2週間休むと、身も心もすっかり緊張がほぐれる。別世界で暮らしているみたいだ。だから、休暇が終わった後、俗世間に戻ってくるのに難儀する。毎度同じだ。夏休み明けにいきなり登園拒否をはじめて、そのまま中退してしまった幼稚園の頃から、私の基本的な部分は変わっていないのかもしれない。
本来の私は、別天地に暮らすべく生まれついた人間だ。休みの方に適性がある。とはいえ、働かないと生きていけない。カネの話をしているのではない。働くことが人間を作り、人間の労働が世界を世界たらしめているということだ。だから、私が仕事を始めないと日本の新年が始まらない……と、それぐらいの絵空事を持ってこないと正月というパラレルワールドから帰還するミッションはうまく着地できないわけです。うむ。要らぬ前置きだった。でも、読者には不要でも、私には必要だったのだ。そう思って読み飛ばしてください。ここまではお正月のご挨拶。次の行から2012年の原稿がはじまります。本年もよろしくお願いします。
大晦日の夜。オウム事件の最後の容疑者の一人、平田信容疑者が警察に出頭した。
ニュースが配信されると、ツイッターのタイムラインには、平田容疑者の突然の出頭に驚く人々の声で賑わった。
「なぜ今頃出てきたんだ?」
「そんなことより、どうやって逃げおおせていたのでしょうか」
たしかに、日本中の辻々に手配写真が貼られている環境の中で、180cmを超えるという長身の平田容疑者が、事件以来17年の長きにわたって世間の監視の目を逃れていたのは、不思議といえば不思議な話だ。
が、私が一番意外の感に打たれたのは、彼が生きていたという事実そのものに対してだった。平田容疑者をはじめとする、オウム事件の残余の逃亡者について、私は、いずれどこかで死んでいるに違いないというふうに判断していた。たぶん、私は、そう考えることで、自分の中のオウム事件に終止符を打とうとしていたのだと思う。このことは、とりもなおさず、オウムについて考えることが、私にとって、重荷になっていたことを意味している。
オウム事件について考えることをやめたのは、整理がついたからではない。
逆だ。
考えても考えてもどうにも整理がつかないから、私はそれを放棄したのである。
この事件については、ずいぶんたくさんのことを考えた。他人の言説を色々と読んだりもした。でありながら、結局、意味が了解できなかった。だから、オウムについて考えると、いまでも胸のあたりがモヤモヤしてくる。
私のアタマの中には、考えてもうまく説明のつかない事柄を保管しておくための、倉庫のようなスペースがある。
その倉庫に納められたブツは、一定の時間が経過すると、焼却炉に移されて、順次消去されることになっている。
うまくすると、食べ残しの生ゴミが、たい肥に化けることもある。
が、オウムの記憶は、一向に風化しない。生ゴミのまま、アタマの中で、腐った匂いを立て続けている。つまり私はまだこの事件への執着を失っていないのだ。困ったことだ。謎は忘却によって治癒するしかないのだが、忘れられないものは仕方がない。もう一度考えるほかに対処法がない。
年が明けてからの報道を見ると、出頭を打診する電話を受けた警察官が、平田容疑者の話をいたずらとして処理したことや、最初に応対した警視庁の機動隊員が、出頭してきた平田容疑者の話をまともに取り合わなかった(「特別手配の平田です」などと何度も名乗った平田容疑者を追い返し、丸の内署か交番に行くように指示したのだそうだ)件について、その対応ぶりを非難する論調の記事が目立つ。
非難されるのは、なりゆきからして、仕方がないと思う。
でも、自分が当事者だったらと考えると、果たして適正に対応できていたのかどうか、正直に申し上げて、自信がない。おそらく私は、門前払いを発動したはずだ。
「ん? 平田信だと? ははは。素敵なジョークだけどさ。あいにく勤務中なんで付き合ってる時間は無いよ」
「いえ、本当に私が特別手配の平田信なのです」
「わかった。それじゃ、こうしよう。来年のこの日のこの時間にもう一度この場所に来なさい。そうしたら信じるから。ついでに、オレが一杯のかけそばをおごろう。な。来年の大晦日は二人して年越しそばでも食べながら、日本の将来について語り合おうじゃないか」
市民と直接に接する部署の警察官は、意味不明ないたずら電話や様子のおかしな人たちからの見当違いの通報に、恒常的に悩まされている。だから、前例の無いタイプのアプローチに対しては、第一感で、いたずらとして処理する習慣が身に付いている。
はるか昔、昭和五十年代のある年の元旦、皇宮警察にいたずら電話をした男たちがいる。もう時効だろうから紹介する。
彼らは、忘年会の流れで、酔っ払って歌舞伎町の電話ボックスからダイヤルしたのだそうだ。
「あけましておめでとうございます。そちらは天皇陛下でしょうか」
「いえ。◯◯と申します」
「陛下にあけましておめでとうございますと伝言をお願いしたいのですが」
「お名前を承ります」
「◯◯大学文学部3年生の◯◯と申します」
「了解しました。たしかにお伝えします」
「ありがとうございます」
この時の警察官が、本当に陛下に伝言を伝えたのかどうかは知らない(っていうか、伝えられるはずもないわけだが)が、ことほどさように、彼らはいたずら電話に慣れきっている。だから、平田容疑者による出頭の申し出を最初に処理した機動隊員が、いたずらだと思い込んだのは無理もなかったと私には思えるのだ。でなくても、
「オレの管轄じゃねえよ」
と、彼が思ったのは仕方がない。というのも、彼は、本庁の前を警護する役割りの人間であって、指名手配犯の出頭を取り継ぐ任務は、意識の中になかったはずだからだ。
警察官たるもの、本物の出頭といたずらを見分ける程度のセンスは当然備えていなければならない、という意見があることは承知している。私もその通りだと思う。しかしながら、本物の情報といたずらを見分けるのは、そんなに簡単な仕事ではない。
というのも、大事件は、それが大きな事件であればあるほど、ジョークじみて見えるはずだからだ。
凡庸な犯罪は凡庸な外形を備えている。だからそれは、どこからどう見ても犯罪に見える。
凡庸な犯罪者も、ありがちな相貌で登場する。それゆえ、彼らは全方位的に犯罪者らしく見える。
が、驚天動地の大事件や前代未聞の犯罪者は、必ずしも観察者の予見に沿ったカタチで登場しない。よって、彼らは警察官の目から見て(あるいはわれわれ一般人の目から見ても)、いたずらやジョークにしか見えなかったりする。
実際、オウム事件は、最後までどこか冗談じみていた。規模こそケタ外れだったが、事件の外形は、ガキのいたずらそのもので、だから、発端から収束まで、何もかもが、こちらの予断からハズれていたのである。
【初割・2/5締切】お申し込みで…
- 専門記者によるオリジナルコンテンツが読み放題
- 著名経営者や有識者による動画、ウェビナーが見放題
- 日経ビジネス最新号13年分のバックナンバーが読み放題