7月6日の朝、麻原彰晃こと松本智津夫以下7名の「オウム真理教」関連の死刑囚が処刑された。

 私は、W杯観戦シフトで昼夜逆転した生活を送っていたため、このニュースに気づいたのは昼過ぎだった。

 で、すぐにテレビをつけたのだが、5分ほど画面を眺めたところで受像機のスイッチを切った。
 理由は、いまさらのように驚いてみせている画面の中の人たちに同調できなかったからだ。

 こういう書き方は誤解を招く。言い直そう。
 私は、当日のテレビ番組に出演していた人たちが、ほんとうは驚いてもいないのに、善人ぶって大げさに驚いたふりをしていたとか、そういうことを言おうとしているのではない。

 ありていにいえば、テレビの番組が提供しているオウム事件の概要説明に納得できなかったということだ。
 だから、これ以上自分を不快な気持ちにさせないために視聴を断念した。それだけの話だ。

 私は、誰かを責めているのではない。
 むしろ自分を責めている。

 私は、自分がもはやこの種のニュースには動揺しないだろうと思っていたその予断が裏切られたことにわがことながら驚き、そしてなんだかわけもわからず腹を立てていた。

 そんなふうに自分の心の動揺に対して素直になれないことも含めて、オウム事件は、私の世代の人間にとって特別な出来事だったのだろう。 

 当日のスタジオ出演者は、テレビカメラを向けられている人間としては、相応に自然な振る舞い方をしていたと思う。
 別の言い方をすれば、テレビに出ている人間はああいう感じで応答するほかに選択肢を持っていないということだ。その事情は私にもよくわかる。

 というのも、出演者の受け答えの真実味をどうこう言う以前に、そもそも視聴者である私たちの側が、テレビの中の人間に、ビビッドな表情とわかりやすい言葉を求めているのが実情だからだ。

 出演者のオーバーアクションは、スタジオに常駐している演出担当のスタッフが出演者に強要しているものであるよりは、テレビのこちら側にいる視聴者の集合無意識が、テレビ発祥以来の伝統に基づく合意事項として申し渡している「型」なのであって、少なくともライブ進行で放映されている番組では、普通の人間が自室でくつろいでいる時のような無表情は、許されていないと考えなければならない。 

 たぶん、私があのブーメラン型のテーブルに座らされていたのだとしても、アタマの中に浮かんだ通りのコメントをそのまま口にするような無思慮な対応はしなかったと思う。

 すなわち、半笑いで
「さあね」
 とは答えなかっただろうということだ。

 ここのところは、ちょっと説明を要する。
 私は、最近、ほとんどすべての出来事に関して、最も誠実なコメントは
 「さあね」
 なんではなかろうかと思いはじめている。

 なぜなら、テレビのスタジオのせわしない時間の中で10秒で説明しきれるお話なんて、ほとんどあり得ないはずで、だとしたら、真面目な人間は
 「さあね」
 なり
 「わかりません」
 と答えるほかにどうしようもないはずだと思うからだ。

 もちろん、時間の制約を取っ払って言葉を尽くすことが許される状況なら、ある程度の説明は可能だろう。真剣にアタマを絞って考えれば、誰であれ、相当に広範囲の出来事について、かなり深いところまで掘り下げたコメントを供給する能力を持っているものだからだ。

 でも、テレビカメラを向けられた状態で、10秒以内のコメントを求められるスタジオ内の仕事に限って申し上げるなら、話は別だ。

 こういう時に、適切なワンフレーズのコメントを供給するためには、クリシェ(紋切り型・常套表現)の力を借りなければならない。つまり「自分がどう考えているのか」よりは、「こういう場合はどんなふうに答えておくのが相場であるのか」に沿って一口サイズの鵜呑み用コメントを並べにかかるのが、コメント供給業者の現場感覚だということだ。

 この世界で起こる問題の多くは、一言で要約できる形式に沿う形で勃発しているわけではない。むしろ、それらの問題は、わかりやすい感想になじまない謎を含んでいるからこそ大きなニュースになっている。とすれば、その種の厄介な事件に、とりあえずの添え物として付加されているワンフレーズのコメントは、雑な仕事である以上に、ほとんどウソなのである。

 そんなわけなので、私は、テレビを見ていて
 「ウソ言ってんじゃねえよ」
 と思った次第だ。

 この感想にも注釈が要る。
 私は必ずしもテレビがウソを言っていたということを指摘しているのではない。
 個人的な体験に連なる出来事を、メディアなり報道機関が抽象化したうえで記事化した場合、その要約は、当事者の目から見て、常にインチキくさく見えるといったあたりの事情についてご説明申し上げているに過ぎない。

 この感じは、たとえば、「3丁目の夕日」のような映画を見たときの感触に近い。
 リアルな昭和30年代を自分の実体験としてくぐりぬけている世代の人間は、あの映画のディテールに、いちいち違和感をおぼえる。

 「おい、食卓の上にハエ取りリボンがないけど、ここはどこの並行世界の東京なんだ?」
 「っていうか、台所がハエだらけじゃないのってのがそもそも殺虫剤地獄じみてるわけなんだが」
 「路地で三角ベースをしてる子供の中にアオっぱなを垂らしたガキが一人も混じっていない点もオレには理解できない」
 「それ以上におっさんたちの服装が清潔過ぎる」

 もちろん、だからといってあの映画がまるっきりの駄作だというのではない。
 私たちは、長屋のおかみさんがお歯黒をしていない時代劇をふつうに楽しんでいるし、勤王の志士たちが平成の人間にも聞き取り可能な標準語で対話する歴史ドラマを何の抵抗もなく受け容れている。それもこれも、われわれが「本当の時代」をリアルで体験していないからだ。

 あるいは、元禄生まれの老人が生きていて21世紀のテレビの時代劇を見たら、そのウソくささに辟易するだろうが、幸か不幸かわれわれの寿命は、300歳に到達していない。

 ともあれ、本来、100年からの時を隔てないと表面化しないと思われていた歴史の描写と実感の乖離が、たったの25年で生じるようになっている。

 その結果、45歳以上の人間は、自分にとっては生身の「実体験」であったオウム関連の一連の出来事が、各種ニュースメディアによって「歴史」として記述されている場面に出くわすと、どうしても「ウソ」の匂いを嗅ぎ取らずにおれない。オウム事件に限らず、実際に自分が体験として知っていた出来事について、ウィキペディアから引っ張ってきたみたいな解説を並べられると、それを見せられた人間は、眉にツバをつけたくなる。これは極めて自然な感情だ。

 オウム関連の出来事を扱った現在の報道は、45歳以上の人間にとっては、ハリウッド制作の忍者ムービーみたいにいいかげんなものに見える。このことは、何度強調しても足りない。

 具体的にどこに奇妙さを感じるのかというと、たとえば、オウム真理教が史上稀に見る凶悪犯罪集団であり、常人には理解不能なドグマを奉じる狂信者の集団だったという感じの決めつけ方が、すでにしておかしい。

 オウムは、やってのけたことから逆算すれば、なるほど異常な狂信者集団だったには違いない。
 しかしながら、彼らがわれわれの視野に入った最初の時点から、危険極まりないカルトとして扱われていたのかというと、そんなことはない。

 たとえば、ほかのいくつかの異端視されていたり危険視されていたり気味悪がられていたりしたカルト教団に比べれば、オウムはずっと「市民」に近い人々として登場し、紹介され、受け容れられていた。

 テレビ画面の中での立ち位置も、独特だった。
 イロモノではあっても、ゲテモノではなかった。
 また、ヘンな人たちではあっても、少なくとも犯罪者扱いではなかった。

 彼らがテレビ各局のスタッフに比較的あたたかく迎えられていたのは、オウムの幹部が高い学歴の持ち主であったこととおそらく無縁ではない。しかも、彼らの弁舌は、われわれがイメージする凝り固まったカルト信者とは一線を画するものだった。表面的には筋道だって見える論理とそれなりの柔軟さと、時にはユーモアさえ感じさせる十分に知的な話しぶりだったと言って良い。ということは、彼らは、はじめからテレビ向きだったのだ。

 そんなこんなで、オウムの人々が最も頻繁に画面に登場した1980年代の後半から90年代の初頭にかけて、テレビ視聴者たるわれわれの多くは、オウムの人々に定まった評価を下していなかった。

 言ってみれば、「泳がせている」状態だった。

 私個人も、無差別殺人をも辞さない凶悪至極な犯罪集団である彼らの正体について、最終段階に至るまで、ほとんど何も具体的な事実を知らなかった。であるからして、彼らには、うさんくささを感じていながらも、ファンキーで素っ頓狂でちょっと愛嬌のあるカルトとして面白がっていた。

 実際、テレビではそこそこ人気者だった。
 いくつかの犯罪について深刻な嫌疑をかけられていながら、他方ではテレビの深夜番組にレギュラー出演したり、秋葉原に自分たちの安売りパソコンショップを持っていた。

 これは、現在の常識で考えると、かなりとんでもないことだ。
 が、実際にそうだったのだから仕方がない。

 私自身も、オウムが犯罪者集団としての正体を明らかにしつつあった時期に、彼らが秋葉原の一角で営業していた「マハーポーシャ」というパソコン安売り店に取材に行ったことがある。

 もちろん警戒もしていたが、面白がってもいた。
 その二つが両立していた時期があったのだ。

 オウムの人々はまた、日本各地にラーメン屋や弁当屋を展開して一時期はそれなりに成功していた。そういうふうに、彼らは、硬軟虚実ないまぜの、いいかげんで不可思議な人々だった。

 この部分の言い方には、厳密を期さなければならない。
 彼らが不思議な面白い人たちだったのではない。彼らがそんなふうに見えていたのは、わたくしども世間一般の野次馬の側の視線の置き方が、一貫していいかげんで不徹底で興味本位だったことの反映に過ぎない。

 要するにわれわれは、最後の最後の、本当の正体が割れる寸前の段階まで、バカな野次馬だったのである。

 テレビは、かなりの段階に至るまで、一方的な断定を避ける形で、彼らをやんわりと揶揄しつつ、容認していた。おそらく、テレビが彼らに甘かった理由は、視聴者たるわれわれが、彼らのおおむね奇矯でありながら、ときに驚くほど鋭くみえる言葉を投げかけてくる存在感に、魅力を感じていたからで、つまるところ、彼らには「需要」があったのだ。

 オウムの事件があれほどまでに深くわれわれの心を揺さぶったのは、オウムが異常だったからではない。
 むしろ彼らが身近だったからだ。

 自分自身と地続きの、ちょっと変わった若者たちに過ぎない彼らが、フタを開けてみたら、あれほどまでに驚天動地の犯罪を犯していたということのもたらした恐怖が、あの事件の根本的な驚きだった。

 その意味では、連合赤軍による凄惨な山岳ベース事件や、革マルvs中核によるテロ殺人事件よりも衝撃は大きかった。

 なぜというに、山にこもって軍事訓練をしていた左翼集団に比べて、オウムの人々は、ずっと「普通」に見えていたからだ。

 本当に彼らが普通だったのかどうかについて言っているのではない。メディアが、カルト教団たるオウムの各種組織からの信者の奪還運動を報じている一方で、他方では、彼らを「普通の」「面白い」若者として扱っていたことを忘れてはいけないということを、私はお伝えしているつもりでいる。

 実際、彼らは深夜のお笑い番組の中にレギュラーのコーナーを持っていたりもした。

 麻原彰晃こと松本智津夫に限っていえば、当時の様々な立場の知識人と対等の立場で対談をしては、その結果を教団のビラや雑誌の記事の形で広めていた。

 以上に述べたことは、当時の空気の中で暮らしていた人間にとってはごく当たり前の常識に属する記憶に含まれる。

 ところが、21世紀のオウム報道の中では、そうした部分(オウムの若者たちが、当時の一般の若者たちと地続きであったということ)が、まるっきり省略されてしまっている。
 その風化の早さには慄然とせざるを得ない。

 私は、松本智津夫とほぼ同世代(松本は私から見て1歳年長にあたる)で、オウムの信者は、私よりも5歳から15歳ほど年下の人間が大半だった。

 ということは、一人か二人知人や友人を介すると、オウムに属する誰かにたどりついた可能性は高い。

 「あの地下鉄サリンで逮捕されたN川って、オレの従弟の高校の同級生だぞ」
 「第◯サティアンで逮捕されたNの親がオレの小学校の担任だったわけだよ」

 といったような逸話でわれわれは、信者や、犯人や、死刑囚や、被害者と幾重にもつながっている。
 それほど、あの事件は1990年代の東京の若いサラリーマンや学生と地続きの場所で起こった事件だった。

 私個人の話をすれば、私は、オウムをめぐる捜査と報道が最も加熱していた1990年代の前半は、アルコール依存症の最終段階にいて、ほとんどまったく酒浸りだった。

 医者の診断を得て断酒に踏み切ったのが95年の5月で、ほとんど麻原彰晃の逮捕と同じタイミングに当たる。
 で、治療の過程で処方された抗うつ剤の影響で、95年の後半は、なんだかハイな気分で過ごしていたことを覚えている。

 なので、オウムが信者の洗脳に各種の麻薬や向精神薬を使っていたという報道は、まったく他人事に思えなかった。

 理由は、向精神薬が単に気分を上下させるだけでなく、人生観の根本をいとも簡単に変えてしまうものであることを身をもって知ったからだ。

 抗うつ剤を処方されている間、私は別人だった。
 で、それをやめると、もとの自分に戻った。

 ということは、「私」という現象は、かなりの部分でケミカルな反応にすぎないということでもある。

 もうひとつ、オウムが残した影響のひとつに、偏差値信仰の相対化ということがあったと思う。

 名だたる学歴エリートが雁首を揃えてあのバカバカしい陰謀論にハマっていたことを知ったことで、偏差値や学歴といったあたりのタームについて、世間の目が醒めた部分があって、良い意味でも悪い意味でも、彼らが既存の信仰をぶち壊したことの影響は現在に及んでいる。AO入試や推薦入学による大学進学者の比率が増えたことも、そもそもオウム事件の影響によって学力試験による偏差値万能の選抜方法へ疑念が膨らんだことと無縁ではないだろう。

 ともあれ、それまでの日本人が信じていた「確からしいこと」に疑念を生じさせ、われわれが漠然と信奉していた「正しいっぽいこと」を泥まみれにした意味で、彼らの犯行は非常に後の世に大きな影響をもたらしたと思う。

 死刑への考え方も、オウムがあるのとないのではまるで違うはずだ。
 私は、死刑についても、オウムについても、いまだに確たる答えを見いだせずにいる。

 なんだか支離滅裂な原稿になってしまった。
 オウムについては、これまでにも何度か原稿を書いたことがあるのだが、毎回必ず支離滅裂な文章になる。

 最後に書いたのは10年以上前だが、その時も、支離滅裂なテキストの出来上がりにわがことながら恥ずかしい思いを抱いたことを覚えている。

 今回も同じ次第になった。
 なんとかまとめてみようとも思うのだが、どうやってもまとまらない。
 それだけ、オウムは私の様々な部分を刺激する大ネタなのだろう。

 でもまあ、アタマの中にある支離滅裂な思いをそのまま書けたのは、お手柄かもしれない。

 オウムの失敗は、人それぞれの中にある乱雑な思考に統一的な秩序をもたらそうとしたところにあったはずで、私がオウムのような思想にハマらずに済んだのは、支離滅裂を維持できているからでもあるのだろう。

 以上、はなはだ乱雑な結論だが、これで終わりにしたい。
 私は、おそらくオウムを一生涯理解できないと思う。
 その点についてはありがたいと思っている。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

箱根に由良拓也さんを訪ねて帰社した夜、涙目のバイト君に
「戻ってこないから、てっきり……」と言われた記憶が蘇りました。

 小田嶋さんの新刊が久しぶりに出ます。本連載担当編集者も初耳の、抱腹絶倒かつ壮絶なエピソードが語られていて、嬉しいような、悔しいような。以下、版元ミシマ社さんからの紹介です。


 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
 30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
 なぜ人は、何かに依存するのか? 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!

(本の紹介はこちらから)

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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。