どこかで見た風景

オーストラリアのラッド政権が、どこかの知事とは違って選挙公約とおりにアボリジニへの差別的政策に対する「謝罪」を行なったというニュースについて。

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 一方、群集からは謝罪に対する野党党首の反応に怒る声もあがった。
 議会では、自由党のブレンダン・ネルソン(Brendan Nelson)党首がラッド首相による謝罪動議を支持するとしながらも、政府の過去の政策には善意に基づいたものもあると述べ、アボリジニ・コミュニティーの一部にみられた児童に対する性的虐待発生率の高さなどを根拠に挙げた。
 キャンベラの街頭ではネルソン党首が語る様子がスクリーンに映し出されると、群集は画面に背を向け「恥を知れ」などと罵声を浴びせた。
 Kirwinさんは、ハワード前首相の後継として同党党首に就任したネルソン氏の発言について「なぜ彼はただ一言、ごめんなさいと言うことができないのか」と怒りをあらわにした。
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(「ものすごい力が湧き出た」、200年を経てアボリジニに公式謝罪・豪政府)

謝罪は不可避という客観的状勢と謝罪したくないという主観的願望の間を右往左往したあげく言わずもがなのことを言ってしまって「謝罪」の効果に泥を塗り、結果としてまたさらに謝罪を求められることになるかもしれないという事態を招いてしまう人々が存在するのは、洋の東西を問わないということだ。この場合「東西」じゃなくて「南北を問わず」かな。
ネルソン党首は表立って「謝罪など必要ない」と主張することはもやはできない、と判断したわけだ。だとすれば、なぜ言葉を飲み込んで黙って儀式に立ち会うことができなかったのだろうか。心底「過去の政策には善意に基づいたものもある」と信じているのなら、なぜアボリジニの側からそういう声が出てくるのを待てないのだろうか。アボリジニは200年待ったのである。