袋小路の農業の先行きを、企業の力で打開できないと思っているわけではない。だが今回も、企業の農業参入に安易に期待することの難しさを考える回になる。まずは、今回取り上げる企業が農業参入に際して発表したニュースリリースの一節を紹介したい。
「日本の農業には、高齢化や後継者不足、耕作放棄地の増大といった問題が山積している。これを解決するため、企業が農業に参入することが期待されている」
今回の取材は匿名が条件だったため、文言を若干いじってはいるが、大意は変えていない。というより、あまりに一般的な内容のため、どの企業が書いても同じになるといったほうがいいだろう。で、その内容だが、2つの前提がある。1つは、日本の農業はいろんな意味で危機的状況にある。田畑の荒廃は刻一刻と進んでおり、その根幹には後継者不足がある。この認識は間違ってはいない。
もう1つが、企業的でないなにものかが農業の中心にいすわってきたため、農業が危機にひんしているという考え方だ。あえて翻訳すれば、家族経営が問題ということなのだろうか。だから、「期待」に応えるため、企業である自分が農業への参入を宣言した。2009年のことだ。
挑戦5年、撤退までの経緯
結論からいえば、この企業は5年間、農産物の栽培に挑戦したが、このまま続けても利益を出すのは難しいと気づいて撤退した。「この企業」は食品関連のある有名企業を指す。仮にA社とする。
参入した場所は、ジャガイモやサツマイモの栽培が盛んな関東地方のある地域だった。地元の生産者グループと共同出資で新会社を設立し、参入の受け皿とした。既存の農家から栽培技術を吸収し、経営を軌道に乗せるためだ。
黒字化をあきらめて撤退はしたが、けして片手間の参入ではなかった。A社で現場担当になった30代のB氏は新会社の事務所の近くに移り住み、農作業や農業法人の経営に正面から挑戦した。公的融資などの支援を受けることができる認定農業者になることを目指し、実際、設立から4年ほどたったとき、自治体から認定を受けることに成功した。
栽培面積も当初の3・5ヘクタールから5年間で13ヘクタールまで拡大した。既存の農家の平均が2ヘクタール程度しかないのと比べれば、まずまずの規模と言っていいだろう。
「もう親会社には戻ることはないだろう。農業に骨をうずめよう。そのくらいの気持ちでやりました。生産がうまくいけば、親会社にいたときより、収入が増えるだろうと期待してました」。撤退から2年余りがすぎ、いまは親会社に戻って働いているB氏は当時をふり返りながら「甘い考えでした」と語った。
「甘い考え」と「教え下手」と
農業に参入してすぐ、B氏はそのことに気づかされた。「きついなあ」。農作業を始めると、真っ先にそう思った。B氏を指導するため、提携した生産者グループから2人の農家が応援に来てくれていた。「こんな炎天下でよくやるなあ」。2人のベテラン農家の働きぶりをみたときの率直な感想だった。
もちろん、作物の生産計画も2人の農家につくってもらったが、「何が起きているのかわからなかった」。2人の農家と会話していても、その内容がわからない。「どこまでがんばれば休憩できるのかもわからない」。B氏に当時のことを聞くと、「わからなかった」という言葉が度々口をついて出た。
2人の農家との関係がぎくしゃくしていたわけではない。農業の専門用語を知らなかったという事情はある。だがそれ以上に、2人の農家が人を指導することに慣れていなかった面が大きい。農家自身もそのことを自覚していて、「自分たちは教えるのが下手なので、目で盗んでほしい」と話していたという。
これは、家族経営のなかで親から子へと技術をつないできた農業の構造的な問題とも言えるが、ここでは踏み込まない。そんな状況でもB氏は懸命に農作業に向き合い、1年ほどたったころには体のきつさもなくなっていた。
そうやって迎えた2年目、B氏は新たな課題に直面する。自分では1年目に教えられた通りにやっているつもりだった。作業日誌もつけていた。「あれ、うまくいかない」「どうして作物が傷んでしまうんだろう」。2年目は雨不足の猛暑になり、冬には大雪が降った。農業は天候次第と言えばそれまでだが、たった1年の経験で乗り切れるほど甘くはないのだ。
2年目から3年目にかけて農場が増えるにつれて、売り先の確保が課題になってきた。食品会社がつくった農業法人が、売り先に困るのは不思議にみえるかもしれないが、A社には当然のこと、既存の仕入れ先がある。長年つき合いのある生産者を脇にやり、子会社のつくったものを優先的に買うことはできない。
しかもA社の先にはその製品を買う消費者がいるわけで、品質を無視して子会社の野菜を仕入れることもできない。その点をB氏に聞くと、「ばりばり赤伝を切られました」。返品伝票が回ってきたという意味だ。「栽培はほとんど全部が失敗でした」という。
なんとか収益をプラスに転じるため、B氏は週のうち1、2日は営業や経営管理に当てることにした。「自分がワーカーのままでは会社が発展しない」と痛感したためだ。野菜の一部を提携していた生産者グループを通して販売するだけでなく、市場にも持っていってみた。だが品質を重視するのは市場流通も同じ。むしろスーパーなどに作物が回る市場のほうが、野菜のサイズなどの規格に対して厳しかった。
ベテランにはかなわない
そして5年がすぎようとしたころ、親会社から撤退の話が来た。「これ以上続けても、厳しいのではないか」。親会社からそう言われたとき、もし利益を出すめどが立っていれば、B氏は反論できただろう。親会社はこのとき、けして突き放すような態度ではなく、何度かにわたってB氏から話を聞いた。だが、B氏も気づいていた。「農業は甘くはない」。
では、B氏は当時をどう総括しているのか。まず、栽培技術に関し、たった数年でベテランの農家にはかなわないことを知った。B氏がつくっていたメーンの作物の1つ、ジャガイモは10アール当たりの収量が2トンを切っていた。これに対し、周囲の農家は3~4トンは当たり前で、なかには「おれは5トンとった」と話す農家もいた。
畑が細分化していることもネックになった。確かに総面積は13ヘクタールまで広がったが、実際は約50カ所にある細かい畑の集積だった。提携した生産者グループは畑を探すのに協力してくれたが、農業を始めたばかりの相手にいい条件の畑をすんなり貸してくれる農家はそういない。畑の確保も栽培技術の向上も、新規参入者が直面する最初の課題で、企業だからそれを免れることができるわけではないのだ。
しかも、たとえこの2つの課題を数年かけてクリアしたとしても、十分な収益をあげるのは生易しいことではない。「トップレベルの生産者がうちの経営陣並みの収入があってもおかしくはない。でも、企業が従業員の給与水準を維持したまま、農業に30~40人送り込んだら、まず成り立たない」。これも偽りのない感想だろう。
ただし、農業に挑戦したことに何の意味もなかったわけではない。B氏が奮闘していた畑には、新入社員が何人か訪れ、作業を手伝った。彼らは「うちの会社はこんな楽しい会社なんだ」と喜んだという。採算ベースに乗せることには失敗したが、食品を扱う会社として、社員が農業のすばらしさを知ったことはささやかだが大切な経験だろう。
自ら運営して無駄を知り、減らす
最後になるが、そもそもなぜA社は農業に参入したのか。A社はそれなりのボリュームの食品を扱っている企業であり、農業子会社を生産拠点の柱に育てようと考えていたわけではない。自社の畑でつくった作物で品ぞろえを満たすのは事実上、不可能だ。
そうではなく、A社の狙いは、農業のコスト構造を知ることにあった。もっと具体的に言えば、自ら農場を運営して作業の実情を知ることで、無駄な仕事や経費を減らすことを仕入れ先の生産者に提案できるという思惑があった。生産者は当然、売り先のA社に「もっと高く買ってほしい」と訴える。これに対し、A社は消費者にもっと安く提供できるための工夫が必要だと考えていた。
5年間の農業参入を通し、A社はそれが外から思うほど簡単ではないことを知った。そして取材に際し、B氏の語り口からは、農家へのリスペクトが十分に伝わってきた。既存の農業には効率化の余地は当然あるが、企業がやったから一朝一夕に解決できる問題でもない。
教訓は重い。それを踏まえたうえで、農産物をつくる側と売る側が利益を分かち合い、持続可能なビジネスを構築するためのきっかけになるのなら、農業参入は無駄ではなかったと言えるだろう。
『コメをやめる勇気』
兼業農家の急減、止まらない高齢化――。再生のために減反廃止、農協改革などの農政転換が図られているが、コメを前提としていては問題解決は不可能だ。新たな農業の生きる道を、日経ビジネスオンライン『ニッポン農業生き残りのヒント』著者が正面から問う。
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