
ロシアが国をあげて推進するイノベーションセンター、スコルコボ。これまで3回にわたって、スコルコボに参加しているスタートアップの特徴や支援策、人材の育成や交流の促し方について見てきた。つまり、スコルコボで行われていることの紹介をしてきたが、今回からは、スコルコボがインキュベーションセンターとして実践しようとしていることをより理解するための考察をしていきたい。
第1回でも触れたが、スコルコボ5周年を記念するオンライントークセッションで、スコルコボの旗振り役であるメドベージェフ首相は、シリコンバレーと比較されるのを拒否し、スコルコボの独自性を訴えていた。これはどう理解すれば良いのだろうか。それを探っていくためにも、まずはシリコンバレーのおさらいから始めよう。
シリコンバレーとはどんなところか?
シリコンバレーは、米国西海岸サンフランシスコの南のサンタクララバレーを中心とした地域の呼称である。20世紀初頭にはスタンフォード大学と海軍航空基地のほかは農地が拡がるだけだったこの土地は、1970年に入ると真空管をはじめとしたエレクトロニクス産業の集積が始まった。そして大学発の技術を中心に勃興した新興企業を育てるために投資家たちが集まり始める。
政府当局は投資を促進するためにリミテッドパートナーシップの形態を整備し、現在のベンチャーキャピタル(VC)隆盛の基礎が作られた。いまでもスタンフォード大学の北西のサンド・ヒル・ロード沿いには著名なVCが軒を連ねている。スタンフォード大学から車で西に30分ほど行けば米グーグルの本社があり、北に30分ほど行くと米フェイスブックの本社がある。
シリコンバレーの成功は、スタートアップのエコシステム(生態系)によると言われる。ここではそのエコシステムの中身を2つの観点から分析してみよう。1つは、スタートアップに必要なリソースが循環する仕組みという観点。もう1つは、その循環からつくられるスタートアップのインキュベーション環境の観点だ。それぞれの分析の後、それらが成立する条件はロシア、ついでに日本ではどうなっているのかに触れていく。それらを理解することで、スコルコボの狙いがより鮮明に分かるようになるだろう。
スタートアップに必要なリソースが循環する仕組み
シリコンバレーでは、スタンフォード大学の学生をはじめ、世界中から集まる優秀な人材がスタートアップの担い手となる。多くのスタートアップが立ち上がり、それらに自己資金で投資するエンジェルやさまざまな投資家からの資金を集めてファンドを組んだVCが投資を行う。スタートアップは、IPO(新規株式公開)するか、別の会社に買収されるという形で、エンジェルやVCに資金を還流する。エンジェルは還流した資金で、VCはその実績をもとにさらに資金を調達し、新たなスタートアップへの投資を行う。また、スタートアップを経験した人材はさらに次のスタートアップを起こしたり、エンジェルとして後進を育てたりする側にまわることになる。こうしたサイクルがまわっていくことで、ますます人材と資金が集まり、技術やスタートアップ経営のノウハウが集積されていく。
経営リソースというとよく「ヒト・モノ・カネ」と言われるが、モノ(資源)確保の重要性より技術を生み出したり効率的な経営を行ったりする知識が重要視されるシリコンバレーでは「ヒト・知識・カネ」と言い換えた方が良いだろう。リソースをそう解釈すると、上の描写の通り、その3つがうまく循環しつつ絡み合って、それぞれを高めていることが分かる。半世紀弱にわたる成功や失敗が積み重ねられてきた結果の仕組みであるため、その成功要因を取り出すことは容易ではないが、ここではこの循環がスムーズに駆動する条件として2つのことに注目してみよう。

法制度の充実による投資家の参加しやすさ
リソースのうち、カネに注目する。ここでは法制度を広く捉えて、契約慣行なども含んで考えて欲しい。まず、少なくともシリコンバレーでは、スタートアップの定義には急成長するということが含まれていることに注意しよう。そのためには必要に応じて相応の金額の資金調達をすることが必要だ。適切な形で資金調達ができないと、時機を捉えることができずに失速したり、関係者間での大きなトラブルにつながったりということになる。それを未然に防ぐ工夫が、会社法や投資契約などで、あらかじめあるいは都度協議により規定されたルールだ。
シリコンバレーの会社がデラウェア州で登記することが多いのは判例が豊富でトラブルへの対処の予測可能性が高いからで、近年では同じ理由でカリフォルニア州での登記も増えてきている。また、多様な優先株の活用やコンバーティブル・ノートと呼ばれる資金提供の仕方、ベスティングといった株式付与の取り決めなどのための契約書類が整備されている。例えば、有名なシードアクセラレーターのYコンビネーターは、シード期の投資のための契約書類をオープンソースとして公開している。これらは必ずしもVCの利益を守るためだけでもなく、スタートアップのファウンダーの権利を確保するためにもなっている。また、アクセラレーターのようなスタートアップ支援組織が開くイベントでは、弁護士による契約ルールのレクチャーが行われている。
このようにルールが整備され、それが共通認識として流通していることで、ファウンダーと投資家のコミュニケーションも円滑となり、投資がしやすくなる、つまりは、資金が確保しやすくなるというメリットが生まれているのである。
ではロシアではどうだろうか。ロシアは資本主義が導入されたのが1991年であり、ようやく四半世紀が経とうとしているところだ。社会主義瓦解後に、会社法などを整備しつつ私有化を進めたが、少数株主保護やコーポレートガバナンスの点では抜け穴も多く、着々と改善されてはきているようだが、ルール化やその執行での不安要素はまだ多いようだ。そのせいもあるかもしれないが、中規模の投資を担う投資家が少ないと言われる。
すなわち、シードは金額も少なくて済むので参入しやすい一方で、大企業はその資本力で投資は可能だが(日本円で)十数億円以上のまとまった金額になりがちだ。それに対し、ここで中規模と称した数千万円から1億円くらいのレンジの金額の投資家がまだまだ少ないようなのだ。スコルコボのグラントの仕組み(第2回参照)はこの辺りを意識していると考えられる。
実は、これは日本でも状況はそれほど変わらない。関係者の努力もあって、上述したようなさまざまなルールは適用され経験が蓄積されてきているが、浸透するには時間がかかる。また、中規模の投資家を探すのに苦労するスタートアップも多いようだ。
知識が流通・蓄積される仕組み
次に知識に注目する。知識はヒトを介して流通し、蓄積される。知識が流通することでアイデアが生まれ、蓄積することで多くのヒトによる活用が可能になる。そこではヒトが交流する仕組みが重要だ。その仕組みとしてすぐ思い浮かぶのは、シリコンバレーの至る所で行われているミートアップやピッチイベントの数々である。それらのイベントを定期的に開催する会社・組織はもちろん、それらを検索するためのアプリを提供している会社もある。投資家や採用のための出会いを目的としたものもあれば、ワークショップ的に共同作業することで学びを得ようとするものもある。こういったイベントは日本でも随分増えてきたようだし、前回にスコルコボでも行なわれているという紹介をした。
しかし、知識の流通としてより重要なのは、雇用の流動性の高さだ。例えば、スタートアップを立ち上げた後、グーグルなどの大手に買収され、しばらく勤めた後に、また別のスタートアップを立ち上げたり、ジョインしたりするパターンだ。これにより、スタートアップだけではなくて、大手のビジネスシステムの経験を得ることができることと、一緒に仕事をしたことのある人たちとのコネクションを築くことができる。
ポイントは一緒に仕事をしたことがある、というところだろう。イベントなどで会って話したというレベルではなく、一緒に仕事をすることでより強固なネットワークとなる。そのネットワークを通じて、さまざまな経験から得た知識が流通することになる。これは雇用者に求められる期待値を特定のスキル・役割として明確にすることが多いという組織特性によることもあるが、職場を変わることはポジティブなことだという共通認識に負うところも大きいだろう。
ロシアで開催されているスタートアップ関連のイベントはあるが、量的にはシリコンバレーとは比べものにならない。しかし、スコルコボでもこれから増やしていこうという取り組みはあるし、モスクワの街中でもコワーキングスペースなどを基点として増えてきているようだ。雇用の流動性は、都市部では高いらしい。ただ、日本と同様に、起業を狙う層と高待遇の職を求める層と二極化しているようで、シリコンバレーのようなスタートアップと大手企業を行き来するような動きはまだまだ少なそうだ。

次回はもう1つの観点、スタートアップのインキュベーション環境について考察し、そこからあがってきた課題をスコルコボはどう解決しようとしているのかを考えていく。
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