「南京事件はマボロシだ」ということを証明せよ、という要求は「悪魔の証明」の要求ではない

もちろん、「○○はなかった」という命題それ自体を直接証明することはできない。しかしながら、「○○はあった」と矛盾する命題を証明することができれば、当然「○○はなかった」という命題を証明することはできるのである。
つまり、南京攻略戦が始まる前は人口100万都市であった南京城区(南京行政区全体ではもっと人口は多くなる)に当時居住していた人びとについて、彼らが日本軍によって殺害されずどこかに無事移動していたことを証明できればよいのである。100万マイナス20万(安全区の難民数)イコール80万人*1 について、1938年3月時点で生存していたという確たる証拠を誰かが示してくれるなら、私も「南京事件はマボロシだった」という主張に与することをここに宣言する。


ついでに述べておくと、日本はサンフランシスコ講和条約を締結するにあたって極東軍事裁判の判決を受けいれる旨宣言している。つまり、南京大虐殺では(最低限)20万人の犠牲者がでたことを認めている、というのが国際的なコンセンサスなのである。とすれば、単なる自己満足としてゴニョゴニョ言うならともかく、国際的に通用する主張として「南京事件はマボロシだった」と言いたいなら、拠証責任はひとえに南京事件否定論者にこそある。南京大虐殺などなかった、ということをきちんと証明できないかぎり、なにを言おうが国際的には負け犬の遠吠えでしかない。この場合の「国際」はもちろん中国一国を指すのではない。
例えば刑事事件における再審請求を考えてみよう。いったん有罪判決が確定してしまったならば、たとえ常識的には冤罪であることが明白なケースであっても、「無罪」であることを証明する責任が被告(というか受刑者)側に課されるのが現実である。それと同じこと。



(初出はこちら)

*1:厳密にいえば、上海から南京へと向かう日本軍に追われた難民が南京へと流入しているし、10万ともそれ以上とも言われる中国軍兵士も現地にいたわけなので、事態はもっと複雑である。けどまあ、そこまでハードルを高くするのもなんなので、当初からの南京市民に限って「証明」を要求しておくことにする。