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にわかに注目を集めた「ベッキー不倫疑惑騒動」、遙さんはどう見ましたか。(30代女性)

遙から
タレントのベッキーさんの不倫疑惑騒動で、その日、某テレビ局は喧騒の中にあった。偶然、その日は私の出演する番組の収録日でもあった。
「すごいメディアで今日は大変でした」と番組プロデューサー。
「ベッキーさん、不倫疑惑発覚直後がこの局だったのですか?」
「そうです」
「そりゃ、よかったですねぇ」
これが我々芸能界での会話になる。
「不倫発覚」「そりゃよかったですねぇ」。
つまり、視聴率の数字がとれる。その幸運を祝う会話になる。
煌びやかな話題であれ、ダーティな騒動であれ、旬のタレントがナイスタイミングで同局に登場というのは局的には歓迎すべき出来事なのだ。
不謹慎な…と眉をひそめる方も多いと思われるが、芸能界的にはそういうことになる。そんな芸能界的不倫疑惑騒動を今回は少々分析してみたい。
「たかが不倫」
私がまず最初に思ったのは「たかが不倫」だ。
またも不謹慎な…と思われただろうが、ひとたびタレントの「不倫話」が出てくると、その真偽を問わず、メディアがこぞって取り上げるのは、芸能界的にはお決まりのパターン。当事者には同情しつつも、たかが不倫くらいでこれほど問題視される時代ってなんだ。明治か大正か。なんと平和な国だろう、という感じの、ぼんやりした感想だった。
だが、この考えはこの騒動を知れば知るほど変化していく。
発覚したとされる証拠写真とやらを見た。ホテルで。ベッドで。窓のカーテンを開けたまま。ベッドの上で二人が並んで…。
…正直あきれた。
ここまで脇が甘いタレントっているのか。
不倫自体、いけないことなのだろう。が、それよりもっといけないのは、この二人の脇の甘さにあると感じた。
この職業を選んだ人間なら悪魔に魂を売ったくらいの自覚がなくてはいけない。常に他人の眼を意識した生活を余儀なくされ、そんな生き方になんらかの妥協点を見いだせない者は、耐えきれず、あるいは病んで、この業界を辞めていく。
マイケルジャクソンが自宅に遊園地を作り、友達をサルにしたことを思い出してほしい。
つまりはそういう職業なのだ。
タレントで知名度を得る=成功、とは言い切れない悪魔との取引がある。それは、生涯、自由を失う、ということだ。だが、これを麻薬のように快感とするタイプもいれば、つくづくほとほと嫌になって自宅に遊園地を作るタイプもいる、ということだ。
なにをフツーにのびのびと不倫やっとるか、と、写真を見て彼らの若さ幼さを思った。
本人は否定しているので、ここでは個人としての不倫の是非論を問うつもりはない。今回を機に"タレントが不倫をする時"の是非論を書きたい。
結論から言うと「死ぬ気で隠せ」だ。
無邪気が邪気に
新たな時代の恐怖を感じたのが「LINEの暴露」だ。二人のLINE上のやりとりとされるものがメディアで公開された。
「不倫は文化」と言ったとか言わないとかで石田純一氏が物議をかもしたのは、あれは、その中身が露呈していないから成立したトンデモ発言で、どこか許せる感があり、キャラクター内に押しとどめられて今日の好感度の維持がある。
あくまで、中身が露呈していないからだ。
だが、今回のベッキー不倫疑惑騒動では、写真もありLINEの会話もある。離婚を匂わす代替用語に「卒論」という言葉を使い、「せーの」という言葉の続きには「おやすみ」にニッコリマークをつけている。
この「卒論」という言葉が世間の妻たちの怒りを買った。妻を侮辱している舐めていると。当然だ。卒論どころか私が妻なら「せーの」「おやすみ」で死刑レベルだ。
この会話からは、妻がいる男性のアプローチをたやすく"許す"女性のある種の価値観があり、自尊心の低さがあると私は見ている。いわゆる愛人は、相手の男の妻と対立関係にあり、オンナというカテゴリーでは同類であり、法律上は訴えられかねない危うい立場にある。その関係の中で、男性が妻をムゲにする言動を愛人側が許してしまうのは、よほど男性にのぼせ上がっているか、よほど想像力が欠けるか。そもそも「妻がいるくせに私にすり寄るな」的自尊心の高さがあれば、オトコの欲どおしさを撥ねつけもしただろう。
昔から不倫男が常套句で使ってきた「別れるから待って」という言葉は今、「卒論」に置き換えられて、かえってその邪悪さがLINE上で浮き上がる。
周りへの配慮が必要ないLINE上の「無邪気な幸せ会話」は、暴露された途端、邪気そのものに変貌する。
損だ。タレントとしてとても損だ。
LINEはタダで、メールは一通3円ほどかかるという。3円を惜しんだわけでもなかろうが、3円かけて秘密が守れるなら(これも確かではないが少なくとも今回のような暴露の不様さよりマシか)、そこケチるなとも言いたい。
これだけ不倫の中身が露呈する、ということが、今の時代の危険さだ。
モロ出しの時代
ここまで「モロ出し」にされると、その流れの中でどれほど敏速に謝罪会見をしようが、モロ出しを見せつけられた側の気分の悪さは払しょくしきれるものではない。その結果が、CMの降板という結果に繋がると私は見ている。
「不倫」→「降板」ではない。
「不倫」→「モロの醜悪」→「収拾できなさの判断」→「降板」だ。
もし、石田純一氏の時代なら、ここまで好感度が下がったとは思いにくい。実際、下がっていないし。
つまり、今は「モロ出しの時代」だと認識しておいたほうがいい。
謝罪会見にもそこの認識の甘さが露呈する。「誤解」とか「友達」とかいう言葉で謝罪として会見している。
ここに私は事務所の判断がどうしても見える。
モロ出しの時代を認知していれば、中途半端な会見になっただろうか。とっとと謝り、なんでもいいから謝り、ボロが出ないように記者の質問は禁止してとにかく謝って、CM降板の被害を最小限に食い止めたい、という事務所サイドの焦る思いが見えた。
事実認識の甘さがこういう会見を生む。
すでにモロに出ている写真、そして、他愛なく見えてそのぶん邪悪な印象のLINE会話。それらを前に「誤解」「友達」という言葉のなんと脆弱なことか。
「モロの時代」を前提に危機管理するなら、まずモロにならぬよう最大限に隠す、ということ。これを彼らはしていない。次に、モロに出ているのだから、もうモロに謝るしかないという認識がない。
彼女がした謝罪会見はおそらく想像だが事務所の決死の判断だ。もし、モロ謝り会見だったらどうだったか。
すべてを認め、まず妻に謝り、二度としませんと世間に誓う。これ以外の着地を私は想像できないのだが。この会見なら好感度をそう落とさず復帰できる。なぜなら、たかが不倫、だからだ。人を殺したわけでもない。
記者会見にまで追いつめられた時ほど、「自分の言葉で語る」ことの大事さを実感することができた会見だった。
感謝はどこへ
タレントとして思うことがあるとすれば、手厳しい表現をお許しいただきたいが、なんと感謝を忘れたタレントか、ということくらいか。見るとCMは10社くらいに及んでいた。10社もの企業が自分を買ってくれている。このことへの感謝があれば、好感度が下がる言動には慎重にもなろう。男性側も下積み時代を支えてきた妻だというではないか。その女性への感謝があるなら不用意にカーテン開けてベッドでツーショット撮るか…。
タレントだって駐車禁止もすれば速度違反もすれば不倫もしよう。そういう意味でのたかが不倫だ。そこを擁護するつもりはないが叩くに値するとも思わない。
モロ出しになってしまう時代に嗅覚を鈍らせ、安易にLINEでおやすみを言い合い、「友達だ」で謝罪するユルさとズレ。こっちのほうがよほど危機だ。
悪いとされることをするな、とは言わない。同じ人間だ。不倫を叩く人間にも、おそらくそれなりの割合で不倫経験がある人もいるだろうが、それも問わない。悪いとされることをするなら、はっきり、それを自覚して、応援してくれた人たちを傷つけないよう必死に隠せ、ということが言いたい。
私自身、正しく生きろなんて人様に言える生き方をしているわけでもない。ただ、売れないタレントの悲哀を知る自分としては、10社とCM契約しながらよくそれだけ脇を甘く過ごせたなという奢りが見える。これも、若くして売れたタレントならではの勘違い、錯覚とも言えよう。モロ出しの時代において、圧倒的好感度の高さで食ってきたタレントがどう復活できるかは、今後の言動にその手がかりがあろう。
自分は誰か
モロ出たなら、モロ謝れ、の時代で、モロ出た以上、総叩きに遭う感情的な時代だと知ろう。そして"事務所は"は関係なく、"自分が"どうであるかを"自分の"言葉で語るチャンスのある時代ともいえる。
一番傷つけたのは誰か、が、わからなくて謝罪会見もへったくれもない。今回、最も傷ついたのは妻であり、最も損害を被ったのはスポンサーだ。
今回の騒動から見えてきたもの。それは、自分が誰であり、その自分がどれくらい世間で悪いとされることをしていて、それで最大傷つくのは誰で、最悪の事態に自分はどうすべきか、の、シュミレーションのなさだと私は考えている。彼らが罪を犯したというなら、最初の"自分が誰であり"を忘れたことにあろう。

『私はこうしてストーカーに殺されずにすんだ』
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