
感情は、人間の能力発揮にどんな影響を与えるか。明るく、楽天的な気分の時と、怒りや恐怖におおわれている時とでは、どのような違いがあるのか。
こういった内容について、これまでの仮説を実験で検証した心理学の論文を読む機会があった。ミシガン大学のフレドリクソン氏とブラニガン氏が、2005年に発表した論文だ。(Positive emotions broaden the scope of attention and thought-action repertoires by Barbara L. Fredrickson and Christine Branigan, 2005, Psychology Press)
元々、経験的な証拠や仮説として、次のようなことが言われてきたのを、ご存じの方もいらっしゃるだろう。
「人間はネガティブな感情に襲われた場合、限られたことだけを認知し、それに集中する傾向がある。たとえば、ジャングルで猛獣に出くわし、強い恐怖感に襲われたとしよう。この場合、認知機能は、ひとつのこと、たとえば逃走する、ということだけに集中する。また、ホルモン分泌や交感神経も逃走に適した形にすぐに働きを変え、筋肉の動きをはじめとした身体機能も変化する」
「一方、ポジティブな感情を持っているときは、認知機能が拡がり、面白いアイデアを思いついたり、普段気付かないようなヒントを見つけたり、あるいは柔軟でクリエイティブな発想がわいてくる」
コンサルティングの現場でさまざまな企業を見てきたが、クリエイティブなアイデアが出やすい環境は、楽観的なリーダーがいて、明るいことが多いと感じてきた。また、先が見えない不安に陥りがちな環境下では、組織のメンバーは委縮して、本来のパフォーマンスを発揮できないことが多い。
これを打ち破るには、リーダー自身が楽観的になり、明るく前向きな組織風土を作ることが重要だ。
本多勝一さんや西脇順三郎さんは、南極探検のアムンセンとスコットを比較して、アムンセンが成功した理由のひとつとして、彼が楽観的なリーダーであったことを挙げておられる。(本コラム「南極で生死を分けたリーダーシップ」参照)
人為的に引き起こした感情でテストを実施
フレドリクソン氏は、こういった我々の経験則的な見方に、極めて近い学説の主唱者の一人で、(他の学者の研究結果も踏まえながら)楽観、喜びといったポジティブな感情のもたらす効果を、次のようなものとして挙げている。
- 脳が認知できる範囲が広がる:たとえば、「乗り物の例を考えよ」と問われた際に、エレベータやラクダといった(ネガティブな感情を持っているときには思いつきにくい)広いアイデアが出てくる。
- 注意が向く範囲が広がる:「木を見て、森を見ず」の逆で、全体観とディテールの両方に目配りができる。
- 結果的に、さまざまな資産を使いこなし、有利な結果をもたらすことができる:狭いものの見方にとらわれず、身体的資産、社会資産、知的資産、心理的資産などをフルに使える。
ちなみに、この論文の中では、ほぼ同じ生活習慣を長年共にしてきた修道院で暮らす修道女を調査したところ、ポジティブな感情の持ち主の方が、そうでない修道女たちよりも明確に長命だった、という例が挙げられている。
今回とりあげた論文では、フレドリクソン氏自身のこれまでの主張を裏付けるために行った実験とその結果の示唆するところを述べているのだが、なかなか面白い。
実験の科学的正確性を担保するための部分を除いて、中核部分だけを示してみよう。
バックグラウンド等のバイアスがかからないようチェックした上で、104人の大学生が被験者として選ばれ、2種類のテストを受けることとなった。まず、彼らは、一人ずつビデオモニターの前に座り、ポジティブ、ニュートラル、ネガティブ、それぞれの感情を引き起こすようなビデオクリップの中から、1本をランダムに見せられる。人為的に、ある種の感情状態に置かれるわけだ。
これに引き続き第1のテストとして、注意が向く範囲が広いか狭いかを測定するための図形比較の問題が与えられる。具体的には、ある図形群を見せられ、瞬間的に、一番上の図形と近いと思うものを下の段から選択することを求められるのだ。
例えば、一部を抜粋したものが下の図だ。上の図形に似ていると思うものを、下の段にある二つの図形から選んでもらう。

単純化して言うと、全体観を持って、広く見ている場合は、上段と下段の図形の大枠での類似を重視して、下段の左側を選ぶ。狭い範囲でディテールを中心に見ている場合は、図形の中の構成要素の類似性にこだわり、右側を選ぶのだという。
ポジティブ感情は柔軟な発想を引き出す
次に、第2のテストが行われる。最初に見たのとは別のビデオクリップを見せられた後、被験者は自分が最も強く感じている感情を1~2個、紙に書き落とす。
その後、可能な限りその感情に自分自身を同一化するように求められた上で、今どんなことをしたいか、について、“I would like to (私は~をしたい)”で始まる文章を一定時間内に書くように指示される。フォーマットは最大20個の文章を書くことが可能となっており、豊かな発想がわく状態、柔軟で創造的に考えることができる状態、だと、より多くの文章を書ける、ということになる。
これら、第1・第2の両テストの結果明らかになったのは、両方を通じて、ポジティブな感情(特に「楽しい」「充足感がある」という感情)を持つ状態だと、注意力の範囲が広がり、かつ柔軟で創造的な発想が可能となる、ということだった。(ちなみに、この実験だけでは、ネガティブな感情を持つことと、注意力の範囲の狭まり、あるいは、クリエイティブな力を出しにくくする、ということとの相関は、科学的に有為な形では証明できなかったとのこと)
これまで言われてきたこと、あるいは実務の中で信じられてきたことが、少なくとも一部は証明されたというのは興味深い。また、心理学者というのは、地道にさまざまなことを実験しながら、人間の認知機能や能力発揮のあり方を、少しずつ明らかにしているのだな、という感想も持った。
この実験では出てこないけれど、上述したように、企業をはじめとする組織では、その構成員の感情のあり方だけでなく、リーダーの感情のあり方が大きな意味を持つように思える。
「悲観は気分によるものであり、楽観は意思によるものだ」。哲学者アランがこのように述べたとされているが、松下幸之助氏をはじめ、複数の経営者が楽観の重要性を述べているのも、何らかの経験に裏打ちされた思想なのだろうと思う。
不勉強でまだ手がついていないのだが、次は、心理学者の方々がどこかで取り組んでこられたに違いない「チームパフォーマンスへのリーダーの感情・心理状態の影響」についての実験結果を拝見し、経営学の分野に生かしていく方策を考えてみたいと夢想している。
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