分断を拒否すること

薬害肝炎問題については政府が「全員、一律救済」のための議員立法を行なう*1こととなった。もちろん、どのような法案が出てくるかという大きな問題は残っているけれど。さて、政府がこのような方針転換を行なう前の時点においてであるが、Arisanさんが「線引き」を拒む原告団について次のように書いておられる。

 ところで大阪での裁判の原告の人たちが、「線引き」を許せないと言い、すべての被害者の一括救済を主張し続ける姿を見ると、被害者の人たち自身が、自分以外の(多くは見知らぬであろう)他の被害者たちへの責任を背負う形となり、自分たちへの経済的な面での救済を犠牲にして(和解の拒絶や、全員救済のために受取金の減額を自ら提案するなど)まで、その責任を果たすために闘わざるを得ない姿には、どこか理不尽な、重苦しいものを感じることも事実である。
 ここで和解案を受け入れれば、この人たち自身への法的・経済的な救済は、一定程度行われるであろうはずだが、あくまで「線引きのない、全員救済」を主張して、闘いを継続しようとする。


 もちろん、そこへと追い込んでいるのは、責任を認めようとしない国や製薬会社であろう。

そして「責任を認めようとしない国」の背後にいるのはわれわれ有権者なのであって、有権者としてこの「理不尽な、重苦しいもの」に直面したくない人々の中からは「線引き」を拒む原告団への非難が出てくるだろう(とある方のブクマ経由で実際に目にした)。
もちろん、二つあるブログのうちこちらの方でこの話題をとりあげたのは、アジア女性基金や花岡事件の「和解」をめぐってもやはり「分断」を拒む人々がおり、分断を拒むことを支持する人々と批判する人々とがいたからだ。当たり前のことだが、一刻も早い解決を望んでいるのは被害者の側である。国にとっては10年長引こうが20年長引こうが(有権者からの批判が次の選挙で投票結果として現われそうになるのでない限り)どうということはない。にもかかわらず、原告団が「線引き」を拒否するのはなぜか。

実際、日本では「和解」という法律用語は、とくに国などを相手にした集団的な訴訟の場合には、線引きを実現するための方策として原告(被害者)に限定的な補償案を呑ませ、そのことによって真の問題の全面的な解決(真の和解のための条件)を行わないで済むための法的な方法、という意味を持っていると言ってよい。たとえば今回のように、被害者の一部にだけ補償を行うことを旨とする「和解案」を原告に呑ませ、呑まなければお前たち自身への救済を行わないということを取り引き・脅迫の材料にして、問題を曖昧に決着させる。同時に、被害者の集団の間に対立や距離を生じさせて、運動・異議申し立ての力を削ぐ。
それが、日本の行政が「和解」という言葉のもとに行ってきた実態である。


だからこそ、今回裁判所が提示した「和解案」に、原告たちは怒ったのだ。
自分たちの存在を、問題の解決を曖昧にして事態を沈静化させるための「道具」として扱うこと。それは、この人たちにとっては、再度の「権力による生存の軽視・道具化」と映ったはずである。もちろん一度目は、訴訟の対象となっている事柄そのことである。

和解を拒否し「線引き」を撤回させたところで自らの取り分が増えるわけではない以上、分断の拒否が賭け金としているのは(こういってしまうと陳腐化されてしまうような気もするが、やはりそう表現せざるを得ない…という表現でいえば)「尊厳」なのである。

だが同時に、あまりに苛酷な条件のなかで、自分以外の被害者たちへの責任までを背負って、退路を断つような闘いを続けているかに見えるあの原告の人たちの姿は、やはり重苦しい印象をぼくたちに抱かせる。


目の前の個人的な救済と休息を、求めたいという気持ちも、また自然なものではないか。

もちろんその通りで、原告団の中にも意見の対立はあるだろうし、原告一人一人の内面にだって葛藤はあるだろう。原告団の姿勢は「目の前の個人的な救済と休息」を求めようとする人々の意見を抑圧している、という批判も出るかもしれない(現に慰安婦問題についてはでたわけである)。だがその対立、葛藤を表に出してしまえばたちまちのうちに「和解」の論理が問題の土俵を支配してしまうのである。

*1:というのも妙なはなしで、正確には政府としては積極的に何かをしたりしない代わりに邪魔もしないから、与野党でよろしくやってください、ということだろう。