日本人が「虐殺」なんてするはずない、だって?

南京事件否定論の中でももっとも愚劣で、目にするたびにヘドが出そうな思いがするのは“そんな残虐行為は日本の文化にはない、そういう殺し方は中国人に特徴的なものだ”というタイプのものである(もちろん、実際にはレイシズム丸出しのもっと下品な表現が使われている)。新聞のテレビ欄を見るとテレ朝が白虎隊のドラマをやっているようなので、戊辰戦争における事例を紹介しておこう。「教科書が教えない歴史」の一コマである。
一昨日のエントリで言及した笠原十九司、「東アジア近代史における虐殺の諸相」は『会津戊辰戦史』や『よみなおし戊辰戦争』(星亮一、ちくま新書)を援用して「官軍」の次のような行為を紹介している。

若松城下、抵抗する会津兵はもとより、武士、町人百姓、老若男女の別なく、町のなかにいた者は見境なく斬られ、打ち殺された。攻める者は血を見ると、怪鬼のように快感を覚えて、人影を見れば撃ちまくった。恐怖で立ちすくむ女児の後ろから阿修羅の刃が 襲った。
「賊軍の死骸には手を付けるな」の命令、会津藩士とその家族、従軍した農民など総数3千の遺体が埋葬を禁じられ、遺体が城下や山野に放置された。

「日本人」が同じ「日本人」に対して行なったことである。もっとも、「従軍慰安婦」という用語がアナクロニズムだから使うのはけしからん、という人びとに倣って言うなら「長州人、薩摩人たちが会津人に対して行なったこと」となるわけだが。

家財の分捕り、大標札を立て、薩長分捕り、長州分捕り、家財道具を勝ってに売りまく妾となし、分捕りたる衣食酒肴に豪奢をきわめた。
郡山周辺の農村から弾薬や食料運搬のため大量の人夫が徴発され、彼らも略奪に加わった。人夫は陣地の構築作業などにあたり、最前線で官軍を誘導する斥候の役も強制された。
田島では芸州藩と肥前藩の兵が近在の村々から現金、米、味噌、蝋燭などを調達、村役人に借用証書を渡したが、購入という名の略奪だった。
芸州と肥前の兵約百名が田島に残り、日々乱行を重ね、家々から家財道具を分捕り、人足に荷物を作らせ、今市まで運送させた。
旧会津藩士たちとその家族は下北半島や青森に強制移住させられ、開拓生活のなかで多くの餓死、病死者がでた。

星亮一の『会津戦争全史』(講談社選書メチエ)は私も本館で紹介したことがある。

会津戦争の悲惨さについては、主として白虎隊の末路によって広く知られているが、薩長軍の略奪のひどさ、人肉食、事実上戦闘力を失った敵への容赦ない砲撃、戦後に会津藩戦死者の埋葬を禁じたこと(これは長州の招魂社に起源を持つ靖国を“日本の伝統”として正当化する議論との関係で重要)、などが紹介されている。

もちろん、こうした事例は日本人が「本性として」「他民族以上に」残虐であることを意味するわけではない。同様な事例は同時代においてすら、世界のあちこちで見出せるに違いない。しかし「本性として」残虐な民族など存在しないのと同じくらい、いかなる状況においても決して残虐行為を行なわない民族なるものも存在しないのである。