる。
この点は本書が戦争や戦争犯罪について考えるうえでもつ示唆の価値を低めるものではない。また、著者らが説くような訓練(その実際の有用性についての判断は保留して、有効だと仮定して)が兵士や警察官による不法・不当・不必要な殺人を予防するのに役立つ場面があるだろうことも確かである。恐怖や憎悪といった感情をコントロールし冷静さを保った兵士たちは、不法・不当・不必要な殺人を犯す見込みがより低い、ということは合理的に推測できる(もっとも、それは軍が不法・不当・不必要な殺人を命じるのでない限り、という限定つきのはなしだが)。
それでもやはり、著者らの議論にはある種の合理主義がはらむシニシズムを感じずにはいられない。日本に住む者にとっては、警察官の武力行使に関する議論からそれを感じとることはそれほど難しくないのではないか。著者らは“暴力的”なゲームが大量殺人につながる*1と主張する一方で、アメリカ社会に氾濫する銃器についてはまったく問題にしようとはしていない。銃規制を行なえば警察官が生命の危険にさらされる場面は減り、警察官が殺人を強いられる場面も減ることが当然予測できるというのに、である。
同様に戦争目的の妥当性は議論の対象とならない。もちろん、民主的な社会が決断した戦争の結果としての殺人の責を、実際に手を下した兵士にのみ負わせるのは公正とは言えない。しかしだからといって、“なにはともあれ戦争は起こったのだから、その際の殺人については全面的に肯定すべき”であるはずがない。不当な戦争における殺人の責任を社会全体で負うことと、責任を無制限に解除してしまうこととはまったく異なる。
もう一点。本書の知見は「敵」や「犯罪者」にとっても活用可能なものであるということ。効率的に、心理的な抵抗や後遺症なしに「敵」を殺害する訓練を受けた兵士同士の戦い。同じ訓練を受けた警察官と犯罪者の銃撃戦。それがどれほどグロテスクなものであるかを、著者たちは想像してみたことがあるのだろうか。

*1:ただしそのメカニズムは「ゲーム脳」の類いではなく、一言でいえばオペラント条件付けであるとされる。