先日、とある文化人の飲み会で、私の尊敬する文化人の方がこんな発言をした。

 「私はスポーツ医学というものを信じていないのですよ。昔は『走っているときに水を飲むな』とかいい加減なことを言っていた。その後も言うことがコロコロ変わる。こんなものは科学と言えません」

 この文化人の方は自分の専門領域では恐ろしいほどの知識を持つだけでなく、独自の考察で様々な独自の説を打ち立てるような人、つまり知識だけでなく思考力も抜群の人として尊敬していたので、私にはちょっとこの発言は意外だった。

医療を含め、長く理論が変わらない科学ほど信じられる? あるいは信じられない? サバイバルのための思考法とは。(c)sheeler-123RF
医療を含め、長く理論が変わらない科学ほど信じられる? あるいは信じられない? サバイバルのための思考法とは。(c)sheeler-123RF

 私は、医学を含めて科学の理論というものは、新発見があったらどんどん変わっていくものだと信じている。むしろ理論が変わらないような分野のほうが、「抵抗勢力」がいるのではないかと疑ってしまう性格だからだ。

 今回は、サバイバルのための思考法として、「変わらないもの」を信じることの危険性を考えてみたい。

変化できないことで生じた多大な犠牲

 私は留学中にトラウマ治療について相当興味を持って勉強し、その後、阪神淡路大震災の時には1年間毎週現地に通い、東日本大震災の後は、今でも月1回ボランティアで心のケアに通っている。こうした経歴から、トラウマ治療は自分の専門領域と思っている。

 この分野では、1990年代半ばまでトラウマ記憶をなるべく吐き出させて、心の浄化(カタルシスという)を行うことと、心の中に抑圧されたトラウマ記憶をなるべく思い出させて、現在の自分の記憶に統合させていくことが基本的な治療だった。

 ところが、トラウマ記憶を思い出させることによって偽りの記憶で親を訴えるという事件が頻発した上に、過去の記憶を思い出させる治療を行ったほうがかえって悪い結果になることをロフタスという心理学者が明らかにして、現在では治療法が劇的に変わった。

 日本でも、阪神淡路大震災のときと比べると、2004年の新潟県中越地震以降は東日本大震災のときも含めて心のケアの方向性が変わったとされる。それまでは心理的デブリーフィングと言って、トラウマ的な体験を受けた直後にそれを吐き出す治療を行うことが早期介入の基本だったが、今ではきちんとした情報提供やストレス反応に対する対処術を教えるのが基本となっている。

 日本の精神医学界は、教育の悪さ(私のようにカウンセリング的な精神医学を専攻する者が主任教授となっている精神科の医局は、全国で82も医学部があるのに一つもない)と保険診療の限界のため(長時間のカウンセリングを行っても5分診療でも、ほとんど医師の収入が変わらない)、先進諸外国と比べると、心のケアの遅れが目立っている。それでも、海外でまずいとされたものを素直に修正する柔軟さはある。

 スポーツ医学の場合も、勝ち負けという結果がはっきり出るので、海外で良いとされたことはすぐ取り入れ、あるいは、間違いがあれば正すということなのだろう。

 それに比べると、外科や内科はずいぶん権威主義的な印象を受ける。

 『患者よ、がんと闘うな』という著書があり、がんの放置療法で既存の医学批判を続けている近藤誠という医師がいる。現在の彼の主張を認めるかどうかは別として、近藤氏が医学界のマジョリティを敵に回したのは極めて妥当な発想からのものだ。以前の乳がん治療では、初期の状態で発見されてもオッパイを全摘し、大胸筋まで切り取ってしまうという治療が主流だった。ところが、がんだけを取り去って、その後に放射線をかける乳房温存療法でも、全摘と比べて5年間は生存率が変わらないというアメリカの論文を発見した近藤氏は、これを『文藝春秋』誌に紹介した。

 ところが、当時の外科の権威の医師たちが、オッパイを全部取らないと転移すると説明してきた面子があるのか、近藤氏は外科医たちに排斥され、最年少で大学の講師になったのに、そのままのポストで慶応大学病院を定年退職することになる。

 さらに、同じようにこの論文を読んで乳房温存療法に取り組もうとした医師たちも権威にばれることを恐れたため、この治療は普及しなかった。日本で乳房温存療法の治療ガイドラインができたのは、近藤氏が文藝春秋で記事を載せてから11年後、その治療が主流になったのは15年後の話である。外科の権威の医師たちが定年になったり、引退するまで、新しい治療が認められなかったからだ。

 その間に、無駄にオッパイを取られた人がどのくらいいるのかと思うと、義憤にかられてくる。

新しい知見を認めず研究しない日本の医学界

 私は、恐らくこの手のことは氷山の一角で、治療方針を変えるべきなのに、権威の面子のために変わらないままになっていることは珍しくないと思っている。

 2008年にニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンという臨床医学の世界で最も権威のある雑誌で、糖尿病の治療について、約5000人の厳格管理群とほぼ同数の標準管理群との長期間の比較試験が行われた。結果的に、ヘモグロビンA1cという糖尿病の指標を正常レベルまで下げようとした厳格管理群のほうが、3年目くらいから心血管死亡が多いことが分かった。

 しかしながら、日本の糖尿病学会はなかなかこれを認めようとせず、ガイドラインの変更がなされるのに5年もかかった。

 糖尿病は治療の目標値が変わっただけましなほうだが、メタボリックシンドロームの対策においては、コレステロール値が高いほうが長生きしているとか、やや肥満の人のほうが長生きしているという大規模な疫学調査があるのに、まったく目標値が変わらない。むしろ、体重を減らすことやコレステロール値を減らす指導を強化しているくらいだ。

 自分たちがこれまで患者に言ってきたことを変えるのがそんなに不快なのかとつい思ってしまう。もちろん、疫学データだけを信じるべきではないという考え方もあるだろう。私が不満なのは、なぜまともな比較調査をやらないのかということである。私や別の医師たちがいくつかの疫学データを基に旧来型の治療を批判しても、権威の医師たちは無視黙殺をするだけで、なかなか持論を変えようとしない。

 コレステロール値については、薬や生活指導で下げた群と下げないで放置した群で、その後の死亡率や心血管障害の罹患率、あるいはがんの罹患率(コレステロール値が高いほうが免疫機能が上がってがんになりにくいから、高めのほうが長生きしているという仮説がある)などの比較調査をすれば、これまでの治療方針でいいかどうかの答えはすぐに出る。もし下げなくていいのなら無駄な医療費はかなり減るし、成人向けの生活指導も大幅な変更が必要となる。もちろん、下げたほうがいいという結果が出れば、安心して現在の治療を続けられる。

 がんの放置療法にしても近藤医師を批判する人たちは、放置したために早く死んだケースを紹介するだけだ。近藤医師のほうも放置して長生きできたとか、生活の質が上がったという人を100人以上紹介しているので、これでは水掛け論になってしまう。曲がりなりにも批判する側が学者なのだから、比較調査をすれば済む話なのに、それをやろうとする話を聞いたことがない。

 こんな医学界の怠慢が続いているから、医学常識が変わらないだけかもしれない。

薬品で不足する日本人向けのエビデンス

 EBM(evidence-based medicine、根拠に基づく治療)という考え方が海外では当たり前のものとなり、日本でも徐々に普及が始まっている。

 理論的に正しいことや動物実験では有効と思われることであっても、本当に5年後、10年後にその治療が有効である、つまり死亡率や心筋梗塞などの発症率を下げるという根拠を出さないときちんとした治療として認めないという考え方だ。アメリカの場合、保険会社が医療費を支払うのが通常なので、「根拠」がない治療にはお金を出さないというのが基本的な方針となっている。

 例えば、血圧を下げるとか、コレステロール値を下げるというのは、体の中で化学反応を起こせば、目標値を達成するのはそれほど難しくない。しかし、目標値に達したところで、5年後、10年後の心筋梗塞や死亡率が下がらないのなら意味がないというのがこのEBMの考え方だ。

 欧米、特にアメリカの場合、生命保険の会社に金を払ってもらうために、製薬会社が血眼になってエビデンスを得るための研究を行ってきた。ところが日本の場合、エビデンスを求める研究に対するスポンサーがほとんどいないので、この手の大規模調査がなされない。多くの学者が得意がってエビデンスがある治療と紹介しているのは、海外のデータを基にしていることがほとんどというのが実情た。

 がんの標準治療のように、どの術式が5年後の生存率が一番高いかとか、温存療法と全摘療法のどちらがいいかというような比較調査であれば、海外のデータでも比較的あてになるかもしれない。

 しかし、薬やコレステロール値などの長期フォローのデータについては、海外のものがあてになるかは分からない。欧米のほとんどの国は死因のトップが心筋梗塞だが、日本はがんで死ぬ人が心筋梗塞の2倍いる国で、先進国の中で心筋梗塞が最も少ない国だからだ。

 数年前にディオバン事件というのがあった。海外で良いエビデンスのあるディオバンという血圧の薬が日本でも脳梗塞や心筋梗塞の発症率を下げるはずだというので、大規模調査を行った。しかし、それを示す結果が出なかったために、多くの医師たちがデータ改ざんを行ったという事件である。

 この事件は医師のモラルばかりが問題にされたが、それより重要なのは、海外のエビデンスが日本人には当てはまらないことが明らかになり、血圧の薬を長期投与していたら脳梗塞や心筋梗塞を予防できるかどうかに疑問が生じたことだろう。少なくとも海外では鳴り物入りの薬が、日本では旧来型の薬を飲んでいた人と薬を飲まない人も合わせた群と比べて、長期的に有効であるというデータが出なかったのだから。

 そういう研究をやってもらわないと、信頼して薬を飲めないのだが、同じようにやぶへびになることを恐れて医者も日本の製薬会社(ディオバンを出していたのは外資系の巨大製薬会社である)も、日本人向けのエビデンスを求める研究をしない。だから治療のガイドラインが変わりようがない。

 要するに、新しく研究して治療のガイドラインが変わっていくのが通常なのに、日本の医療が変わらないのは信用する「根拠」がないからである。私が言っていることが正しいのか、権威の人たちが言っていることが正しいのか、誰も知らないのが現状なのだ(私のほうが正しいと言いたいのではなく、権威の人たちのいうことに「根拠」がないと言いたいのだ)。

根拠があれば「変節」も悪くない

 変わらないものを信じたい気持ちは私も分からないわけではない。

 私が自費診療のアンチエイジングのクリニック(和田秀樹こころと体のクリニック)を立ち上げた際に、スーパーバイザー(指導医)としてクロード・ショーシャ先生を選んだのは、ダイアナ妃を始めとする世界中のセレブの主治医だったからではない。30年以上アンチエイジング医療を行って通い続けている人が大勢いることで、長期的に効果を出していると信頼したからだ。数字の根拠はないが、経験的な根拠があるので、コロコロ変わるアンチエイジングの理論の中で信じられると思ったからだ。

 しかし、そのショーシャ先生も新しい発見があるとどんどん取り入れる貪欲な先生であることを長年指導を受ける中で知った。医学に限らず、科学の理論というものは新たな発見によって塗り替えられるものだ。ノーベル賞の多くは、旧来の説を覆したものに与えられている。

 これまでの説が間違いかもしれないと思ったときに、改めたり、研究の対象にするのが科学者の姿勢だろう。旧来の説に対する批判や異論を一笑に付していたら科学と言えない。エビデンスを求めるというのも、これまでの治療指針が本当に正しいかを検証し、間違っていたら変えるためのものだ。ずっと変わらない治療方針というのでは、なんらかの圧力や忖度さえ疑ってしまう。

 もちろん変えなくていいものは変えなくていい。ショーシャ先生の治療にしても、前回のコラムで問題にした真の保守にしても、残すべきものは守り、変えなければいけないものを変えるのが基本スタンスだ。

 ただ、最初に問題にした文化人の話を聞いていても、医学者を見ても感じるのは、日本人には変節がいけないという思い込みが強い傾向があることだ。

 私もかつては「受験は要領」とか言って、手抜き型の(私としては省力型であって結果にはこだわったのだが)勉強を勧めていたため、ゆとり教育の反対運動をしていた時には随分変節扱いを受けた。しかし、子どもがみんな長時間勉強をしている時代と、少子化で入試が簡単になって勉強しなくなった時代とでは、言うことが変わるのは当たり前の話だ。

 定説を過度に信じないことと変節と言われるのを恐れず、時代に合わせて考えを変えられることが、恐らくAI(人工知能)の導入で大きなパラダイムシフトが起こる時代での最大のサバイバル術であると私は信じる。

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