パフォーマティヴな否定論

かつて女性国際戦犯法廷を批判したこと(このエントリを中心としてその前後のエントリにおいて)をご記憶の方もおられるかもしれない法学者、大屋雄裕氏が沖縄戦「集団自決」をめぐる教科書検定問題についてエントリを書いている。

結果が気に入らないからといって「中立」となっている機関の決定に文句を付けはじめるとどういう結果になるか、という問題に関する卓抜な一例について。
(中略)
「こちらは真実であちらは虚偽だ」と言う人がいるのだろうが真実など誰にでも見えるように道ばたに転がっていたりはしないのであって、主張する当人にとってはどれも「真実」である。だからそのうちどれをまあより真実らしいと認定したり、教科書に書けるレベルだねえと判定したりするために第三者的な立場として審議会などが設けられているので、それによって直接的な政治闘争を差し控えようというのは本来少数者・弱者のためでもあったわけである。だって闘えば数が多い方が勝つわけですよ。
(後略)

まず感じるのは "reversibility" という概念を一体どういう目的でもちだすか…ってところで「ああ、根本的に感覚が違うんだな」ってこと。私なら、この概念は55年以降の相当期間にわたって単独多数派を占めていた(そして現在も衆院で圧倒的な多数を占める)自民党ないし与党=自民に馴れ切った政府を批判するためにこそ有効だと考える。例えば立川ビラ撒き逮捕事件とかね。この先生はせいぜい「民主党だけを批判するのはあまり良くない」(強調引用者)としか思っておらず(しかも「(苦笑い)」のおまけつき)、むしろ“共産・社民とあわせれば参院で多数を占めたものの、また少数派に転落するかもしれない“民主党を叱るのに有効だと思っておられるようである。立川の事件についてこの先生が書いたエントリにもおなじ論法が用いられているのを(再)発見して深く納得した次第である。
次に、具体的な事情を一切捨象した水準で考えれば「御説ごもっとも」であるけれども、そのごもっともな正論が具体的な文脈においてパフォーマティヴにどのような政治的効果を発揮するか…という問題に関する卓抜な一例になっている、という点。
捨象されている具体的な事情にはいろいろあるが、例えば民主・共産・社民は決議案の中身で完全に一致しているわけではない。このエントリが書かれている10月5日段階で入手可能だった情報で言えば、例えばこれ。

読売新聞 10月4日 “撤回”か“再検討”か沖縄戦の検定問題で野党まとまらず


 民主、共産、社民の野党3党は4日、国会内で国会対策委員長会談を開き、沖縄戦の集団自決をめぐる教科書検定問題に関する国会決議案の文案について調整したが、検定意見の撤回を求めるかどうかなどをめぐって、折り合わなかった。
(…)
 民主党は検定意見を出した教科用図書検定調査審議会に対し「速やかな再検討」を求める内容の決議案を提示した。これに対し、共産党は「検定意見の撤回」に表現を強めるよう主張し、難色を示した。
(…)

したがってエントリ中で「ところで今回の教科書検定の結果に不満だから参議院で撤回の決議案を可決しようと計画している政党の諸氏」と批判対象が名指される時、それは共産党だけを指すはずなのであるが、コメント欄でのやりとりは民主・共産・社民をひとからげに批判していたことを推定させる。安倍晋三がNHKの番組内容に圧力をかけたのではないかという疑惑に関し、この大先生は「「公正に報道してくれ」という、それ自体はきわめて正しく放送法にも明記してある原則を述べただけのよう」なら「特に安倍氏の発言が「圧力」になるかは相当に疑問」とおっしゃったのである*1。とすれば「「検定の中立・公正性に疑義が生じている」として、検定意見を出した教科用図書検定調査審議会(文部科学相の諮問機関)に対し、「速やかな再検討」を求める内容」の決議案が参院での多数を背景とした政治的な圧力になるかは「相当に疑問」と言わねばならない。しかしコメント欄でのbewaadさんとのやりとりをみる限り、共産党(だけ)を批判対象としていたわけではないのである。他にも、民主は「全会一致での成立を目指」していたこと、すなわち参院での多数を頼みに力で押し切るつもりはなかったことも無視されてますな。
これだけでもたいがいひどいはなしではある。しかしそのうえに「そのうちどれをまあより真実らしいと認定したり、教科書に書けるレベルだねえと判定したりするために第三者的な立場として審議会などが設けられている」はずの、その審議会の実態が無視されている。 なにしろ、文科省の調査官が「軍命令」削除の根拠としたとされる現代史家、なにを「真実らしいと認定したり、教科書に書けるレベルだねえと判定」するうえで参照されまた参照されるのが当然であろう研究者自身が抗議しているのである。こうした事情を捨象すればこそ「軍命令についての記述の復活」ではなく「再検討」を要求する決議案を「大東亜戦争は聖戦だったと教科書に書こう決議案」と同列に並べる…などという荒技も可能になるというものである。
類は友を呼ぶというわけで、コメント欄には次のような投稿が。

トリヘドラン さんのコメント (2007年10月 6日 00:49):


ニュースで例の11万人集まっただか言う集会の模様が流れていて、その中で
「私たちのおじいさんおばあさんが嘘をついていると言うんですか!」
と高らかに演説をぶっている人が写っていたたのですが。


じゃあ仮にその「おじいさんおばあさん」方が「強制連行は無かった」とか「南京大虐殺は嘘だ」とか主張した場合、この人はそれを信じるのかなあ、などと考えてみたりしました。
(…)

これに対する返答がふるっている。

「思い違い」の可能性などを最初から無視している点で政治的言説に他ならないんですよね。でまあ、そうだとわかって言っている分には構わないのですが学問の問題とごっちゃにするなという話とか、政治的に気持ちよくなることだけ考えて文化大革命に至ってもしょうもないので誰かがどこかでカウンターは当てておかないとなと思い、本来はマスメディアとかそういう役目じゃないのかと思うところはありますがこの国のメディアにそれを言っても無駄かなあと日露戦争以来を思い返してみたり、「帝大七博士」事件とかあったよなとさらにイヤな気分になってみたり。
(…)

日比谷焼き討ち事件(のことだろう)や「帝大七博士」事件を引き合いに出してみせる感覚には絶句するしかないが、比較対象のうち一方は被害者側の生存者の証言であり、他方は加害者(と目される)側の証言である。それを「「思い違い」の可能性など」のひとことで同じ土俵に載せてしまうのは為にする懐疑主義としか言いようがない。加害者/被害者の reversibility についてはさっぱり念頭にないらしい。これももちろん「沖縄戦について歴史学者がどのような研究を蓄積してきたか」を一切無視することによってのみ可能になることだ。
あれだけこてんぱんに負けていながら沖縄などごく一部の地域を除けば自国領土で地上戦が行なわれなかった…という事実に起因する記憶の多様性は「原爆・空襲・集団疎開」といったエピソードによって塗りつぶされてしまい、沖縄の記憶を「国民の記憶」に統合する努力はほとんどなされなかった。この不作為の成果を足がかりに「記憶の抹殺者」が新たな成果をあげようと目論んでいる。具体的事実を捨象した「正論」がこの目論見に有利にはたらいているのは決して偶然ではない。


おまけ。沖縄に関しては政府は現在進行形で、あまりの白々しさにむしろ感心してしまいたくなるほどの嘘をついている最中である。担当官庁が違うとはいえ、政府が「沖縄」にどういう態度をとっているかを考えるうえで当然参照すべきことがらであろう。


追記:トラックバック送ったつもりだったんだが…送り方がよく分からん。ま、あちらのコメント欄で通報してくれた人がいたので、これ以上調べるのはさぼります。

*1:その時安倍晋三が「中立」ということでなにを期待していたかということは、今年の夏に改めて問題になったわけだが。