パナソニックやソニー、シャープ、NEC――。「リストラ」の名の下、日本の名だたるエレクトロニクス関連企業から多くの技術者が退社を余儀なくされている。日経ビジネスの5月20日号の特集「パナソニック シャープを辞めた人たち」では両社から別の日本企業に転職したり、自ら起業したりしている技術者の奮闘する姿が紹介されている。

 一方で、日本企業から数多くの技術者が東アジアの企業、とりわけ韓国サムスングループに移籍しているのも事実だ。日経ビジネスオンラインの6月5日掲載記事「サムスンに多くの転職者を出した日本メーカーは?」によると、特許出願の分析の結果、パナソニックが最多という。以降、NEC、東芝、日立と続くとある。

 プロ野球の世界では日本を飛び出し米国のメジャーリーグへ、サッカー界では日本から欧州へそれぞれ移籍し活躍する選手に対して、賛辞や応援のメッセージは多い。企業人や学者でも、日本を離れて欧米に移籍している人たちは少なくない。

 筆者は青色発光ダイオードの発明者である元・日亜化学工業の中村修二氏と二度ほど直接会話をした経験があるが、同氏は会社を去る際に国内からのオファーはなかったと話していた。結局、国内での再就職先を見つけられず渡米して大学教授に転じた。ノーベル賞受賞者である根岸英一博士や利根川進博士も、日本の研究環境に不満を持って渡米し大きな成果を生み出した。

 一方で日本の技術者が韓国や中国へ移籍すると応援メッセージどころか、「日本を捨てた」、「裏切り者」、「技術・人材流出」など、数多くの批判が上がる。日本では終身雇用の概念が根付いてきた強烈な文化があり、弊害として人材が流動しない傾向が強い。世界的に見ても、このような国は日本以外には見当たらない。

 国内企業では、業績や競争力が低下し事業撤退や事業縮小の波が押し寄せると、決まってリストラの嵐が吹き荒れる。とはいえ、企業が最後まで面倒を見て就職先を斡旋してくれることはなく、リストラ対象者が自らのルートと実力で次の行き先を探さなければならないのが実態だ。

 日本国内でも、次の受け皿があって移籍を自然に行える文化やスカウトなどで移籍できるシステムなどが最近では少しずつ増えてきたものの、移籍によって待遇面の条件が上がるケースは少ない。多くは据え置かれるか逆に悪くなってしまう。だからこそ海外へ飛び出すことが多くなるわけで、国内に受け皿があるならば海外へ脱出する人材は少なくなるはずだ。

 筆者自身、ホンダの研究開発戦略と筆者の考え方が完全に食い違ったため、2004年にサムスングループのサムスンSDIに移籍したことは前回の本コラムで紹介した。実際に在籍した人間から見ても、これら日本企業出身の技術者は多かったと思う。

 ただ、サムスングループへ移籍する日本人技術者にもさまざまなタイプがいる。業種もさまざま。同業種からの移籍だけではない。性格も悩み考え抜いて移籍する者、逆にあまり熟考せずに移籍する者、韓国企業文化を積極的に理解して溶け込もうとする者、逆に日本企業の文化を押し付けようとする者などがいる。結果として在籍期間も異なり、1年以内に退社してしまう者も少なくない。

 とはいえ、日本企業からサムスンに移籍した人間が、その経緯を語ることはほとんどない。今回は、その一端を紹介したい。

助けてくれたサムスン

 きっかけは転職を考え大学教授に応募したものの、最終選考で落ち悶々としていた矢先の2004年1月中旬。筆者の勤めていた研究所のオフィスにかかってきた外線電話だった。聞いたことがない社名だったので「所得税対策のための不動産斡旋でしょう」と質問を投げかけると、「違います。正式なヘッドハンティングの会社です。ぜひ佐藤様に紹介したい案件があるので会えませんか」との返事があった。

 今後どのように仕事をしていくかを悩んでいたため、1月末に話だけは聞いてみようと思い、ヘッドハンティング会社の社長と面会することに。社長は会うなり、「オファーは日本ではなく韓国のサムスンSDIからです」とひと言。筆者もすかさず、「そうですか。ならば動かないですよ。すでに10年近くホンダで単身赴任しており、韓国に行くことになれば生活の基盤が不安定になってしまう」とまずは返答した。

 だが、この社長も粘り強い。「佐藤さん、いつでも断れます。だから話だけも聞いてみるのはどうでしょう」と何度も説得を受けた。妙に納得させられてしまい面会する運びへとなった。

 なぜ、筆者はサムスンからオファーを受けたのか。その理由を直接聞いたことはない。あくまでも想像だが、論文や学会発表、特許出願、著書など、筆者が対外的に発信していた情報が発端となったのだろう。振り返ると、2002年2月に米国・ラスベガスで開催された車載用電池に関する国際学会で講演した際に、サムスンSDIの役員から声をかけられ名刺交換したことがあった。

 ホンダでの腐食制御技術の開発や車載用電池の研究開発を推進してきた業務の中で、2001年には第1回として開催された車載用電池の国際会議「AABC: Advanced Automotive Battery Conference」で招待講演を披露したほか、2002年の同会議では「先進電池セッション」のチェアマンも任された。このような活動から筆者の存在を探すのは難しくない。今年の3月、ホンダ時代の後輩と会食した際に言われたことだが、筆者はホンダを離れて9年になるが、ホンダから発信されている論文や著書の数はいまだに筆者がトップだという。

 話を元に戻そう。実際、サムスンSDIの次長と面会してみると、「2000年に開始したリチウムイオン電池事業の規模を拡大したい。車載用リチウムイオン電池の研究開発をスタートし事業化につなげたい。太陽電池や燃料電池でも同様だ。これらの開発強化に向け、ぜひサムスンに来てほしい」という考えだった。

 車載用リチウムイオン電池に積極的な姿はホンダとは真逆。しかも、戦略そのものも筆者の考えに近かった。とはいえ、韓国行きのリスクは多く移籍を即答したわけではなかった。具体的に、「サムスンの業務は厳しいため、日本人技術者は1~2年で解雇されることが多い」、「日本人技術者が思い描く研究開発はできない」という噂を耳にしていた。急がずじっくり検討することに。

 噂は本当か、どこまで正しいか、他人の意見よりも直接自分の視点で見究める必要がある。何度か面会している中で、疑問に思ったことは遠慮なく尋ねた。これを繰り返す中で正しくない噂が見えてくる。

 「韓国のサムスンSDIを一度、見に来てほしい。中央研究所内をすべて案内する」というお誘いがあり、直接確認が必要と思った。真剣に移籍を考えても良いかなと思えるようになったのは、話を受けて1カ月が過ぎたあたりから。そうした中で人事部門から「ホンダでのキャリアと実績を提出してほしい」と要請されたのだった。

この記事は会員登録(無料)で続きをご覧いただけます
残り4244文字 / 全文文字

【お申し込み初月無料】有料会員なら…

  • 専門記者によるオリジナルコンテンツが読み放題
  • 著名経営者や有識者による動画、ウェビナーが見放題
  • 日経ビジネス最新号13年分のバックナンバーが読み放題